初期化

 最近、また迷惑メールが増えてきた。出会い系なんて、どこから私のメアドを探り出してくるのだろう。こんなメールより、欲しいのは彰悟しょうごからのメールなのに。
 もう、あれからどのくらい連絡は来ていない? 一週間。二週間。一ヶ月。
 ほかの女といるのかなあと思うと、胸がひび割れる。誰も本命じゃないのは分かっている。彰悟はなるべく特定の相手を持たない。セフレばかり増やして、ふらふらしている、ダメな男。そんな男を本気で好きになった私は、本当にバカだ。
 こんなに好きでさえなければ、私はあの日、ようやく楽になれていたのに。
「やめよう」
 大学も休みの熱帯夜だった。適当なファミレスで食事をしたあと、いつも通りホテルへの道を歩いていたら、突然、彰悟が立ち止まった。
 私も足を止めて振り返った。いかがわしい色合いのイルミネーションの中、あまりよく彰悟の表情は窺えなかった。
「こういうの、もうやめようぜ」
「……え?」
「俺たち、友達になろう」
 言われた意味がよく分からなくて、彰悟を見つめた。彰悟は私に苦しげな瞳を投げかけた。
「お前のことは、何ていうか、もっと大事にしたい」
 そばを手をつなぐカップルが通りすぎていく。
「だから、このままじゃダメだ。もう全部やめて、友達になろう」
「……そんな、」
「ただの友達になろう。な? こんなのやめてさ」
 彰悟は私に歩み寄って、ぎこちない笑みを向けてきた。それを見る私は、徐々に不安定な恐怖に襲われはじめた。
 大事だから友達に? こいつがそんな男なわけない。
 私を捨てるつもりだ。「ただの友達」にしておいて、フェードアウトするんだ。
 そんなの──絶対に嫌だ。
「……いや」
「え」
「そんなの嫌。私はこのままでいい」
「何でだよ。このままじゃ、お前ただのセフレなんだぜ」
「それでいい」
「お前とは遊びたくないから、俺──」
「私のこと抱いてよ。それとも、この軆はもう飽きた?」
「そんなんじゃなくて、」
「じゃあ抱けばいいじゃない、変わらずに今まで通り。友達なんて絶対に嫌」
 彰悟は困惑を浮かべ、頭をかきむしって、「分かんねえよ」とつぶやく。
「何で……。セフレが友達になれるのに」
「友達なんて、一番最低じゃない」
「セフレのほうがひどいだろ? もうお前に、そういうことはしたくな──」
「私たちが友達になってどうなるの、何にもないじゃない」
「そんなことないだろっ。普通に……あのままファミレスでしゃべったりさ」
 笑ってしまった。あんな、空気を噛むように味気のない会話しかできないのに。私たちはいつも、そのあとホテルに行くから食事しているのだ。
「とにかく、お前とはこういうことは終わりだ。もうしない」
「彰悟」
「今日は、もうこのまま帰ろう。また連絡するから」
「待って、友達なんてやだよ」
「じゃあな」
 彰悟は身を返して、私は追いかけて腕をつかんだ。「お前なあっ」といういらだった声に、「捨てるって言われたほうがマシだよ」と涙をこらえながらすがりつく。
「友達なんて、無理だよ」
「できるって。俺はお前とのことは大切にしたいんだ」
「大事にしなくていいから、このまま、私を抱いて」
「あのな──」
「私のことおもちゃにしていいから、友達なんて言わないで」
 彰悟は私を振りはらって、「じゃあ、俺から連絡するまで連絡すんな」と言い捨てた。
「おもちゃなら、主人の言うこと聞いてろ」
 その場に突っ立つしかなかった。彰悟の背中が見えない。ゆがんで見えない。涙で視界がぐらぐらして見えない。
 ……あれ?
 私、今、彰悟の何?
 恋人でも、セフレでも、友達でもなく──
 彰悟と出逢ったのは、高校生のときだ。私が十七歳のとき、彰悟は二十歳で大学生だった。友達と遊んでいたら、大学生グループにナンパされて、その中に彰悟がいた。
「おもしろくなさそうだね」
