路地裏の奥で
そんな疑問を揺蕩わせていた休息日、僕は弓弦の配慮を無視して〈neve〉におもむき、幸運にも僕と出逢えた客とモーテルにもつれこんでいた。仲介料がなかったぶん、彼はチップを弾んでくれて、僕は笑顔で受け取る。共に過ごす時間に制限はなくても、部屋を借りた時間はある。ぎりぎりまで僕は彼の腕に抱かれ、幼く脱力してうっとりとしていた。「また会いにくるよ」と約束してくれた彼と別れると、僕も〈neve〉に帰ることにした。
九月いっぱいは、残暑と人の熱気が夏の夜を欺いていたけれど、十月にもなると夜には涼風が頬に感じられる。踊るネオンで安全そうな路地裏がないか探していると、T字路に着いてしまった。左手に曲がり、宿屋街と飲食街が重なった通りを抜ければ、周りの人間がふたり連れとは限らなくなって、飲食街だ。
十月なので、また家賃を振りこまなくてはならない。僕に半殺しにされた夏乃は、足腰が立つようになると逃げていった。だが、あの女は戻ってくるに決まっている。「引っ越したら」と毬音は倦色し、娘の賢明な提案に僕も大家に話を切り出そうか検討している。その前に引っ越し先がないといけない。帰りに住宅情報誌買ってこ、と思っていると、僕はレストランのショウウィンドウの明かりに珠生を見つけた。
レストランの壁にもたれてうつむき、地面を爪先で蹴っている。Tシャツの上に長袖の格子縞のシャツを羽織り、下はジーンズだ。やや伸びた前髪がかかって顔は窺えなくも、あの漆黒の光沢は珠生に間違いない。明るい喧騒を暗い軒下にはじかれ、ちょっと孤独な感じだ。やっぱ変、とないがしろに歩調を戻そうとすると、ふとその珠生の前に青いシャツを着た男が立ち止まった。
何だ、と流れる人混みの中で足を止める。しかし、ごちゃごちゃした人通りが視界を邪魔する。雑音に話し声も聞き取れず、覗く角度をいろいろ試した。すると、人混みの隙間に珠生が男に顔を上げているのが見えた。
怪訝そうでなく、じっと見つめている。知り合いだろうか。昔の客とか。やはり誰かとここに来たのか。もしくは新しい恋人か。どれもありえそうでかえってこんがらかっていると、男は珠生の肩に手を伸ばした。
男娼復帰か。そう思った途端、珠生は壁に預けていた背中をはがし、肩に伸びた男の手からするりとその腕に身を収めた。まるで長年そこを居場所にしていたようななめらかさは、さすが元淫売だ。というか、もう “元”ではないのか──混乱するヒマも与えず、ふたりは向こうの陰った路地裏に入って、僕の視界を失せてしまった。
路地裏を抜ければ、向こうは宿屋街だ。通行の邪魔なのでひとまず道端に引き、マジか、と神経質にこまねいた。
珠生は男娼に復帰したのか。悔しいけれど、堅気や窃盗より遥かに信憑性はある。
そうだよな、とぱたぱたと地面を踏み鳴らす。赤線の店に戻って淫売をするとは限らない。青線の個人営業だってありうるし、そうしたら明確な証拠もなくうわさも不安定になるだろうし──売春は向いてないとか言ってたくせに、と信じてもいなかったいつぞやの言葉を掘り返し、どんと地面を踏み鳴らす。
あんな青線営業は、窃盗以上に珠生とかけはなれてもいる。あんなのは、はっきりいって立ちんぼだ。もっとも下等な淫売だ。もっとも上位にいたあいつが、あんな低級商売をやるなんて。実際見たのだし、ここは懐疑に迷いこめないけれど。
珠生は自尊心のかたまりだった。自信と、傲慢と、高飛車を持ちあわせ、美しい羽で人をたぶらかしては僕を高笑いの鱗粉で咳きこませていた。立ちんぼなんて、言い切って珠生は軽蔑していた。ドブでのたうつ稼業であり、その泥水で高級売春の名前まで汚すなとか思っていたと思う。それを、みずからそのドブに身を落とすとは──。
