青氷の祠-34

一日の終わりに

 零時頃に一度〈neve〉に帰ったとき、二十一時過ぎに光樹が顔を出したと頼さんに聞いた。明け方に食事を取りにまた顔を出すと出ていったそうで、四時半にその日最後の仕事を終えた僕は、〈neve〉に立ち寄ってみた。すると、人もまばらで閉店間際のそこでは、光樹がきのこのスープパスタを食べていた。
「あれ、碧織」
 カウンターから振り返った光樹は、僕のすがたにまばたきをした。髪に湿り気を残す僕は笑みになり、「来ちゃった」とカウンターに歩み寄る。あくびを噛む頼さんにアイスミルクティーを注文すると、光樹の隣に座って彼と顔を合わせる。
「時間、大丈夫なの」
「今日は上がった」
「そっ。逢えずじまいかと思った」
「僕も期待してなかった。でも、逢えるんなら逢っときたいしさ」
「へへ、そうだね。髪濡れてるね」
「近道でまっすぐ来たんだ。ここのクーラー、ちょっと頭痛い」
 光樹は咲い、チーズの匂いが柔らかなスープパスタをフォークに絡めた。僕は腰のだるさをスツールにおろし、頭の重みを頬杖に預ける。
 店内には売れ残りの男娼もおらず、ヒマをヒマでつぶす客しかいない。
 光樹の向こう側には茶色のリュックがあり、今日の彼はペンダントやブレスレットをしていた。
「宣伝しにきたの」
 僕の質問に「ん」と光樹は慌てて口の中のものを飲みこむ。
「うん。今度の日曜なんで」
「またひとり」
「です。碧織のチケットあるよ。どっちみち予約取り置きするけど」
 光樹はフォークを置いて、リュックを膝に乗せた。フライヤーは散らかしきったのか、くたっとして軽そうだ。
 銀のかたどりにパレットのように色彩がならぶブレスレットをはめた手をさしこみ、光樹はリュックから財布を取り出す。首にさがっているのは、黒いシャツに映える銀の髑髏だ。相変わらずだなあ、と爪楊枝できのこをつまみ食いする。
「はい。これね」
「はいはい」
「あと、打ち上げ場所」
「こないだのとこ」
「だね。ま、一応」
 僕と光樹は金とチケットを交換し、僕はチケットとメモを大切にポケットにしまう。光樹も財布をリュックを戻し、改めて銀のフォークを持った。
「早いね。こないだライヴだったのに」
「そう?」
「普通かな。僕、日にちの感覚がないんで。予約が何日何時に入ってるとか、そんなんは憶えてるんだけど」
「僕は月一ってつまんないな。お金があればいいのに」
「出演する料金」
「んー、チケットノルマは苦じゃないよ。チケを頑張ってさばけばいいんだし。機材とかスタジオとか、そのためのお金稼ぐ仕事に時間取られるんだよね」
「何かめんどくさいね」
「クリエイティヴなことには単純にお金がいるんだよ。親に仕送りとかもらえてる人はゆとりあって得だよね。練習する時間も、ライヴやる時間も作れて」
 光樹がぶつぶつとしていると、頼さんがミルクティーを持ってくる。「どうも」と受け取ると、頼さんは経営者らしくなく、とっとと店を閉じたいようなあくびをする。
 とはいえ、ここの閉店は原則的に五時だ。元は六時だったそうなのだが、それだと昼夜正常に生きる酔狂な客が早朝来店し、厄介だったらしい。
「光樹は仕送りされてなかったっけ」
「されてないよ。堅気やるなら手助けしてやるって言われてるうちに、二十歳になっちゃったし。僕たちの中で仕送りされてるのは、美静だけだね」
「されてるんだ」
「美静はお金稼ぐってより、人と接するのに慣れるために働いてんだし」
「そっか。そだね」
 僕は美静のロックギタリストっぽくない温容を思い返し、耳に挟んだ彼の過去も想う。
「碧織はすっごく稼いでんだろうね」
「貸してもいいよ」
「返せるあてもないのに」
「じゃあ、あげる」
「いいってば。碧織ってお金何に使ってんの」
