夏の破片

麻耶子まやこは彼氏できたらしいよ」
 夏休みが始まって一週間、市内に出て仲良しの三人で遊ぶはずが、待ち合わせ場所のファミレスには絵里実えりみしかいなかった。
 ざわめく店内を冷ます冷房に、蒸された肌がやっと救われる。水を持ってきたウェイトレスにミニチョコレートパフェを注文し、「麻耶子まだなんだ」と私が言うと、絵里実はテーブルに出しているスマホを一瞥してそう言った。
「はっ?」
「だから、もしかして来ないかも」
 絵里実はクリームあんみつの白玉を口に含み、「彼氏って」と私はまったく聞いていない話にとまどう。
「いつから? 夏休み前?」
「いや、おとといらしいわ」
「同じ高校じゃないの?」
「麻耶子っておねえさんいるじゃん。そのおねえさんに、クラブに連れてかれたらしいの」
「クラブ」
「そこでナンパしてきた男だってさ」
「……麻耶子って、そういう子だっけ」
「さあ。昨日、夜中のテンションで話された」
「私、話してもらってないな」
美智佳みちかにも、今日会って話すとは言ってたけど──」
 絵里実のスマホがぱっと点燈した。私も自分のスマホを取り出し、着信があるのに気づいた。メールを開くと、麻耶子からだった。
『今日カラオケ無理になった。
 えりみに事情聞いといて!
 ごめんね、ちゃんとまた今度行こう。』
 絵里実を見た。絵里実は息をついていて、私の視線に気づくとスマホの画面を見せてくる。
『彼氏に呼び出されて断れない~。
 悪いけど、今日キャンセルでいいかな。
 また今度誘ってね!』
 私も絵里実にメール画面を見せた。絵里実は舌打ちして、「事情なんて知るか」とミルクアイスを頬張った。
 私もさすがにうんざりしていたところで、パフェが来たのでスプーンを取る。でも、チョコレートの甘い香りも味も、何だか心をなだめてくれない。
「彼氏かー……」
 しばらく、私も絵里実も黙ってデザートを食べていた。先に食べ終わった絵里実が、頬杖をついて渋い声でつぶやく。私は絵里実をちらりとして、「できたことある?」とチョコが染みたコーンフレークを飲みこむ。
「ない。美智佳は?」
「私もないな」
「麻耶子も、たぶん初彼だよなー。あーっ、何なの、そういうとこって、そんなさくっと彼氏できるもんなの?」
「分かんないよ。行ったことないし」
「あたしも行ってみようかなー」
「え、じゃあ私も行ってみたい」
 残されるのが嫌で思わず言ってしまうと、絵里実は私を向いて頬杖を下ろし、「じゃあ行ってみる?」と身を乗り出してくる。私はごくんとチョコレートアイスを飲みこんだ。
「え……と、でも、どこにあるのかとかは知らないよ」
「このへんにもあるんじゃないの。市内だし」
「昼からやってるのかな」
「たぶん、さすがに夜だよね」
「スマホでこのへん検索してみようか」
「そうか。待って、あたしやってみる」
 絵里実はスマホをいじりだして、私はひとまずチョコレートパフェで体内を冷やしていく。
 店内をにぎやかにさせているのは、夏休みの学生のグループだ。ノートを広げる制服すがたの子は、夏休みにも登校する受験生だろうか。私も来年はああしてるのかな、と角砂糖サイズのチョコスポンジを口に放る。
「ありそう?」
「んー……“ガールズオンリー”って、何?」
「女子限定って意味じゃない?」
「女子限定……って、レズかよっ。興味ねえよ」
「逆にも気をつけないと」
「ゲイナイト……ってあるわ。うわー、男同士は二次元でいいよ。何、普通のクラブってないの?」
「いや、あるから麻耶子には彼氏できたんでしょ」
「麻耶子にどこのクラブ行ったか訊こう。そしたら、そこはそれなりに安全ってことでもあるし」
「だね。まあ、今日行くわけでもないでしょ」
「うん。服とかも考えたほうがいいよね。じゃあ、ここいても仕方ないし、そのときの服でも見に行こうか」
「そだね。ちょっと待って、食べ終わる」
 私は残り少ないパフェをすくって食べて、絵里実は「麻耶子は男できると薄情なタイプかー」とかぼやいている。「女ってそんなもんでしょ」と言った私はパフェを片づけ、「行こう」と自分の伝票を手にする。「よし」と絵里実も立ち上がり、私たちは会計を済ますと、灼熱が射す外へと出た。
