お姫様の家出
「あ、水鳥」
翌日〈neve〉に行くと、窓辺のソファの席でほかの男娼といた来夢が声をかけてきた。
毬音に食べさせる必要もなく、ここで朝食を取ろうとやってきた僕は空腹だった。おまけに十八時には予約が入っていて、かっこんでモーテルに急がなければならない。もろもろでカウンターに直行しようとしていた僕は、不機嫌にその声に振り返った。
「何」
僕の不穏な面持ちに来夢は臆しかけても、同席の男娼たちに断って、こちらに駆け寄ってくる。
「弓弦の伝言があって」
「頼さんに聞くんでいいよ」
「予約じゃない。娘のことで」
眉をゆがめた。毬音。死体を見つけた、とかだろうか。弓弦なら耳に入るのはありうる。
僕は表情を神妙なものに切り替え、本日のおすすめメニューが飾られるそばに移動した。
「どんな状態」
「え、いや──別に普通」
「普通」
「あ、痣がたくさん」
「腐ってる?」
「まあまあ」
「見たの」
「ん、まあ。ここに来る前」
「……そう。殴り殺されたのかな」
「は?」
「死体を見つけたんでしょ」
来夢は僕を見つめ、「何言ってんの」と訝って言った。僕こそ訝り、「死体じゃないの」と仏頂面になる。
「生きてるよ」
「マジ。何だ。え、じゃあ腐ってないんじゃん」
「気分のことじゃないのか」
「あいつの気分なんか知ったこっちゃないよ。え、てことはまさか、夏乃が連れてったとか」
「ひとりです」
僕はこまねき、「何なわけ」と整理を要求した。来夢はあきれたような信じられないような息をつき、それには僕の大嫌いな臭いがして目を眇める。
「何だよ」
「死んでてほしかったのか」
「死んだかとは思ってた」
「………、家出したんだよ。弓弦が見かけて、今、保護してるんだ」
「何だ、生きてたのか。あー、何だよ。昨日たそがれて寝ちゃった。だっさー」
来夢は僕を見つめた。「何」と横目をすると、来夢は疲れたような視線で息をつく。
「じゃあ何? どこに保護してんの。弓弦の部屋か。うわ、行きたくない」
「あいつの行きつけの喫茶店だよ。〈POOL〉ってとこ」
「………、プールついてるの」
「単にたまり場って意味だよ」
「どこ」
「東通りのビル街」
「はあ? んなとこ行けるわけないじゃん」
「弓弦は徒歩でも往復するぜ」
「距離じゃない。そんな、中央通んなきゃいけないじゃん」
「中央、何かあんの」
「お前には関係ないだろ」
「……ん、まあ」
「すげえ遠くじゃん」と行ったこともない土地に、いらだちに似た不安を覚える。
「彩雪まで、オレンジの髪の奴のライヴには行くんだろ」
「光樹は友達だもん」
「毬音ちゃんは娘じゃないか」
「娘で何?」
「………、」
「何でそんなとこに拉致するかな。あ、弓弦がここに持ってきたらいいじゃん。そう言っといて。よろしく」
「お前な、自分の娘なんだろ」
「お前にとっての娘と、僕にとっての娘は違うの。一緒にしないでね」
カウンターへと歩き出そうとすると、来夢は僕の手首をつかんだ。「何だよ」とその華奢な手を振りはらって彼を睨みつける。
「僕、急いでるんだよ。ごはん食べなきゃいけないし、あと三十分でモーテル着いてなきゃいけないし」
「着いてなくていいよ」
「何でお前が言うんだよ」
「弓弦からもうひとつ伝言。今日の予約は全部取り消し」
「は?」
僕は剣幕を停止させた。一瞬、意味が分からなかった。
「だから、毬音ちゃんを迎えにこいって」
「全部」
「そう」
「何で」
「だから──」
「あいつにそんな権限あるわけ。ふざけんなよ、僕の仕事じゃないかっ。あいつはただの周旋屋だろ、何であいつが僕の仕事を切り捨てるんだ」
「弓弦は悪気があったんじゃ──」