「えー。家賃と、光熱費と、食費と洗濯、コンドーム、煙草──毬音のクレヨンとか」
「質素だね。お金あまってない?」
「貧乏ではなくても、そんなに死に金があるわけでもないよ」
「貯金っていいなよ」
「一緒だもん」とストローをさした甘いミルクティーをすする。
「僕、贅沢したくて男娼やってんじゃないし。あ、香水がけっこう金食うね。ブランドだし」
「今日匂い強いね」
「つけてきたばっかなんで。嫌?」
「ううん。その匂い嗅ぐと、碧織って感じ」
 僕たちは笑みを重ね、しばし食べ物を向いた。僕はなおも爪楊枝できのこをつつく。「これ僕の夕ごはんなんだよ」と光樹は眉を寄せる。
「このあと帰るの」
「うん。宣伝もしたし。帰って寝る。明日、スタジオのためにバイトのシフト代わってもらっててさ、早いし」
「光樹たちって、ライヴ宣伝する必要あんの? しなくても来るんじゃない」
「そんなことないよ。やっぱ知らせて歩かないと。お客さんみんなが、ライヴハウスでスケジュールをチェックするわけじゃないし。でもまあ、チケ欲しいって言われてあげられないときはつらいね」
「あげられないときあるの?」
「キャパが小さいとか、あと、対バン相手によってはね。演者に人気バンドがいたら、すぐチケなんてはけちゃうから」
「僕はいつももらってるよ」
「碧織は特別なの」
「あ、そういや、寝た女の子とどうなった?」
「……話飛んだね」
「いや、その子も特別になったのかなあと」
「んー、まあ。こないだ会ったけど。どうなんでしょうね」
「避妊はしたほうがいいよ」とストローに口をつけると、「恋愛になっちゃうのかなあ」と光樹はげんなりする。
「やだなー。僕、ちょっと恋愛恐怖症だよ。自分の悪趣味が怖いっ」
「悪趣味」
「女を見る目がないんだよね。僕って本命にしようと思えないらしいんだ。すぐ浮気されたり、約束破るとかばっか。もうやだ」
「女にしたら、光樹って甘えられるんじゃない? 優しいし。褒め言葉だよ」
「じゃあどうすればいいの」
「もっと主張して、相手に自分とつきあってる責任を持たせたら」
「重くない?」
「その重さを喜ぶのが恋愛でしょ」
「何」と光樹は皿を彷徨っていたスプーンを動かす手を止める。
「碧織、好きな女の子できたの」
「できてないです」
「すんごい経験積んだみたい」
「愛は責任を責任と呼ばないことだとは思うよ。だって僕、愛に無責任だから売り物にできるんだもん」
「押しつけて嫌われたらとか思うんだよね」
「ふん、預けたら嫌ってくるような女、とっとと切れたほうがいいじゃん」
 僕と光樹は顔を合わせた。光樹は僕の肩に手を置くと、スープパスタに向き直る。
 光樹が夕食を食べ終わると、僕たちは一緒に外に出た。白みはじめた空に電飾はかすれ、人も退散しつつある。ざわめきはあれど、頓狂な音の混ざりあいではない。早朝の風が肌に心地よかった。
 歩いて帰るのかと光樹に訊くと、六時頃に七夏が車で迎えにくるのだそうだ。
「で、碧織はここんとこで何かあった?」
「んー。あ、客とごたごたがあったな」
「ごたごた」
 例の輪姦三人組について語る。三人が弓弦の仲間に連れていかれたところまで話すと、「その三人どうなったの」と光樹は首をかたむけて橙色を揺らした。
「さあ。骨は数ヵ所折られたかと」
「そうされて当然だと思う?」
「当然とは思わなくても、ほっといてつけあがるのを考えたら」
「ま、その人たちのためだね。半殺しで済む不正のうちに思い知らせる」
「ナイフ久しぶりに使ったな。僕の首を絞めすぎた男以来か。ナイフひけらかすなんて、ガキみたいでやなんだけど」
「今回は使わなきゃきつかったでしょ。三対一」
「うん。あ、でね、そのあと帰ってお薬をしました」
「ダメだよ」