「道歩いてるだけで声かけられる子はいいよね」とか言いながら、私と絵里実は誰にも邪魔されずにウィンドウショッピングをした。これに麻耶子が混じったところで、決してとりわけ男の子の目に留まる三人組じゃない。それでもナンパされるぐらい、クラブという場所は沸点が下がるのだろうか。
 よく分からないけど、フィクションの世界を見ていると、クラブってそういう場所だ。何かちょっと怖いな、と思っても、ひとりで行くわけでもない。大丈夫だよね、と私も帰宅してから、改めて自分のPCで適当に調べてその様子を窺ってみたりした。
 絵里実が麻耶子から情報を得たのは、三日後だった。彼氏との時間がいそがしい麻耶子がメールはスルーするし、なかなか電話の都合も合わなかったらしい。
 場所やオープンの時刻、イベントの日は年齢確認されたりすることも聞いておき、私と絵里実は夕方に落ち合って街に出かけた。
「とりあえず堂々としてろって言ってた」
 すれ違う人のピアスやタトゥーにいちいちビビりそうになっていると、絵里実はそうささやいてきた。私はうなずきながらも、こんなとこ歩いてるの見つかっただけで停学だよ、と思ってしまう。
 混み合う人の熱気、ただよう香水や煙草、たまに車が強引に通っていくけど、爆音で音楽をかけている。空が暮れてきた頃、「ここだ」と絵里実が目的のクラブを見つけた。扉の前で私たちは顔を合わせると、「よし」と地下への階段を下りていった。
 薄暗い中で、揺れるのが分かる音量の音楽がかかっていた。入場料とドリンク代をはらうと、荷物はロッカーに預けて、番号札だけ握る。
 通りはけっこう人がいたのに、店内はまだそんなに人はいない。それでも、あからさまに密着する人と人がいたりして、こんな場所はひとりでは来れなかっただろうと思う。
 私たちはカウンターでメニューを貸してもらったけど、飲めるのは烏龍茶くらいしかなかった。
「もう別にお酒でもいい気がしてきた」
「……いや、私は一応烏龍茶にしとく」
 けれどカウンターの中の人はなじみらしき人と話し始めていて、それだけで話しかけづらい。何とか私は烏龍茶とドリンクチケットを交換してもらい、スツールに腰かけた。絵里実も隣に座りながら、まだお酒と迷っている。
「絵里実ってお酒飲めるの?」
「普通に飲めるけど、頼んでいいのかが分からない」
「飲めるなら頼めば。私は終電までには帰るしさ。飲むと親バレする」
「あ、そうか。あたしも終電までには帰らなきゃいけない。烏龍茶でいいか」
 絵里実も烏龍茶をもらって、「それで、麻耶子ってここからどうやってナンパになったの」と私は首をかしげる。
「あー、何か、ナンパというか、おねえさんの知り合いの男ではあったらしいよ」
「そうなの」
「まあ、向こうから来たのは来たんだよね」
「ふたりで話してたら来ないような気もする」
「別れる?」
「んー、まあ人が増えてきてからでいいかも」
 そんなことを話して、私たちはしばらく烏龍茶を飲みながら店内の客層を眺めていた。時間が経つほど、店内の密度が高くなっていく。
 話し声。笑い声。叫び声。あちこちで会話が発生しはじめて、本当に私たちでも話しかけてくる男の人もいた。けれど、緊張してしまってうまく楽しめず、はずまないまま離れてしまう。
 正直微妙に感じてきていた頃、同じように友達同士で来ていた女の子二人組が隣に座って、私たちに「初めて来た?」と話しかけてきた。女の子ならそこまで堅くならずに話すことができる。やっぱり男の人なんてまだよく分かんないやと開き直った私と絵里実は、知らず知らず、その子たちと四人組みたいに話しはじめていた。
「お、マミとハルじゃん」
 教室にいるのと変わらないノリになっていると、ふとそんな男の声が割って入った。女の子たちが先に振り返り、「おう!」や「久しぶりー」とその相手に親しい笑顔になる。私と絵里実もかえりみて、その男のすがたを認めた。
 けっこう、声に較べるとかわいい感じの男の子だった。歳は私たちと変わりそうにない。もしかしたら、少し年上かもしれない。髪に赤いメッシュを入れて、軆つきは骨はしっかりあっても筋肉質ではなく細い。
 彼も私たちのほうを見て、「ども」とにっと笑った。私と絵里実がちょっと笑みがぎこなくなると、「こいつはそんなに緊張することないよー」と女の子のひとりが明るく咲った。