「お前あいつの親友だろ。今すぐ行って予約を戻させるんだ。あいつは僕に関しては豹さんに雇われてるだけだろ。僕が豹さんに言いつけたら、あいつの首吹っ飛ぶからな。行ってこいっ」
「自分で言いにいけよ」
「だから、場所知らないしっ。何で。ちきしょう、あいつ何様だよ。おとなしく傘下にいてやってたら、調子に乗りやがっ──」
いきなりがしっと襟首をつかまれ、はっと息をのんで言葉を止めた。かえりみると、眼鏡の奥から僕を見おろしているのは頼さんだった。
しまった。そうだ、ここで暴れたら──
「がたがた文句わめくなら、外でやりな」
頼さんはたくましい腕でひ弱な僕を引きずり、外に放り出してしまった。僕は薄暗い路地裏に前のめりに倒れかけ、閉まる自動ドアを振り返る。頼さんはさっさと奥に帰り、来夢は僕を見つめ、奥で男娼たちは忍び笑いをもらしていた。
僕は舌打ちして、額をぶつけかけた壁を蹴りつける。すると来夢が出てきて、「ほら」と何かさしだした。
「何。金?」
「地図だよ」
「どこの」
「〈POOL〉」
「行くかよ、そんなとこ。あんな小娘くれてやるよ。はは、お前にやるよ。殺された娘の代わりだ」
来夢は冷たい無表情のまま、無理やり僕に地図を握らせた。そして、僕と目を合わせずに明るい店内に戻っていく。僕はその傷ついた背中を鼻で嗤い、手の中の地図に下目をした。地面にたたきつけてにじろうとしたが、このまま帰ってもやつあたる相手はいない。僕はその紙を握りしめると、当の弓弦に唾を吐いてやることにした。
終わりかけた夕暮れに、ネオンが灯りはじめていた。徐々に増える人通りに雑音が折り重なっている。秋風に香水をたなびかせる僕は、ファーストフードで腹ごしらえをすると、決然とした足取りながら、ヤケで中央地帯を突っ切った。本当はどこかで、誰にも遭いませんようにと泣きそうに祈っていた。
何とかその一帯を抜けると、街の南東に当たる地区に入る。陽桜という地名は同じで、本質的に雰囲気は向こうと変わりないが、見知らぬ店や角がなじめない。深まる闇にネオンが騒がしくなってきた頃、僕は陽桜地区から繁華街の東通りへと渡れる車道の環状線で、長らく立ち止まることになった。
怖かった。行きたくなかった。外のおぞましさなんか、光樹の話でじゅうぶん知っている。外に出たってろくなことにはならない。あの変な臭いの空気が肌にはりつき、発狂でもしたらどうする。僕は手書きの地図を見つめた。弓弦の手書きなのは、文字が予約を記すメモと同じなので分かる。歩くあいだに忘れかけていた、弓弦を罵倒したい憎しみをよみがえらせる。彼を罰したい想いが高まると、捨て鉢に横断歩道を渡った。
足が痛くなってきた頃、通りに面した〈POOL〉を見つけた。雑居ビルの一階で、ショウウィンドウで明るい店内が覗ける。東通りに着いたはいいも、ここを発見をするのに時間がかかって肌や喉が悲鳴をあげていた。本当に、声をあげて泣き出しそうだ。光樹の気持ちが分かる。光樹はこの異臭の根源である外に行ったのだから、もっとひどかったに違いない。恐怖じみた不快感がいらだちとなって猛烈にたぎっていた。〈POOL〉と書かれた自動ドアを、思わしくない怒った肩で抜ける。
ウェイトレスが寄ってくる前に、カウンターに近い四人がけのテーブルに弓弦を見つけた。向こう隣にいる毬音は眠っているようだ。つかつかと歩み寄ると、コーヒーを前にした弓弦はついていた頬杖をほどいた。
「……来ましたか」
「返せ」
「そういらつくなよ」
「いらつくんだよ。お前には分かんないんだ、しょせんこの腐った空気にぶあつい免疫があるんだからな」
「それでも来たんだな」
「お前に唾吐きにきただけだよ。お節介しやがって。僕の仕事を取り消すなんて、どういうことだよ。今日の稼ぎをどう責任取ってくれるんだ」
