いちごが隣の部屋に乗りこんできた物音を聞いたのは、このアパートで僕だけではなかったと思う。
でもそれ以上に、ここの住人は誰もが隣人になど興味がない。それは僕も同じだったけど、左の隣室、104号室だけは僕のいいヒマつぶしだった。面した押し入れの壁が少しほころびていて、押し入れにこもると104号室を覗き見ることができるのだ。
104号室に住んでいるのは引きこもりの男で、接する外部といえばネットかデリヘル嬢ぐらい。デリヘル嬢が来ると、僕は奇妙に交わる体勢やわざとらしい息遣いを眺めて、幼い頃に母の恋人にされたことを思い出した。
その日も僕は部屋にひとり取り残され、十二月、初冬の寒さに膝を抱えていた。エアコンやストーブはない。午前一時をまわっていた。
隣の土足の足音に男の「誰だ」とか「やめろ」とかいう焦った声が重なって、僕は急いで押し入れにもぐりこんだ。そして104号室を覗くと──そこでは、十三歳の僕と同い年ぐらいの少年が、刃渡りの大きなナイフを振りかざし、床に手をついて引っくり返る男を見下ろしていた。
「お前の両親から依頼」
僕と同じく、声変わりもしていない少年は、男の太った腹にスニーカーでどすっと蹴りを入れ、足元にひざまずかせた。
「あんな息子は死んだほうがマシ」
脱色なのか染色なのか、少年は銀色に近い髪をしていた。切れ長の目尻だけど、瞳はぱっちりしている。色は白く、栄養のない華奢な軆だった。
「やり方、指定なし」
男の目玉が引き剥かれて、それを見下ろした少年は頬を染めて微笑んだ。電燈で銀髪が綺麗にきらめいた。
「やっとこんな生活が終わるね?」
恍惚とした笑みを浮かべたまま、少年は腕を振り上げてぱくぱくと喘ぐ口にがつっとナイフを突き立てた。そして喉をえぐり出すようにナイフを口の中でぐるりとまわし、男は声も出せずに脂汗をぶわっと浮かべる。口元が血を垂らす。
少年はナイフを引くと、すかさず喉を赤く切り裂いて悲鳴を奪い、ついで、顔面や服に返り血を浴びながら男を滅多刺しにしはじめた。
目を開いてそれを視覚に取りこむ少年は、嬉しそうに笑っている。女や子供を犯すときの「男」と同じ顔をしている。男は抵抗しようとしたのか腕を持ち上げたものの、少年に届かず床にばたんと仰向けになる。
少年は、執拗に男を刺した。呼吸を乱しながら熱っぽく笑っていた。ぐちゃ、べちゃ、内臓がそんな音が響く肉片になるまで、少年は男を血みどろにした。
そして、喉も腹も深くえぐられてとうに死んだ男に目を細め、やっと、脳が痺れる煙草を吸ったようなため息をつく。血を浴びた銀の髪や白い肌をぬぐい、立ち上がって着替え、電燈をぱちんと消すと何事もなかったように部屋を出ていった。
生々しく鼻腔で錆びる血の香りが、小さな覗き穴からねっとり忍びこんできていた。
押し入れから這い出して、明かりもつけられない、何も家具のない部屋の真ん中で茫然とした。
何。あれは何。悪夢や幻覚にしては、血の匂いで吐き気がする。
あの少年は、何者だろう。依頼、とか言っていた。殺し屋? 両親。あんな息子は死んだほうがマシ。確かに、あの隣人はクズのような毎日を送っていた。だから片づけられたのか。
いや、この街なら別におかしいことではない。あの少年だって、この街ではめずらしくもない。僕の年齢では、売春していたって殺人をしていたって普通だ。
頭では分かっていても、僕もあの隣人と同じように、この部屋を滅多に出ない人間のクズだ。この街の空気をじかに体感したことはないから、どこかではまだ見たことが非現実で、黒血を吐くような嫌な搏動に不安になった。
押し入れの扉を閉めて、毛布をかぶって横たわった。
午前三時頃、また104号室で物音がした。躊躇ったものの、今度は音を殺して隣を覗いた。つなぎを来た大人ふたりがいて、ひとりは死体をふくろに詰めてすぐ出ていき、もうひとりは血痕をスプレーをかけて綺麗に落としはじめた。
壁の穴に気づかれ、見ていたことにも気づかれたら危ないのは分かったので、すぐ引っこんで押し入れを閉じた。こういうとき、気配を殺すのは気配を強調するから、自然に消えるように眠ろうと思った。母親のおいしくない酒を少し飲んで、ほてった胃を抱えて毛布の中で目を閉じた。