「何だよ、それ。お前らの友達?」
「今さっき意気投合した。何か話合うんだー」
「男ができて、態度変わる女友達とかなっ……」
「何、君たちの友達にもユーナみたいのがいるの?」
「あ、そうです、そのユーナさんとうちの麻耶子の話」
「麻耶子、聞いてるだけでマジムカつくわー」
「呼び出されたら約束破るのはひどいよねえ」
「そりゃ男も分かってねえな」
「でしょー? ユーナもそうだけどさあ、男できて悪化する女って嫌だな」
「分かる。悪化だよね。麻耶子がそういう女とは思ってなかったなー」
「良くなる場合もあるだろうけどな」
「少ないって、そんないい女。たいていの女は男取るんだから」
 ふたりはお酒を飲んでいて、さらに絵里実と盛り上がる。そのあいだ、私はまだちょっと緊張していた。
 口をはさむその男の人が、けっこうタイプだったからかもしれない。でも、何だか、そういう雰囲気じゃない。勝手にどきどきしてくる心臓を抑え、烏龍茶を飲み干す。
 お代わり、と思っても、二枚あったドリンクチケットは消費してしまった。財布を取りに行こうと立ち上がりかけると、ふとその男の人が「帰るの?」と絵里実たちには聞こえないように声をかけてきた。
「えっ、いえ。まだ飲みたいので、お財布──」
「ああ、じゃあ俺の一枚あげるよ」
 そう言って男の人は私にチケットを一枚握らせた。そして自然と隣に腰かけ、「何飲もうかなー」とメニューを眺める。
「君は何飲むの?」
「烏龍茶……ですけど」
 男の人は噴き出し、「そんなの飲んでも楽しくないでしょ」と言いつつ、私の烏龍茶までカウンターの中に伝えてくれた。一応お礼を述べると、「名前は?」と男の人は首をかたむけてくる。絵里実は女の子たちと楽しそうに話しこんでいる。
「美智佳、です」
「美智佳か。俺は暮乃くれの
「暮乃さん」
「呼び捨てでいいよ」
「でも、年上かもしれないし」
「年上だと思うよ。俺、これでも社会人」
「えっ、大学生──」
「四年で卒業しましたー」
「……同じくらいかと」
「えー、美智佳はいくつ」
「十七」
「高校生が、こういう場所うろつくのはよろしくないなあ」
「友達がここに来たことがあるらしくて」
「その隣の子?」
「いや、その──彼氏ができた子。麻耶子」
「もしかしてここで」
「うん」
「ふうん。あ、じゃあ美智佳も男漁りにきたんだ」
 う、と否定できずに口ごもると、暮乃はからからと笑った。
「そっかー、男漁りねー」
「な、何度も言わないでよ」
「俺は?」
「えっ」
「俺とかどう?」
 私は暮乃を見た。暮乃、とか──って。
 え。嘘。
 視線がこわばって、また心臓が脈打ってくる。「何となく」と暮乃は笑みを噛みながら、カウンターからドリンクを受け取って言う。
「美智佳の視線に感じるものがあるのですが」
「か、感じるって」
「そっちの子は俺に興味ないのが分かる」
「……私、」
「まあ、勘違いって言われたらそれまでだけどね。ほら、烏龍茶」
 暮乃はそう言って烏龍茶をさしだし、私が受け取ると、透明な飲み物を持ったままスツールを立とうとした。私はそれに思わず「あ、」と引き止める声をもらす。暮乃は私を見てにやっとする。
「行っておいでよ」と絵里実があきれた苦笑をもらし、女の子たちもくすくす笑う。私が頬を染めてうつむきそうになると、「借りるよ」と暮乃は三人に言って私をその場から連れ出した。
 奥の壁際まで、いっそう混雑していく中を縫ってたどりつく。暮乃は壁に背中を当てた私の正面で、人混みからかばうように立つ。
 暮乃の視線のせいで、お酒を飲んだわけでもないのに軆が熱い。何とか冷静になろうとするのだけど、頭の中まで混乱して視線がとまどう。そんな私を眺めながら暮乃は透明なお酒を飲んで、顔を寄せてきた。
「やっぱ、俺の勘違い?」
 私は少し迷ったものの、首を横に振った。すると暮乃は満足そうに笑って、「俺の部屋、ここから歩いて行けるんだけど」とささやいてくる。私はどぎまぎと睫毛が重なりそうな暮乃の顔を見た。
 その拍子、唇が重なる。キスすらしたことがなかった私は、されるまま口の中をたどられてグラスを落としそうになる。
 キスだけでこんなに敏感になるものなの? 暮乃は空いているほうの手で私を抱き寄せ、首筋に指を伝わせる。その感覚だけで震えそうになった。
