憎みあう家庭
瀕死がかろうじて回復した隙に出ていったのだから、夏乃はしばらく帰ってこないだろうと踏んでいた。
しかし、この女はときに思いもよらないところでさらにずぶとくなる。僕は珠生のことで住宅情報誌を買うのを忘れていた。夕食も食べて片づけもして、寝るか、と煙草をつぶしていたところで、突如荒れ狂った夏乃が部屋に殴りこんできた。
ドアにかかとが思いっきりぶつかるまで、室内はカーテンに薄暗い中、鳥の声が聞こえるだけで穏やかだった。エアコンもついていなくて、僕の物思いの煙草が空気に溜まっている。毬音は先に寝ていた。野宿とかしてんのかもなあ、と珠生についての思索の中、灰皿につぶしていた指を引きあげようとしたそのとき、ドアを蹴破る音がリビングに突き抜けてきた。
犯人は、瞬時に誰だか分かった。僕は陰気に眉を顰め、隣の毬音も天井に目を開いた。だが、あいつは鍵を持っていなかったはずだ。顔を突き合わせたくない。ほっとけば失せるかと、今うるさいのは我慢してふとんにもぐりこもうとしたら、かちゃかちゃとおぞましい音が聞こえた。
素早く身を起こす。何だ。見つかったのか。がたんとドアが開き、いらだたしく靴を脱ぐ音がする。うんざりした面持ちでふとんがかかった膝に頬杖をつくと、夏乃は階下の人間に迷惑な足取りで部屋に踏みこんできた。
波打った茶髪もきつい化粧も変わりない。くせのある香水が距離をおいてもこちらに届いた。まぶたや頬には紫がうすく染みついていても、引きずりまわしたときついた腕の痣、僕への反抗に振りまわして自分でつけた脚の傷は消えていた。僕は首をかたむけて手のひらに頬をつぶすと、「何?」と言う。
「あんたを殺しにきたわ」
「ふうん」
「本気よ」
「そうだろうね」
「あんたのせいであたしはめちゃくちゃよ」
「お前がめちゃくちゃにされにくるんだろ。僕を殺すヒマがあったら、ここに帰ってこないんだね」
「ここはあたしの部屋よ」
「二ヵ月も家賃はらってなくてぬかすなよ。お前はここの住人じゃない。ほら、とっとと出ていくんだ」
「そのガキだってはらってないわ」
「そうとう情けないこと言ってるよ。ああ、鍵はもらっとかないとね」
右手をさしだすと、「これはあたしのだわ」と夏乃はすかして言う。
「お前、もうここに自由に出入りする立場じゃないだろ。よこせ」
「嫌よ」
「よこしなさい」
「ここはあたしの部屋じゃないっ」
「僕の部屋だ。名義だって僕だ。僕が暮らしてたとこに、お前がこのガキを持って転がりこんできたんだろ。家賃半分はらうからって。もうお前ははらってない。ここは僕の部屋だ。鍵をよこせ」
夏乃は僕をかっと睨みつけた。が、その瞳がたくらむようにかすかに細められたのを、僕は見逃さなかった。「いいわ」と夏乃が言いかけた拍子、僕は反射的に煙の残る灰皿を取って、彼女にぶん投げた。
命中した左肩はさいわい布におおわれていて、跳ね返った灰皿は僕のふとんに転がった。飛び散った吸い殻のけむりをこぶしでつぶし、すかさず身を起こして彼女に飛びかかる。僕の唐突な攻撃に、怒りより驚きに肩を抑えていた夏乃は、あっけなく僕にのしかかられた。
「なっ──」
僕は乱暴に彼女の両手をまとめて床にねじりつけると、左手で彼女の襟もとをつかんだ。ツイードの服にはちょうど胸にスリットが入っていて、そこから容赦なく服を引き裂く。
「何すんのよっ」
金切り声の嫌悪は無視し、彼女の下着に包まれた胸に探りを入れた。ない。ばたつく脚を膝で抑え、今度はスカートをたくしあげて下着を探った。夏乃は頬を蒼ざめさせる。僕は目を細めて、彼女に微笑みかけた。