「いらついてたんだもん。掃除とかしたんだろうね、気づくと風呂場とかぴかぴかになってんの。今はちゃんと抜いたよ」
「もう」と光樹は眉を顰めて正面を向いた。「怒んないでよ」と前にまわると、「碧織がジャンキーになったら僕は泣くからね」と光樹は心配を綯い混ぜにしてふくれっ面になる。そう言ってくれる人がいるのは、何より理性を保たせる。僕は咲って、「なるべく抑えます」と約束した。
 飲食街を抜けてビル街にさしかかる頃には、空は蒼く薄らいでいた。人通りもいっそう貧弱になっていく。明け方にはこうして冷たい空気に、「長袖出しといたほうがいいかなあ」となんて言っていたときだ。
 視界に見憶えのある黒髪が映って、はっとした。
「……珠生だ」
「え」と光樹はきょろきょろした。僕たちと同じ進行方向で、前方をぼんやりと歩いている。後ろすがたで見分ける自分がムカつくが、僕はあいつには過敏なのだ。
「ほんとに」と光樹は豊かな瞳に好奇をたたえ、「嫌だよ」と僕は先まわりして言った。
「まだ何にも言ってないよ」
「声かけたいとか思ってるでしょ」
「顔見てみたい」
「じゃ、ひとりで行ってよ。僕知らない」
「いいじゃん」
「よくない。僕、その輪姦の日に珠生にも逢ったんだけど、そんとき暴言吐いて引っぱたい──」
「珠生っ!」
「光樹のバカあっ」
 雑音が引いていく通りで、ただでさえシンガーの光樹の声は珠生に届いた。珠生は足を止めて振り返り、遠目にも驚きを浮かべる。むくれる僕を引っぱり、光樹は珠生に駆け寄った。珠生の正面に行き着くと、僕は怒った仕種で光樹の手をはらう。「いらつかないでよ」と光樹に言われても、そっぽをして珠生の顔を見ない。
「久しぶりだね」
「……え。ああ、うん」
 珠生の声にはとまどいがあり、光樹は興味深そうに美が一貫された珠生の容姿を見つめた。珠生の視線が僕の頬に触れ、無視しようと思ったものの、何か言われたら癪だと思い直し、「何?」とトゲっぽい眼を突き刺す。珠生は気後れしつつ、光樹を弱く見た。
「これ──客?」
 僕と光樹はきょとんとした。途端、一緒に噴き出してしまい、さらに珠生を狼狽えさせる。「分かんなかった?」と光樹は胸を抑えて笑いをこらえる。
「僕、光樹だよ」
「え」
「憶えてない? ほら、母親について外に行った」
「あ、あ──え、光樹」
「そう。そうだよね、分かんないよね」
「その髪」
「染めてるんだ。そんな突飛でもないでしょ」
 珠生はぎこちなくうなずく。いったん視線を足元に落とし、整理をつけると再び顔を上げる。
「また、ここに暮らしてんの」
「彩雪にね。かあさんは外だよ。結婚うまくいかせたんだ」
「彩雪なのか」
「バンドやってるんで」
「バンド」と珠生は素直にまた驚き、「男娼じゃなくて」と見れば分かる質問まで口走る。
「男娼には片足も突っ込まなかったよ。彩雪で歌を歌ってる」
「いつから」
「十四。中二の終わりかな。メンバーとも中学で逢ったんだ」
「中学生でこっちに来たのか」
「ううん。すぐ歌えるようになるもんでもないしね。中学のあいだはトレーニングして、こっちに戻ってきたのは卒業後」
「じゃあ、もう外には行ってないんだ」
「親に会いにいくよ。でも、ここにへばりついてるね。やっぱ外はダメだったんだ」
「はあ」と珠生は間の抜けた返答をし、変わったよなあ、と脇で観察する僕は思う。相変わらずムカつくところもあれ、珠生は変わった。『はあ』なんて機知も毒もない返事など、手抜きのなかった以前の珠生なら嫌悪さえしていたはずだ。「こことは縁切れてるかと思ってた」と珠生は光樹にまばゆそうにする。
「それはできませんでした。碧織とだってよく逢ってるもん。ね」
「うん」
「碧織がライヴに来てくれたりもする」
「ライヴって、やっぱ、彩雪でだよな」