とてつもない悲劇を珠生の駆け落ちに妄想してしまう。現在の珠生には、最低限の自尊心すら消え失せたようだ。
いまどき、不見転の立ちんぼなんて何があるか知れない。僕が蛍華さんの名前で売れるぐらいならと街娼になろうとしたとき、豹さんがまくしたてた制止は現実だ。現在はさらにひどいかもしれない。暴力も、薬物も、病気も、死に至る危険がすべて隣り合わせにある。
街娼なんて、どんどん狭く暗くなる道に等しい。死に向かって刹那的に食いつないでいく、そんな商売だ。夏場に放置されて傷んでいく食べもののように、見る間に悪臭を放って腐っていく。珠生だって淫売だったのだから、そんなのは知っているはずなのだ。すなわち彼は、無鉄砲でなく、分かって立ちんぼをやっているということで──昔の珠生を誰より知る僕は、信じられなくて息をつきながら、騒がしさの中を歩き出す。
だが、事は終わっていなかった。何となしにふたりが消えた路地裏に横目をやり、どきっと心臓を痛めて立ち止まった。奥のほうにうごめくふたつの影があったのだ。いや、珠生とあの男かは分からない──と思ったものの、暗闇にあの黒い艶めきが脈打って、すぐさま確信を強要された。
何で。
とっさにそう思った。
まさか。そんな。冗談だ。珠生が路頭で客を取った。その上、路地裏でさっそく商売をやっている!
脳裏に数年前の珠生がよぎった。僕を皮肉で揶揄い、軽やかに嗤い、眇目で心を切りつけてきた珠生が。客に軆を開くこともできない僕に、珠生は自分のしなやかな勤めを突きつけ、あらゆる心ない毒でなじった。お前は淫売じゃない、お前なんか売る価値もない、客を想うなら淫売なんかやめてしまえ──たくさんの男に崇められる光の中で、珠生はそう僕に唾を吐いた。
そんな彼が、今みすぼらしい路地裏の影で男に犯されている。
彼は何によって、そんなに光をもぎとられたのだろう。憎たらしいほど揺るぎなかった高慢を、何にそうも完璧に打ち砕かれたのか。
珠生は変わった。完全に変わった。もうあの尊大な珠生ではない。彼は卑しいほどみじめになっている。何がどうやって、あそこまでの自信をそうもドブに沈めさせたのか。
影は前戯もなく激しく動いている。僕はたたずんでそれを見つめていた。物乞いを見るような、同情と軽蔑の入り混じった穢れた目つきで。何も見えないに近い。人混みの向こうの暗闇で、重なった影が漠然と立ったまま上下している。それしか見えない。
それでも僕は、急に五感を圧迫された気がした。汚い息遣い、醜い喘ぎ、べたついた汗、糸を引く唾液、それらの臭いにかぶさる熱さえない青臭い──
喉に吐き気がせりあげ、唇を噛んで胸を抑えた。足元に目をそらした。後味の悪い暗雲が呼吸に垂れこめ、眉を嫌悪に顰める。何かを飲みこむと嘔吐しそうで、口の中に酸っぱい生唾が溜まった。
ようやくそれを飲みこむと、路地裏に目をやった。青いシャツの男がひとりで出てきて、特に蕩かされた様子もなく人混みに混じっていった。
路地裏では残された影がうずくまっている。僕が突っ立っているのと同じく、それもへたりこんで微動だにしない。僕は糸のごとく細い息をつくと、ゆっくり人の流れを横断して路地裏に踏みこんだ。
湿っぽい苔の匂いに、精液の臭いがただよっている。半袖に空気は冷たく、通りの雑音が耳に遠くなる。途中、空のペットボトルが転がっていた。薄暗くも、見通しがきかないほどではない。
数メートル進み、裏道に近いところに珠生は地面にじかに尻をつけていた。壁にもたれ、うなだれ、ジッパーは引きっぱなしだ。僕は彼の足元に放られる紙に目を剥いた。