「僕がここに突っ込むことしか考えてない男と思うなよ」
彼女の下着からはほっそりしたナイフが出てきた。膣もさぐったが、ここは何もない。思うに、女というのは下着の中に何を隠し持っているか知れないのだ。
「甘いな。武器を隠し持ってるときは、使う瞬間まで持ってることを気取らせないもんだよ」
「あんたがバケモノみたいに感づいたん──」
僕は冷ややかな目見でナイフを飛び出させ、彼女の喉に押しつけた。
「誰でも分かってたと思うよ。勝ち誇った顔が、餌を目の前にした犬よりよだれ垂らしてたし」
「あんたのせいで、あたしは死んだも同然よ」
「お前がわざわざ僕の顔を拝みにくるんだろ」
「あたし、一週間も客がろくに取れてないのよ」
「僕は関係ないじゃないか」
「あるわよっ。あんたがつけた傷のせいで、男がビビるのよ。あたしに手出ししたら、自分もこうされるんじゃないかとか。傷だらけじゃ萎えるって男もいたわ」
僕は笑った。おかしかったわけではないので、その声は冷酷にざらついていた。その感触が彼女の肌に障ったのか、馬乗りになられたかたちで夏乃は全身を激しくくねらせる。
「あんたのせいよっ。笑わないで。殺してやる、あんたなんかいなくなればいいっ」
「お前が会いにこなきゃいいんだろうが」
「あたしはここに休みにくるだけよっ。あんたがここにいなきゃいいんだわっ」
僕は心臓を突くようにナイフを床に突き立て、左手で無遠慮に彼女の頬を引っぱたいた。破裂音が響いたその手で破れた胸倉をつかむと、ねじりあげる夏乃の手を離れた右手で、きどった顎にがつっとこぶしを食らわす。
「ざけんなよ、このくそったれっ。自分の間抜け加減を自覚できないのもいいかげんにしろ、お前に起こることは全部お前の墓穴だ。自分をお姫様と思ってるみたいだな? そんなにお姫様にしてほしけりゃ、ほかの男につきあってもらうんだな。少なくとも僕はごめんだ。淫売も真っ当にやれない女が女王様なんて、僕は頭下げられたって言いなりにはなりたくないねっ」
「あんたが最低な男なのが悪いのよっ。すぐ怒鳴ってすぐ殴って、最低よっ。もっと優しい男になればいいじゃないっ」
「僕がいまさらそんな男になれると思ってんのか、そんなバカバカしい幻想持ってんなら今すぐ捨てろ。僕はこういう男なんだ。分かって帰ってくるお前が悪いんだよっ」
夏乃はフローリングに突き立ったナイフを手に取ろうとした。僕はそれより早くナイフを壁際にはねやった。そうした隙に、夏乃に胸倉をつかまれ、長い爪で頬を引っかかれた。
長い爪が鋭く頬骨に食いこみ、一気に口元まで肌を切りおろす。冷たい痛みが四本走り、ついで、痺れを介してすりむきが熱を帯びた。わめいた暴言に息を切らす僕は、夏乃の胸倉を離すとその頭を床に振り落とした。ばさっと茶髪が散らばり、後頭部と床でにぶい音がきしめく。
「こっちがおとなしくしてると思ってつけあがるなよっ。出ていけ、僕だってお前の面にはうんざりしてるんだっ。何でお前は僕の目の前にいるんだ、お前が消えろ、小賢しく舌まわして人のせいにしやがって、ああくそっ、どうやったらお前ほど無神経になれるんだろうなっ。お前は一度頭かちわって脳みそから洗い直さなきゃどうしようもないみたいだな、聞いてんのか低級淫売、いますぐ失せないならぶっ殺してやるっ!」
なおも夏乃の頭を床に殴りつけ、煩わしく腕に絡まった髪に唸り声をあげた。引き抜いて取りはらうと、夏乃におおいかぶさり、目の焦点が合っていない彼女の頬をこぶしでつらぬく。反動が肩まで跳ね返り、僕は無心にそれを求めるどす黒い炎を眼球に充満させる。