朝に母が仕事から帰宅し、僕の脇腹を邪魔っ気に壁際へと蹴りやったので目が覚めた。
開けることがあまりない、ホコリっぽくぶあついカーテンの向こうで朝陽が白く映えていた。それでも、まだ寒い。ゆっくり身を起こし、でも視線は手元に抑えつけて上げられない。
母は化粧を落としてシャワーを浴びると、コンビニで買ってきた酒とつまみを食べながら寝てしまった。僕はそれからやっと顔を上げ、つまみの残りであるセサミをぽりぽりと食べる。
母は僕が物心ついたときから娼婦をしている。昔からおとうさんはころころ変わって、でも、おとうさんたちが僕に手を出すのを知ってから、母はおとうさんを絶対ここに連れてこなくなった。
本当の父のことは何も分からない。ただ、母が僕を見る目はとてもいらいらしているから、僕をいっさい愛していないみたいだ。暴力も放置も当たり前だった。でもやっぱり、自分の部屋から死体が出るのは面倒らしく、殺すまでは殴らないし、死ぬ前に食パンを投げつけてくる。
そんな母の臆病が嫌いだった。どうせなら殺してほしい。いっそ死なせてほしい。生きていたって、いずれ僕も母のように軆を安く売って生きるだけだ。おとうさんたちに繰り返された傷を開いて、そこに挿入されてかきまわされる。
でも、と毛布を握りしめた。隣の部屋に誰もいないのを──本当に、空っぽなのを察し、感覚が薄らぐような恐怖を覚える。
本当に死ぬのが、どこかでは怖い。だから僕は自殺の真似事はしない。生きることも死ぬこともなく引きこもって、僕はいったいどうなるつもりなのだろう。分からないけど、やっぱりとりあえずは寝ているところを殺されないために、母がいるときはほとんどそうしているように押し入れにこもる。
狭い闇から穴を覗くと、部屋は男が消えた以外、何も変わりない日常が流れていた。つけっぱなしのPCと電燈、床に散らかる通販で集めた漫画、たぶん裏側はカビが生えている万年床。
僕は服が入ったカラーボックスに背中を預け、連れてきた毛布をかぶった。
あの少年の発狂じみた笑みがまだ脳裏から消えない。
でも恐怖に震えるより、酒の気だるさと、睡眠不足のにぶさが強かった。きりきりしていた胃も、少しだけど食べて落ち着いた。いつものように何も考えたくなくて、すぐうつらうつらとしはじめて、そのまま暗闇の中に落ちていった。
次に目が覚めたのは夕方で、母の気配がないのを確認してから、部屋に出た。僕の食事は、いつも母の食べ残しだ。今日もコンビニ弁当があって、漬物とか野菜とかだけ残っていた。
これを食べて片づけると、いつもは、104号室を覗いていた。今日からやることなくなったなあ、と夕闇の窓を見つめて、不吉なカラスの鳴き声を聞く。この部屋にはPCはもちろん、テレビもラジオもない。漫画も雑誌もない。
ほんとはそろそろ外を徘徊して、街に慣れなきゃいけないんだけどなあ、と思っても、隣の部屋であんなことが平然と起きて、当然怖くなっていた。分かっていたつもりでも、こんなに近くで人が殺されるなんて。隣人でも、しゃべったこともない他人だ。だが、当たり前に壁一枚の向こうにいた人間だ。そんな人が、あんなふうに消されるとは──
部屋が暗くなってきても、明かりを勝手につけてはいけない。足元や指先に毛布に巻きつけて、横たわって過ごすしかなかった。
どこかの部屋で子供の泣き声がしている。周りの生活音が神経を引っかく。手で耳を塞いだ。鼓動が手のひらに響く。血のイメージがふくれあがってくる。合わせて心臓が小刻みになってくる。
怖くなって手を外し、それで初めて部屋にノックが響いていることに気づいた。
静かに起き上がる。誰、だろう。この部屋に客人なんて来るはずがない。いや、昔のおとうさんの中の誰かなら? 脚を押し広げられるあの羞恥が走って、思わず身がすくんで毛布を抱きしめた。
かちゃ、と鍵をまわす音がした。え。鍵? 何で──