千円札一枚──
「おい」
僕に気づいていなかったのか、珠生はびくっと肩を打たせて顔を上げた。白い頬が瞳からしたたるものに濡れ、瞳は例えようもなく怯えきっていた。
引き攣れた呼吸が、僕だと認めてわずかに緩む。彼はほつれ、脱線し、一瞬容姿さえも彼が本物の珠生なのかと疑わせた。
「碧織──」
「お前、何やってんだよ」
「え」
「ほかに何かもらったんだよな」
「……は?」
「千円なんて冗談だろ。何考えてんだよ」
珠生は足元の金に目を落とした。僕の瞳と喉は震えていた。珠生はそっと咲うと、苔がついた指を紙幣の皺に這わせる。
「最後までさせたら、倍にしてやるって」
「それでも二千円じゃん」
「ちゃんと倍になってる」
「………、お前、頭切れたんじゃないの。そんな、一万よこされたって、せいぜいフェラだったくせに」
「お前は三万出されてもキスまでだった。すごいな」
「何言ってんだよ。何で。お前まさか、ここに来て以来、こんな立ちんぼで生きてんじゃないだろうな」
珠生は濡れた黒い瞳で僕を見つめた。その瞳には、何か言いたそうに言葉が詰まっていた。でも珠生は、長い睫毛を伏せて何も読み取らせず、壁に深く虚脱する。
「ほかにどうやって生きていけばいいのか分かんないよ」
「ちゃんとしたとこでやればいいじゃん」
「お前がなってほしくないだろ」
「はあ? シャブでも食ってんのかよ。あんなに僕を踏みつぶしたがってたのに」
「お前に勝てるわけないよ」
「勝たなくていいけどさ、ちゃんとしたとこにやれるのにわざわざこんなのしなくていいじゃん。それとも何、僕に勝てなきゃ高級より低級のがいいっての」
珠生は金を手中に握りしめ、下着が覗けるジッパーをあげた。
にわかに、眼前がくらみそうな嫌悪を覚えた。珠生に対してというより、その珠生のざまは一時期の僕に酷似していた。豹さんの元を逃げだし、惨憺たることになっていたあの頃の僕に──
珠生に歩み寄り、そのかたわらにしゃがみこんだ。
「しっかりしろよ。気味悪い。あのプライドはどこに行ったんだよ」
珠生は僕を前髪の隙間で虚ろに見た。黒い瞳は濁り、何も生き物が住んでいない沼を思わせた。
「千円なんて、何考えてんだよ」
「俺なんか、ほんとは一円ももらう価値ない」
「僕もそう思うよ。でも、お前が自分でもそう思ってどうすんだよ。マジで病気なんじゃないの」
珠生は今際じみた浅い息で僕を見つめ、一度まぶたを閉じると、地面に千円を握るこぶしをついて立ち上がった。僕は彼を見上げ、珠生は僕を見下ろす。侮るえらぶった感はなかった。首を垂れて地面を見つめるように、僕を見つめる。そして口を開き、そののち、かすれた声を乗せた。
「お前には関係ない」
珠生を見つめた。珠生は僕に背を向けて裏道へと消えた。怒りはなかった。たっぷり息を溜めた珠生の言葉は、混濁して心がこもっていなかった。虚勢なのが明らかで、かえって僕の喉を閉塞させた。
心配しているような台詞だったが、本心ではあった。信じられなかった。珠生が立ちんぼ。路地裏で営業。報酬は千円。
僕に目を細めて蔑み嗤っていた人間のやることだろうか。何を考えているのだろう。あの甲高いプライドはどこにいったのか。そこまで駈け落ちでごっそりと中枢を喪心させられたのか。
疑念が切実になってくる。珠生は五年間、外で何をしていたのだろう。男との揉めごとだけだったのか。きっと違う。助けたいと思うわけではない。ただ、あいつは何をそんなに傷ついているのだろう。
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