「部屋、来るよね」
 暮乃は唇を浮かせて訊いてきた。このまま放り出されたら、私、きっと一生後悔する。そう思ったから、今度ははっきりうなずくことができた。
 私たちは飲みかけのグラスをそのへんに置いて、荷物を回収するとクラブを抜け出した。来たときはただの人混みだった通りに、いつしか身を寄せ合ったり腕を組んだりするふたりが増えている。
 私たちも手をつないでそこを抜けると、駅前を通り過ぎて、飲み屋街の裏手にあった暮乃のアパートに到着した。
「あ……あのね」
 私を閉じたドアに抑えつけて、キスしようとしてきた暮乃に、たぶん言っておかなくてはならないから私は言葉をはさむ。
「ん」
「初めて、なんだけど」
「え」
「私、その……したことない、というか」
 暮乃はまばたきをして、くすりと笑うと「うん」と私の頭を撫でた。暮乃は仕草のたびにいい匂いがすることに気づく。
「さっきのキスで分かった」
「……面倒、だよ。たぶん」
「大事にするよ」
「嫌じゃない?」
「美智佳こそ、初めてが俺でいい?」
「私、は──」
「無理はしないよ」
 瞳が触れ合う。暮乃の瞳は優しい。出逢ったばかり。ほとんど知らない。それでも、私は──
「私は、大丈夫」
 暮乃は微笑んで、私に口づけてきた。やり方はよく分からなかったけど、口を開いて応えられる限り応える。
 暮乃の手が私の胸をまさぐって、硬く鋭敏にさせる。腰に当たるジーンズの腰に、硬いかたちがあるのが徐々に分かってくる。暮乃は私の口の中を蕩かすと、舌をうなじに移して耳を甘く噛む。無意識に声がもれて、暮乃のシャツをぎゅっとつかむ。
 胸を揉んでいた手がウエストを這って、スカートの中にもぐりこんでくる。下着に触れられ、びくんとすくみそうになる。下着越しに脚のあいだを探った暮乃は、「濡らしてあげなきゃね」といったん軆を離してリビングまで行き、私をソファに押し倒した。
「脚開くよ」と言った暮乃は、下着を脱がせて膝から私の入り口を空気にさらす。明かりはついていなくても、それだけで恥ずかしくて目をつぶったのに、潤った刺激が軆を走って痙攣しそうになる。暮乃が私の脚のあいだに顔をうずめ、舌を絡めている。
 嘘、と思っても、すぐに驚きは焦れったい感覚に奪われる。初めは、そんな感覚はなかった。でも、だんだん、絡めとるように快感が集まって、全身の神経が核に集中してくる。指先や爪先がほてる。息が小刻みに揺らめき、声が喘ぐ。
 私が感じてきたのを見取って、暮乃の指が入口をゆっくりほぐし、まずは一本入りこんできた。
「った……」
「痛い?」
「う、……ん」
「濡れてきてるけどな。じゃ、もうちょっと──」
 暮乃がもう一度私の核を食んで、執拗に舌で転がす。声がどんどん激しくなって、自分でも濡れているのが分かるくらい、じわりと熱が脚のあいだに灯る。
 もう一度、指を挿しこまれた。そして丁寧に進み、私をやわらげていく。指が慣れて、私の入り口が求めるほどに引き攣るほどになると、暮乃が丁重に自分を私に挿入した。さすがに再び痛みがあったものの、唇を噛んでその下腹部を圧迫する痛みに耐える。
「痛くない?」と暮乃は心配そうに訊いてくれて、うなずいて見せるくらいならできた。やがて暮乃が私の内部に満ちて、ふたりの呼吸が荒っぽく綯い混ぜになってくる。動かれると初めはかなり痛かったけれど、ふっとそれを超える一瞬があった。
 それから、やっと下肢が溶けるように感じはじめる。セックスでこんな声を出すなんて、男の妄想だと思っていた。でも、本当に息がほつれた声があふれてしまう。
 クーラーをつけていないのもあって汗ばんだ熱い軆は、そのままバターのように溶け合うのではないかと思えた。私は暮乃の軆にしがみついて、その首筋からいい香りがこぼれているのを知る。
 私は彷徨うように暮乃の名前を呼んで、暮乃も私の名前を呼んで、その声を何とか鼓膜に捕らえるのに集中した瞬間、ふわっと白い熱が昇ってそのまま私は頭まで快感に痺れた。同時に体内の暮乃を強く締めつけて、その刺激で暮乃も私の内腿に吐き出した。
 そのまま、しばらく脱力して軆を重ねていた。先に動いたのは暮乃で、私のまぶたにそっと口づけて、「大事にする」と言ってくれた。私はこくんとして暮乃の軆に抱きついた。