ドアを開けて部屋に踏みこんできた誰かが、少し手探ったあと、ぱちんと明かりをつけた。暗闇に慣れていた目に、急に光が射してまばたきをする。うつむいて眉を寄せる僕に、足音が近づく。
突然思った。もしかして、昨日の──。
はっと顔を上げると、艶やかな黒髪と鋭い黒目があった。あの銀髪の少年じゃない。二十歳くらいの、見憶えのない男の人だった。
その人はこちらを見つめて、僕の頭に手を置いて敵意がないことをとりあえずしめすと、押し入れに目をやった。どきんと肩が揺れそうになる。その人は押し入れを開けてしゃがむと、「これか」と落ち着いた低音の声でつぶやいた。
それから僕を見返ると、まっすぐに黒い瞳で僕を射抜く。
「お前、見たろ」
毛布を握る。何を、ととぼけたほうがいいのだろうか。正直にうなずいたほうがいいのだろうか。
その人は僕に近寄りながら黒いリュックからケータイを取り出し、開いて少しいじったあと表示させたものを僕に見せた。思わず息を飲んでしまった。銀髪でなく茶髪で、無表情だったけど、確かに昨日の血を浴びて笑っていた少年──
僕の反応を見て察知できたのか、その人はケータイをしまって僕の腕を引っ張って立たせた。
「出るぞ」
「え、あ……」
「ここにいたら危ない」
「危ない……って、」
「いちご──あの殺し屋のガキの上司が、この部屋を疑ってる」
「ど、どうして」
「掃除屋があの押し入れの穴を報告した。男のブログにも、誰かに覗かれてることが書いてあった」
気づかれていたとは思いもよらず、狼狽えているうちに玄関に連れていかれた。でも、僕には靴がない。男の人はリュックから折り畳みのスリッパを取り出し、うながされるまま僕はそれに足をさしこんだ。
男の人は僕の冷たい手を握り、「離すなよ」と柔らかに言うと、僕を部屋の外に連れ出した。
びゅうっと凍りついた風が吹きつけてくる。もともと冷えていた軆は、寒さに硬くなって小さく震えた。寒風にはゴミの臭いがする。
足元が暗くても、男の人が引っ張ってくれるからつまずくことはなかった。今夜は闇夜で、月も星もない。やっぱりどこかで子供が泣いているアパートを振り返ると、電気がついている部屋は予想以上に少なかった。
男の人の黒いオーバーの背中を見上げた。どこに行くのだろう。なぜ僕が危なくて連れ出してくれるのだろう。いや、むしろおかしなところに突き出すのだろうか。訊きたいけど、僕はあんまり声を出すことに慣れていなくて、何も訊けなかった。
やがて人通りが出てきて、すれちがう話し声と共に電飾も増えてきた。煙草の匂い、香水の匂い、店先の匂い──人の熱気でちょっとだけ暖かくなってくる。
ネオンで視界が戻ってきた頃、男の人が振り返って「大丈夫か」と訊いてきた。男の人がすごく綺麗な顔をしていると気づきながらうなずく。「もうすぐだから」と男の人は言って、慣れた足取りで人混みを縫っていって、僕はそれに続く。
もうすぐ。あたりを見まわして、昔に母と歩いた、ヘルスやサロンの通りではないことを確かめる。普通にコンビニとか本屋とか──
通りに面したショウウインドウが明るい喫茶店の前を通り、まばたきをしたりしていると、男の人はその喫茶店に足を踏み入れた。僕なんかが入っていいのかとまどって躊躇すると、「ここは安全だから」と男の人はつないでいた手を離した代わりに、僕の背中を優しく店内に押した。
男の人はショウウインドウ沿いのテーブル席に僕を座らせると、メニューをさしだした。はっきり明るいところで見て、男の人が眉も頬や顎の線も瞳の強さも整って、軆つきもしっかりしたモデルみたいな人だと改めて確認する。
それに反して自分は痩せて濁ってとても貧相で、申し訳なくてうつむくと、「何か適当に好きなもん食ってろ」と広げたメニューを置いた。鮮やかなオムライスや具だくさんのドリア、食べたことのないお米料理の写真が載ったページだった。男の人は財布からお札を三枚取り出して、「まあこれで足りるだろ」と僕に渡す。
三千円。どうして、と訊けずに顔だけ上げると、「死人を出せばいいってもんじゃないからな」と男の人は財布をしまったリュックを背負い直し、「また来るから、それまでゆっくりしてろ」と僕の頭をぽんぽんとして喫茶店を出ていってしまった。