「一日ぶんぐらい、いいじゃないか」
「お前に言われたくないねっ。お前に僕を支配する権利はないんだ。今日のよっつの予約は僕の仕事だった。お前に取り消したりする権限はなかったんだ。豹さんに言えばお前は吹っ飛ばされるからなっ」
「豹さんは認めてるぜ」
「は?」
「豹さんも取り消してお前が迎えにくるか試させてみろって」
言葉を消して、弓弦を見つめた。弓弦は倦色した息をついたが、僕を見て目を開いた。僕の瞳は一気に滲んでいた。
「水鳥──」
豹さんが。試させろ。豹さんが、そんな、僕を無条件に理解してくれないなんて──僕は唇を噛んで目を雑にこすると、悔しまぎれに弓弦を睨みつけた。
「じゃあ、もういいだろ。迎えにきたよ。返せ」
「こんな子供を、こうさせた奴にあっさり返せると思うか」
弓弦にもたれる毬音は痣だらけで、ところどころ手当てもされている。
「偽善野郎、お前には関係ないだろ。そんなもんは僕と毬音の問題だ。返せ」
「毬音に暴力振るってんだな」
「何なんだよ、返したくないのか。だったら帰る」
「こんな小さいのに」
「そいつの処女でも欲しいのか。だったらとっとと取ってこいよ」
「四歳で家出だぜ」
「るせえなっ、お前の四歳とここで生まれた人間の四歳は違うんだよっ。四歳なんて、僕は男が女のどこに突っ込むかも知ってたよ。それに、家出なわけないだろ。家出ならもっと狡猾に僕に見つからないようにやってたさ。それとも何、お前、毬音の意思も考えずに僕に連絡したのか。だったら、最悪のお節介だな。お前の良識のせいで、毬音はまた僕にぶん殴られなきゃいけないよ」
弓弦は毬音を見た。疲れているのか、部屋ではない安堵感か、僕の怒鳴り声がしているのに毬音は眠っている。
「ふん、冗談だよ。お前が毬音に勝てるわけないだろ。僕に見つかりたくなければ、そいつはお前のことなんか簡単にまいて消えてたさ。となると、そいつが何を言いたかったかはひとつだ。僕に迎えにきてほしかったんだよ。お姫様気取りでな」
弓弦は僕に目を向け、僕はそれを過敏に見返す。
「感覚を外で作ったお前が、僕たちの感覚に口を出すな。思い上がるな、目障りなんだよ。どんなにお前が説教垂れたって、僕がそれを理解することはない。ガキを殴って何が悪いんだ。ゴミ箱に捨てるよりマシだ。それが僕たちの感覚だ。分かんないだろ。そんなふうに、僕だってお前の感覚なんか分かんないし、分かりたくもないんだよ。いいか、またこんなでしゃばった真似してみろ。僕はお前を殺す」
いったん息継ぎし、舌を整え直すとはっきり言った。
「返せ。そいつは僕の子供だ」
弓弦は僕のまくしたてに閉口すると、ため息混じりに毬音を抱きあげた。一度膝に乗せ、こちら側へと座らせる。僕はリュックを背負う小娘の腋に腕をさしこんだ。持ちあげようとしたら、けっこう重い。子供っぽい甘い匂いと高い体温が伝わり、長い髪が腕にまといつく。彼女をしっかり抱く前に、僕はポケットを探って一万円札を何枚かテーブルに置いた。
「何」
「見つけてくれたお礼」
「いらねえよ」
「僕がお前に借りを作りたくないんだ」
弓弦はかなわない目をよこし、黙ってそれを受け取った。僕は毬音を腕におさめながら、弓弦を見おろす。
「豹さんが言ったんなら、仕事の取り消しは許す。でも、お前の私情が絡んだお節介は許さない」
「……私情?」
「お前がガキの頃、親に何されてたかは知らないけどさ。けっこうな同情だよな。このあと帰って僕がこのガキを殴ったら、お前のせいだ」
弓弦は肘をテーブルについた手でひたいを抑え、「失せろ」と目を伏せて低く言った。僕は鼻で嗤うと毬音を抱き直し、店中の注目を厚顔をつらぬいて無視し、〈POOL〉を出ていった。
【第四十三章へ】