ひとしきり罰を与えたものの、夏乃は手ごたえをなくしていくばかりで、余計いらついてきた。ぶつけがいのあるものにたたきつけないと、この衝動はおさまりそうもない。
つかんでいた夏乃の胸倉を離すと、馬乗りになるまま部屋を見返った。いない。かけぶとんは剥がれている。僕は舌打ちして夏乃の上をおりると、焦れったく足を踏み鳴らしてわめいた。
「毬音!」
返事など期待していない。荒ぶる呼吸を抑えて耳を澄ましても、ビビった身動ぎの音はもれない。あの小娘は、夏乃よりは賢いと思う。
「どこだよクソガキ、うんざりしてんだろ、ぶっ殺してやるから出てこいよっ」
ふとんをでたらめに蹴散らし、右手の空き部屋のドアノブを引っつかんだ。だがそこは朝陽にホコリが幻想的にきらめいているだけだった。
はずれた予想がさらに僕の神経を切断し、ドアをたたき閉めると物置を覗く。ここもいない。散らかったふとんに凄惨な眼を向け、大股でリビングを横切ると押し入れを開けた。ふとんをかきだしてできた暗い空白に、毬音が抱えた膝に顔を伏せて身を縮めていた。
「出るんだ」
毬音は動かない。僕は彼女の髪を鷲掴んで強く引っぱった。毬音はうめきをもらして、反射的に右手を髪の根元にあて、僕はその腕を素早くつかむと小娘をふとんに引きずりだす。
「僕だって、こんなのはたくさんなんだ。自分だけ可哀想だと思うなよ。こんなの逃げ出したいとか思ってんだろ」
毬音は僕を睨みつけ、「あたしは逃げない」と気張った口調で言った。
「いつか捨てるだけだよ」
毬音の腹を、ふとんを散らかしたように蹴りつける。
「こんなの味わいたくないとは思ってんだな。いいよ、そうさせてやる。死ねばこんなのはおしまいだっ」
毬音の柔らかな胃にかかとを落とし、毬音はうめいて身を丸めた。僕はその脇腹に爪先を突き刺し、毬音はうつぶせにうずくまって髪を床に流す。僕は粉砕するように背骨に足を振り落とし、薄っぺらい肩をにじりつぶした。髪をつかんで無理に仰向けにさせると、のしかかって頬を殴る。
毬音は血の混じった唾を吐いた。頬にかかったそれに僕は一瞬視線を這わし、瞳をさらにぶあつくぎらつかせると、その腹をこぶしでつらぬいた。
毬音がぐったりして衝動が鎮まると、早いところまた神経が高ぶらないうちに部屋を出ることにした。ふたりとも死んでいるので、リュックに荷物をつめる余裕はある。ジーンズのポケットにも所要のものを突っこむと、気絶する夏乃をまたいで廊下に行こうとした。
すると、突然ジーンズの裾をつかまれ、眉をあげて足元を見おろす。
「あ、あんたは終わってるわ」
仰向けの夏乃は腫れあがったまぶたで僕を睨めつけ、舌が切れたか顎の骨が折れたかで、発音や息継ぎを乱しながら言う。
「人前では猫かぶっ──」
僕は脚を振って、夏乃の貧弱な手をはらった。
「あんたは悪魔よっ。かわいい男の子なんかじゃ、」
糞に砂をかける猫のように、僕は夏乃の痙攣する脇腹にかかとの蹴りを入れる。
「取り返しのつかないことして、今に好き勝手やれなくなる。監獄行きよっ。首くくられて、全部終わりになるんだわっ」
「ご忠告どうも」
リュックを肩にかけ、もう一度夏乃を蹴たくると部屋を出た。外はすっかり静まり返り、厚い雲が空で混雑した灰色の朝が蔓延している。
風が水の匂いにひやりとして、半袖のシャツを後悔する。上着を持ってこればよかった。けれど部屋に戻るのは億劫だし、どうしても欲しければ買うとしよう。
電線でひと休みする鳥たちのもと、眠くて痛むまぶたをこすって僕は宿屋街へと足を向けた。
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