周りの人は、食事をするよりヒマつぶしに来ている様子で、本を読むとかお酒を飲むとかしている。僕は三千円を見下ろし、そんなにお腹空いてないけど、とろくに食べてもいないのに食欲なく思う。
あの人がいったい何なのかも分からない。もし、この三千円に手をつけた時点で、何かの契約になってしまったら。お金をテーブルに置いたまま、メニューも閉じた。何も注文しないのも、確かに居心地が悪いけれど、何も考えずに甘えるのはよくない。
右手のガラス張りを見ると、いろんな人が行き交っているのが見渡せた。それをぼんやり眺めていると、たまにいきなり話しかけられるのでびくっとしてしまう。
「それ、三千円ってこと?」とぜんぜん知らないおじさんに言われておろおろすると、「その子、弓弦くんの客だよー」とウェイターさんがひと声で追いはらってくれた。ありがとう、と言いたいのに声がどうしてもつっかえて、頭を下げる。ウェイターさんは肩をすくめて仕事に戻り、僕は外の雑多な人通りか、頼まないメニューを眺めて、朝までそこで時間をつぶした。
午前六時過ぎ、おかあさん帰ってきてるかなと思いながらうとうとしてきていたときだった。母は何も心配しないし、むしろせいせいすると思うけれど。何か帰りづらくなっていくだけだなあ、と椅子の上で微睡んでいると、がたん、と正面の席の椅子が動いてはたと頭を上げた。
目を開いた。僕の正面の椅子に腰かけようとしているのが、あの銀髪の少年だったからだ。え、と混乱して目をしばたいていると、テーブルの脇に来たあの男の人が「ん」と腕を伸ばして僕が手をつけなかった三千円を手にする。
僕を見て、「食わなかったのか」と問い、僕がぎこちなくうなずくと男の人は肩をすくめてそれを銀髪の少年に渡した。
「くれるの?」
「これでこいつと何か食ってろ」
「こいつのこと殺すの?」
さらっと言われてびくっと首が縮む。
「逆だ。お前のミスなんだから、お前がこいつを守れ」
「殺したほうが早いのに」
「それはお前のところのやり方だ。俺にすがったなら、俺のやり方に従え」
「……はあい。君、何がいい?」
少年はメニューを広げてめくりはじめ、「しばらくはこいつと一緒にいろ」と男の人は僕を向いた。
「ひとりになるなよ。巻きこまれた責任はこいつに取らせていい。──あとこれ」
男の人はリュックから大きめのスニーカーを取り出し、僕に渡した。僕はそれをとまどいながらも受け取り、ちらっと銀髪の少年を見た。
少年は鼻歌をしながら肉料理のページを開き、「肉いいなあ」と白い肌に映えるまろやかな赤の唇を舐めている。
男の人は少年の銀髪をぽんとして、「じゃあ、一応お前のことはしのいでやったから」とリュックの肩紐をかけ直す。
「今度は、お前が俺の頼み聞いて、こいつを守れよ」
「ほんとにそれでいいの? ま、金なんてほんとにないけどさ」
「無駄に人が死なないのが一番だ」
少年は肩をすくめ、「ん」と僕にメニューを突き出す。とまどうと、「あんたも何か食えよ」と彼はハンバーグやステーキをしめし、僕は小さく首を振った。「それでも何か食え」と言われるので、仕方なくページをめくりはじめると、「じゃあな」と男の人は店を去っていってしまった。
「あんた、名前は?」
トーストやホットドッグの軽食のページを見ていた僕は、また首を横に振った。
名前。あるのだろうが、呼ばれたことがないので知らない。
「ふうん。じゃあ、みかんって呼ぶからな」
「みかん……」
「冬だしな。俺はいちご。ちなみにさっきの人は弓弦さん」
みかん。なぜかちょっと嬉しくて、僕はこくんとしてサンドイッチを指さした。「了解」といちごは手を挙げてウェイターさんを呼ぶと、チキンのグリルと僕のサンドイッチを注文してくれた。
そして、いつのまにか来ていた水をごくりとしていて、「水道と違うなあ」といちごは頬杖をついて僕を見た。
「見たんだよね」
「……え」
「俺の仕事」
「あ……、うん」
「そっかー。ま、実際見てなかったとしても、その危険があるってだけで同じだったと思うけどね」