 せっかく友達と楽しかったのに、ナンパされてみんな男のルックスに騒ぐほうにいそがしくなった。今日は友達と遊びたい気分だった私はむくれていて、そうしたら隣に彰悟が隣に座った。
 場所はファーストフードだったと思う。
「おかげさまで」
 そう言ってシェイクをすすっていると、「それ、ひと口ちょうだい」と言われた。私は眉を寄せて、彰悟の親しみやすい感じの顔立ちを見た。
「でもこれ、ストローで飲んでるし」
「ははっ。うん、じゃあ間接キスしよう」
 何言ってんだこいつ。まだ男と何も経験のなかった私が動揺していると、彰悟は身を乗り出して、素早く唇を重ねてきた。
 びくっと肩がこわばると、「消えよう」と手をつかまれた。私の友達も彰悟のと友達も、そんな私たちに気づかないほど何やら盛り上がっている。
 彰悟が立ち上がって、やっとみんながこちらを見ると、「この子もらってくぜ」と彰悟はにっとして、私をその場から連れ出した。
 私の初めては、全部彰悟だった。教えてくれる彼に、のめりこまないはずがなかった。
「彼女」ではないのは、早いうちから分かっていた。彰悟がいろんな女をふらついているのは、彰悟の友達にも忠告された。それでも私は、どんどん彰悟が好きになった。
 高校の卒業式、二、三年で同じクラスだった男の子に告白された。けっこう仲良くしている、「友達」だと思っている男の子だった。私は彰悟のことを話して、「遊ばれてるのは分かってるけど」と苦笑した。
「それでも、私は今はあいつが好きだから」
 彼は私を見つめて、少しうつむいて哀しそうに咲うと、「応援してる」と言った。「また連絡するよ」と私はそのとき言ったけど、結局、卒業式以降は彼とは音信不通だ。
 彰悟に軽くあつかわれて、思うときはあった。あのとき、あの子の告白に応じて、こんな軽い男は絶ち切っていたら。そしたら、もっと違った? 私はこんなに不安じゃなかった? 彰悟は軆でつなぎとめているだけ。もし、あの子だったら、私をこんなふうにほったらかしたりしなかったの?
 それでも、彰悟が好きだった。次第にその子のことは忘れて、私は二十歳の大学生になった。彰悟は柄にもなくサラリーマンをやっている。
 彼は相変わらず女の子をたらしていた。私のことは週に一度くらい呼び出して、ホテルで抱く。曖昧すぎる関係だったけど、彰悟が私で満足しているならそれでよかった。
 そんな男が、急に「友達になろう」なんて──自分はそうしただけに、最悪のことしか考えられない。
 このまま音信不通でしょ。そうなんでしょ。また連絡するなんて、やっぱり嘘だったじゃない。あの日からどのくらい経ったのか怖くて憶えていないけど、ずいぶん経った。
 ケータイが鳴る。また出会い系の迷惑メールだ。アドレス変えようかな、と鬱陶しく削除しかけて、不意に乾いた笑いがもれた。
 私は何をしているの。彰悟からのメールなんて来ないのに。待っていても仕方ない。私からメールしたら、彰悟はいつも怒る。
 何が友達だ。何が大切だ。都合のいい女も、そこまでされたら耐えられない。
 忘れよう。全部全部、消してしまおう。メールも登録も着歴も。でも、記憶は簡単に消せないから──
 出会い系のサイトを開いた。どんどん空欄に入力していく。これで男をあさって、軆をばらまいて、めちゃくちゃになってしまえばいい。私の初めてをすべて奪って、持っていって、道端で捨てた男のように、私もたくさんの男の欲望に溺れよう。
 そして壊れるのだ。壊れたらきっと、もう初期化するしかなくなる。
 私はやっと忘れられる。捨てられたくない。友達面もされたくない。おもちゃは遊ばれないと壊れる。
『登録が完了しました』
 ──数分もしないうちに、私の正気を故障させる着信が、いくつもいくつもつきはじめる。

 FIN

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