青氷の祠-48

堕ちていく彼

 珠生のすがたは、依然として僕の視界をちらついている。それでも、彼のほうが僕に話しかけてくるのはほとんどなくなっていた。次に逢ったときは、珠生は髪は綺麗にしていたものの、頬はふくらみがそげて白さに血の気がなかった。
「ちゃんと食ってんの」と訊くと、「どうだろうな」と珠生は視線をそらし、僕は腕に目を走らせたが彼は長袖だった。着替えはどうしているのかと訊くと、荷物一式はロッカーに置いているのだそうだ。珠生はどこかに消えてしまいそうな反面、どこにも行く気力はなく、ここにうずくまってもいそうだった。
 珠生への印象や認識が、強制的に入れ替わっていく。それでも僕には、意外にも憫笑や爽快や軽蔑はなかった。珠生のあの傲慢を誰より知るぶん、のんきにそんなのに浸っている事態ではないのも誰より分かる。
 あの僕を眇目であざわらった珠生が、自嘲に嗤って自分を卑しめている! もう、いつか裏返って高笑いを降らすのではという邪推はできなかった。珠生は外で途轍もないことを受けたのに違いない。だとしたら、外など行かずにこの街を彷徨っている可能性が高くなってくる。
 彼が帰ってきた直後の拒絶感はなくも、複雑ではあった。あのまま行けば、珠生が二十歳まで持つか危うい。五年後には確実に死んでいる、もしくは死にかけている、いずれにせよ“人間”ではなくなっている。現在の珠生の身分は僕も経験があるので分かる。僕は半年もせずに死体にたかる蠅か蛆と化し、腐ったものばかりあさるようになっていた。あの軌道にいれば、珠生は確実に破滅で、視界にちらちらされる限り、僕はその自滅を見届けることになる。
 外に行ったといって、おそらく救われるものでもない。路傍売春はどこでだってできるし、酒も薬物もいまどきごろごろしている。外にあてがあるわけでもない。ここにいても外にいても同じなら、珠生はここに這いつくばってここで死ぬかもしれない。せめて過去では華やかでいられたここで。
 珠生の今にも消えそうな印象はより濃密になり、高飛びでなく、真の消滅へと没落しかけている。珠生はここに死ににきたのではないか。僕は珠生に生きる気力をいっさい感じられなかった。いつ死んでもどうでもよさそうだ。自分は死んだほうがいいとかは思っていると思う。
 珠生はここでなら何か変わるかと戻ってきた。しかし何もなかった。ここが珠生の最後の生の理由を見つける望みだった。それを絶たれたら残る道はひとつで、その道はどこでだって進める。死はコンビニより手元にある。
 たぶん、珠生はこの街にいる。そして誰かが助けてやらない限り、彼は精神に蛆虫を繁殖させていく。僕には豹さんがいるし、いくらか立場の強い客もいるし、まあ弓弦もいる。僕がひと言彼らに口をきくだけで、珠生は今たかってる蠅がたまごを生みつける前にじめつきを這いだせるかもしれない。
 でも、僕にも意地がある。あの頃さんざんコケにされた屈辱がある。憎悪が譲らせない残虐性がある。
 珠生に優しくしたくなかった。僕には珠生が腐爛していくのを正当だと感じていい権利がある。彼にバカげた慈悲深い受容をする義務もない。珠生なんか放っておけばいい。
 もしかすると、やっぱり、助けた途端あいつは天を向いて赤い唇で笑い出すかもしれないし──そう思ったりするのだけど、彼の憑りつかれたように重い背中をかえりみると、つい自分の憎しみを見失ってしまいそうになった。

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