「ああいうのが、その、仕事なの?」
「まあね。末端の汚れ仕事」
それにしては嬉しそうに笑ってたけど、と僕もこくっと水を飲む。確かに、水道から飲む水とはぜんぜん違って、ほんのり甘い。
「覗ける穴があったんだって?」
「ん、うん」
「気になったけど上に訊けなくてさー。何か聞きつけて、それから穴空けたの?」
「元から、あった」
「あ、だよなっ。さすがに穴空けたら俺気づくよな。じゃあ──あれ、もしかして前からあの野郎のこと覗いてたの?」
そう訊かれると気まずくてうつむくと、いちごは軽くヒイた顔をしたものの、「あ、あいつ何かおもしろいことやってたの?」と身を乗り出してくる。僕は眉を寄せ、「別に」と消え入りそうに言う。
「ただ、ほかにすることが、なくて」
「……っそ。変わってんね」
「ごめん……」
「謝らなくていいけど。とりあえず野郎が好きなんだね」
かぶりを振った。「え?」といちごは理解できない様子で首を捻ったものの、「まあいいや」とわりとあっさり放り投げて背もたれに寄りかかった。
「ともあれ、その穴のおかげで、俺の仕事が漏洩したんではないかとね。隣人も消すことになったんだ。とりあえず君のママは消された」
「えっ」
「いかにもご出勤というところを拉致ったらしいよ」
「……おかあさん」
「好きだった? なら、ごめんね」
僕がうなだれ、とっさにいちごの言葉が理解できなくて感情も追いつけずにいると、じゅーじゅーと音を立てるいちごのチキンと、さっぱり並ぶ僕のサンドイッチが来た。「肉だー」といちごはフォークとナイフを取り、あのときのように嬉しそうに食べはじめる。
あの光景の隣に位置し、穴で通じていたせいで。実際に見た僕も。見てなんかいない母も。隠滅のために殺されることになったということか。
母の顔を思い出そうとした。でもいつも恐縮して顔なんかしっかり見なかったから、瞳も鼻も唇も、まったく思い出せなかった。声さえ。匂いも。ゆいいつ思い出せるのは、赤か黒に塗られた長い爪のやつれた手だった。
取りつこうとしたものが幻影で地面に膝をついてしまったように、不安が腫れあがってきた。
おかあさん。拉致。消された。もう会えない。最後の言葉すら分からない。僕を殺せなかった意気地なしの母。ついに僕を愛してくれなかったのか。
それでも、生きていれば、いつかは何かあったかもしれない……のに。
ぽた、ぽた、とぬるい塩味が頬を伝っていく。サンドイッチのパンが雫を吸ってしぼむ。「みかん」といちごに呼ばれて顔を上げると、いちごは肉とライスを頬張って、飲みこんでから言う。
「みかんもこの街で生まれたんだろ」
「……ん」
「俺もそうだけどさ。ろくな親じゃなかっただろ」
「で……も」
「親になるのも才能だよ。才能がない奴は死ぬまでない。それでもガキ作るバカがほんと多いけどね、親なんてたいていの人間がまっとうできない仕事なんだよ」
「………、」
「今までクズだったんだろ。だったら、期待したって変わってなかったんだから、逆に死んでくれてラッキーくらいに考えるんだね」
「そん、なのっ……」
「そういう綺麗事にしたい後悔は、俺、大っ嫌いだからね?」
いちごを見て、びくんと肩がこわばった。
いちごはこちらを見つめて笑っていた。楽しそうに。そう、今から殺すみたいに。唇が油できらめいて、いっそう飢えて見えた。
僕はぎくしゃくとうつむいてからうなずき、サンドイッチを手にした。かちゃかちゃ、といちごも食事に戻った音がした。
それから、僕はいちごと行動を共にするようになった。路地裏で交代で眠り、食事はコンビニやテイクアウト、街のあちこちにいちごが巧妙に隠しているという宝石を換金して生活費にした。
いちごの部屋はあるらしいが、おそらくとっくに抑えられているということだった。もちろん、僕の部屋にも戻らない。
「ふたりぶんって消費早いなあ」とか言いながら、いちごはふたつ目の宝石をお金に換えた。寒さがどんどん厳しくなっていった。
その夜、いちごは僕の腕を引いて暖房がきいたコンビニに入った。「誰かとクリスマス過ごすの初めてだな」と言ったいちごは、普段は立ち止まらない生菓子コーナーを覗いた。