「そりゃね」
「碧織、行くのか」
「光樹のためだもん」
 珠生はいささか臆面し、僕と光樹ははにかみを混ぜてにっこりとしあう。「バンドって売れてんの」という珠生の問いに、「そこそこね」と光樹は視線を空に浮かす。
「チケット、ソールドアウトにはできるし。もちろんワンマンじゃないけど」
「そんな方向に行くとは思ってなかった」
「僕もだよ。プロになる気はなくてもね」
「………、変わったな」
「珠生もね。今時間ないんで、今度逢えたらゆっくり話そう。あ、ここに戻ってきたんだよね」
「ん、ああ」
「じゃあ、機会はいつでもあるね。ふふ、僕も碧織に帰ってきたって聞いてびっくりしたんだ。じゃ」
 光樹に肩を押され、僕はそれに乗っかって珠生に挨拶もせずに歩き出した。朝陽が目覚めて寂れていく道を、鳥の声の元でしばらく黙って進む。風に髪と香水がなびいていた。
 光樹は何気なく後方を振り向き、珠生のすがたがないか、あるいは遠いかを確かめ、それからやっと僕と瞳を合わせた。
「すごいね」
「すごい」
「あんなに変わってるとは思わなかった」
「でしょ」
「接してやってるって感じがなかった」
「薬とか宗教にあてられたのかもしれない」
「容姿は碧織の言う通りだね。容姿だけ別人じゃない証拠かなあ。あれは碧織の一時期にも劣らない悲惨な経験をしてきたのでは」
「そうなのかなあ」と僕はごみごみした地面に転がる空き缶を蹴る。思ったより音は響いて、電線にいた鳥も逃げ、慌てて追いかけて足で止める。
「そんな感じじゃない? 疲れて丸くなったって」
「まあね。でも、昔の珠生にどんな不幸がどうやってつけいったんだろ。男が変わったとは話してたけど」
「駈け落ちした相手?」
「そう」
「殴るとかされてたのかな」
「暴力であいつが更生するかな」
「碧織とか僕には暴力は日常でも、珠生は違ったでしょ。わりと不幸に免疫がないんじゃないかな」
 こまねいて仏頂面になる。それも一理ある。
「ま、僕たちには珠生と五年のブランクもあるんだよね。それも豹変って感じさせるのかな」
「歳食ってるよね」
「そんな感じだね。まあ、僕は碧織ほど珠生に詳しくないんだけど。珠生が来て、一年もせずに外に行っちゃったし」
「そっか。そうだよね、考えれば」
「僕が心配なのは碧織なんだよね。あれなら害ないんじゃない?」
「僕に対してはムカつくときがある」
「……やっぱそうか」
「つっても僕、昔よりやり返せてるし」
「引っぱたいたとか言ってたね」と光樹はあきれて咲い、朝陽に黒曜石を光らせる。
「別に気分爽快ではなかったよ。僕、暴力振るって楽しい人ではないんで」
「えっ、そうなの」
「そうだよ。切れたら殴るだけ」
「僕は碧織に殴られたことないな」
「光樹を殴るときの基準は別なんだよ。バカやって自滅しようとしたら殴る。……僕もね」
 背後にのぼる桃色と橙色が織りなす蒼い光の中で照れ咲い、光樹もくすりと微笑む。その光に、光樹の髪も僕の前髪も金色に透かされていた。珠生に関する心ないうわさに戻っていると、僕たちは別れ道の十字路に到着する。
「じゃ、今度の日曜にね」
「逢えてよかったよ。そうこうしてるうちに、六時近いし」
 光樹は長年変わらない瞳で咲い、そばにいたのが光樹で五年消えてたのが珠生でよかったなんて思う。
「じゃあね」と僕たちは別れ、光樹はまっすぐ行って環状線に出て、僕はビル街を夕町へと抜ける。
 そういえば、夏乃はまだ部屋で療養しているのだろうか。やだなあ、と眠たい目をこすっても、死にかけて静かならいいかと譲歩し、水色になっていく空と腰のだるさに部屋へと急いだ。

第三十五章へ

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