 でも、本当は、またどこかで思っていた。いいのかな。信じていいのかな。不安は残っていた。けれどそれは振り切って、信じよう、とまた暮乃とキスを交わした。
 連絡先を交換して、電話よりメールをよくした。暮乃が仕事を定時の十七時で上がれた日は会って、部屋に招かれて寝た。もちろん、絵里実にも報告していた。絵里実は絵里実で、あのあと男の子に声をかけられてつきあいそうな感じになっているらしい。いつも教室ではつるんでいたのに、夏休み、結局仲良しの三人で揃って会うことはなかった。そうして、気づくとあと数日で夏休みが終わろうとしていた。
 その日も私は暮乃の部屋にいた。二十時くらいで、そんな時間帯、よほどのことがないと鳴らないチャイムが鳴った。私たちはデリバリーのピザを食べていた。「気味悪いから無視しよ」と暮乃が言ったから、私も気にせずピザを齧っていたら、またチャイムが鳴った。暮乃の表情が苦くなってきて、「出たほうがよくない?」と私がソファを立ち上がろうとすると止められた。
 どんっ、というドアをたたく音と、暮乃の舌打ちが重なる。
「暮乃──」
「……美智佳はここで待ってて。追い返してくる」
 私は玄関に向かう暮乃の背中を見た。そのとき、すでに覚悟は決めていた気がする。
 案の定、聞こえてきたのは女の声だった。
「何でここにいるの、今日は残業だって言ってたじゃない!」
「帰れよ、お前とはもう終わりだって言っただろ」
「また浮気!? 次はどんな女よっ。別れたら平然とあたしのところに戻ってくるくせに、」
「今度の子とは別れない、今度こそもうお前は──」
 ばたばたと足音が近づいてきて、髪を長く伸ばして綺麗に化粧もした、二十四の暮乃と変わらないくらいの女が現れた。その女は私を認めると泣きそうに顔をゆがませて、追いかけてきた暮乃を振り返った。
「何なの、今度はこんな子供!?」
「大声出すのやめろっ。もう帰っ──」
 暮乃に最後まで言わせずに、女は私を睨めつけてくる。
「何よあんたっ。この男はね、高校時代から浮気して、浮気ばっかりして、結局はあたしのところに帰ってくる奴なの。あんたのことだって──」
 暮乃を見た。相手にするなと暮乃の顔つきは言っている。私はわめく女を見上げ、息をつくと立ち上がった。
「……そうだよね」
 つぶやいてスマホをつかんで、バッグも取り上げると、私は女の隣をすれ違う。
「ちょっ──」
「やっぱり、あなたみたいな人がいるよね」
「み、美智佳?」
 私の落ち着いて冷めた口調に、女より暮乃が反応する。私は暮乃をまっすぐ見つめた。
「もう連絡しなくていいから」
「お、おいっ。待てよ、こんな女──」
「ばいばい。ありがとね」
「美智佳っ、」
 私を追いかけようとした暮乃を、女が抱きついてその場に抑える。私はふたりに背中を向けて玄関に向かい、サンダルを履いて暮乃の部屋をあとにする。
 ばたん、と背中でドアを閉めた途端、陰っていた心臓がたちまち黒くなってちぎれそうに脈打つ。同時に、ぼろぼろと瞳から熱い雫があふれてくる。
 平気なつもりだった。分かっているつもりだった。しょせんこんなことだろうと。本当はひと晩の関係だろうと。でも、いつものまにか暮乃が好きになってしまっていた。そういう男なのだろうと察しながらも、時間を共にして、愛おしさがふくれあがってしまっていた。
 処女を捨てて、軆は満たしてもらった。一緒に過ごして、心も満たしてもらった。経験としてはじゅうぶんだ。
 なのに、壊れてしまった関係の破片が、えぐるように刺さって痛い。夏に浮かされただけの関係なのに、この終わりが神経を掻っ切られるように痛い。
 部屋の前を歩き出しながらも、涙が止まらない。
 どうして。あんな男、ねえ、どうしてこんなにも好きなの?
 追いかけてくる気配がないのを確かめて、階段を降りていく。「嫌い」と言い聞かせるように嘘をつぶやいて、アパートを出ると夜を歩き出す。
 もうすぐ夏休みも終わる。絵里実。麻耶子。あんたたちは結局どうなった? 私は──きっと、笑われるよね。
 そう思うと、ほんの少しだけ、嗤ってしまった。

 FIN

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