クリスマス。そういえば、街を歩いていると、きらびやかなツリーやベルのついたリースを見かける。男の人を連れる夜の女の人の服装にも、気合いが入っている。
いいスイーツは買われてしまい、残り少ない中でいちごは悩んでいたけど、結局シンプルなふたつ入りの三角のショートケーキを選んで、骨なしチキンもふたつ買っていた。
僕たちは同じ場所になるべく留まらない。すぐコンビニを出ると、適当なビルの非常階段を少しのぼって、冷えこみに冴えるイルミネーションを見下ろしながら、僕たちは甘いケーキと胡椒がきいたチキンを食べた。
「メリー」と言いながらいちごは楽しそうに咲う。そこは風が強くて寒かったのに、お酒を飲んだときみたいに、ほのかに胸がぽかぽかして楽しかった。
いつも先に食べ終わるのはいちごで、「ごめん」と言いながら僕は急ぐけれど、「いいよ」といちごは膝に頬杖をつく。香辛料が香るチキンを食べ終え、僕は残っているショートケーキを手でつかんだ。
乗ったいちごがこぼれそうになって、慌てて食べる。それにつぶされて少しはみでたクリームには、みかんが挟まっていた。
いちごの白いため息が夜風になびき、僕はケーキが崩れ落ちないよう気にしながらそちらを向く。いちごの銀髪には、根元に地の黒が含まれはじめている。いちごも僕を見ると、頬杖のまま咲った。
「みかん」
「うん」
「慣れたな、名前」
「うん」
「みかんはもっと対人恐怖に見えたんだけどな。俺には懐いたよなー」
いちごは目を細め、「あーあ」と急に背伸びをする。
「俺さ、悪魔になろうと思ったんだ」
「え」
「殺し屋の仕事。ガキの頃から、親とかいろいろ、みんなに見下ろされて蹴られてばっかだったから。もう見下ろされるのは嫌だった。見下ろす側になりたかった。見下ろして、お前クズだなって嗤いたかった」
「………、」
「殺しても殺しても何も感じない、機械になりたかった。初めはきつかったけど、麻痺していくもんだよなあ。みかんに見られた仕事とか、何も感じなかった。虫螻を踏み潰すのが楽しいだけだった」
「……ん」
「もう俺は、悪魔になれたと思ってたんだけどなあ……」
かつん、という音がしたのに気づいた。僕ははっと階段を見下ろす。かつん。「あ、」と僕はいちごの腕をつかんだ。かつん。近づいてくる。かつん。いちごを引っ張って立ち上がろうとする。かつん。いちごが僕を見上げる。かつん。いちごが泣きそうに咲う。かつん。僕のため息が真っ白い血のように広がる。かつ──
「探したぞ。いちご」
下の踊り場を見た。口調はやたら貫禄があるのに、そこにいるのは長いツインテールの少女だった。
「へへ」といちごが咲うと、少女もにっこりして言葉を続けた。
「分かってるな」
「俺、弓弦さんの保護下だよ」
「人をなるべく死なせない弓弦の元を逃げて、人など簡単に殺す私たちの巣に来たのはお前だ」
少女はすっと笑みを消して言った。僕はやっと寒さを思い出しながらいちごを見た。
いちごはにこにこと少女を見つめている。それを胡散臭そうに見つめた少女は、僕を一瞥して腰に手を当てた。
「今の話によれば、その子供はお前に懐いたそうだな」
「いつから観察してたんだよ」
「では、その子供を殺せ」
「は?」
「そうしたら、元の問題も解決するのだから、お前の処分も不問にしよう」
「──―」
「悪魔になるのだろう?」
いちごがゆっくり僕を見た。僕はわずかに震えながらそれを見つめ返した。抜けた風が唸って、髪や服をぶわっと荒らしていく。
「みかん──」
ゆっくり口角を持ち上げて、いちごは口を開いた。
「死んで、くれる?」
いちごは笑った。今にも、崩れ落ちそうだった。目は泣いていた。ぜんぜん嬉しくなさそうだった。つらそうに見えた。
死ぬ。生きていて、僕に何かあるだろうか。母は死んだし、そもそも応えてくれる人ではなかった。部屋にいて、毎日が空虚だった。
今、部屋を出ていちごといて、初めて「楽しい」と思っている。でも、いちごがいなくなればまた同じだ。仮にここで逃がしてもらって、僕にどこに行くあてがある?
死んでいいではないか。いちごは悪魔として生きれば、僕なんかいなくたって楽しく生きていける。いちごには悪魔になる未来がある。僕には何もない。ここで生かされたって何にもないのだ。
だったら、いちごをつなぐたしになって、死んでしまっても──
うなずこうとした。ぴくん、と僕の頭が動いた瞬間、いちごは急に立ち上がった。そして僕を見下ろし、でも、優しく微笑んだ。
銀髪。白皙。紅唇。
どうして、天使なんて言葉がよぎるのだろう。
「嘘だよ」
「いちご、」
「ま、弓弦さんにはみかんのこと『守れ』って言われてるしな。俺からも守らなきゃいけないよな」
「でも」
「弓弦さんには一度迷惑かけたし、今回は筋通すよ」
「お前が死ぬぞ?」
少女が凛とした声で言うと、いちごはゆっくり階段を降りはじめながら言った。
「人間だから、死ぬよ」
そのまま、いちごは少女に取り押さえられた。少女は僕をまた見たが、「あいつのことは弓弦さんに任せて」といちごが言うと、少女は静かにうなずいていちごを連れていった。
僕は階段に座りこんで、まだ口の中に名残るクリームの甘さが信じられなくなった。さっきまで、本当にさっきまで、僕は初めての「友達」と楽しくクリスマスを過ごしていたのに。
何で。こんなの。いちご。僕、死んでいいのに。殺してくれていいのに。いちごがそれで生きられるなら。いびつな過去のためでもいい、いちごがまた笑うなら、僕は──
人間だから死ぬ。何だよ、それ。そんなの悪魔じゃないよ。機械じゃないよ。優しすぎるだけだ。いちごは、僕が出逢った人の中で一番──
「お前はこの街にいると危ないから、里親のとこに出ろ」
そう言って手配を進めた弓弦さんに従い、僕は酔った母が大嫌いだと言っていた気がする、母の田舎へと移り住んだ。そこでは母の姉夫婦がまだ幼稚園の女の子を育てていた。弓弦さんに事情を聞いていた姉夫婦は僕をちゃんと歓迎してくれて、義理の妹になった小さな女の子も僕に懐いてくれた。
でも、僕がどうしてもできないのが学校に行くことだった。朝に目が覚めると、まず過呼吸が出るほどの拒絶反応で、姉夫婦は僕に学校を強いないことにした。
僕は洗濯物がはためく庭に面した縁側で、一日ぼんやりとしていた。次第に気温が柔らかくなって、凍てついた空も優しい青に溶け、なごやかな春になった。
庭と道路を仕切る塀は花壇になっていて、温かい春風に鮮やかな花の匂いが混じる。伯母に頼まれてその花に如雨露で水やりをしていた僕は、ふと足元に赤い粒が落ちていることに気づいた。しゃがみこんでそっと摘んでみると、それは蛇いちごだった。
いちご。その名前にぎゅっと胸が苦しくなって、心臓が絞めつけられて呼吸が痙攣する。そんな僕を洗濯物を干しに来た伯母が見つけて駆け寄ってきた。「大丈夫です」と僕は深呼吸して、あの喫茶店の水が水道と違ったように、あの街とは違って澄んでいるこの田舎の空気を取りこむ。
伯母は僕の手の中に蛇いちごがあることに気づき、「それはあんまりおいしくないよ」と言った。
「毒……あるんですか?」
「ううん。どくいちごとも言うけど、毒はないよ」
伯母の腕に少しもたれて呼吸を整え、蛇いちごを見つめた。ほんとにあのいちごみたい、と思った。毒を持ちたいと願って、悪魔だとか毒を騙って、でも本当は綺麗な赤い血が通っていて。
いちごは死んだのだろうか。もう僕に知る術はない。でも、あの街がそんなに甘く済むはずはないから、分かっている。
いちごは泣けたのだろうか。あの日、穴の向こうで人を殺しながら笑っていた。でも、あの返り血のぶんだけきっと心を殺していた。いちごが、いちごのような赤い涙は流していないことを僕は祈る。流すのなら、せめて透明な、温かいものであることを。
いちご。君が生かしてくれた命だから、僕は生きていこうと思えるよ。そして、僕が生きて願うことだから、どうか君は、毒なんて名乗らず、そのままの優しい人であってほしい。
FIN