雨に襲われて
その日はふさいだ雨が降っていて、午前四時の最後に予約を入れていた客が、落ち合うモーテルのフロントにキャンセルの連絡を入れていた。僕は息をつくと、雨にこごえた軆を自販機のお茶で暖めるついでに、ロビーのソファで雨脚が落ちつくのを待ってみた。だが、ネオンを滲ます陰鬱な雨は落ち着きそうになく、仕方なくモーテルを出ると、折りたたみの青い傘をさして早めの帰路についた。
雨の匂いが立ちこめていた。小雨ほど柔らかくはなく、驟雨ほど激しくもない。重たく長引きそうな雨で、さすがに人通りも引き気味だった。抑えられた喧騒を、降りしきる雨音がかきけしていた。
僕はネオンに透く青色に雫があたっては砕けるのを見つめる。カーキの上着を着ているのに肌寒いせいか、夜なのに通りが活気づいていないせいか、とりどりのネオンが明るいのだけど、通りは暗い感じがして不安をかきたてた。
寂しくて、寒くて、震えが止まらなくて──あの頃を思い出すのかもしれない。薬物中毒になりながら、僕は道端で冬を越した。春に保護され、初めて夏でなくなっているのに気づいたのだけど。
氷をはらむような雨の日、僕よりマシな淫売は、男に肩を抱かれてモーテルに連れこまれた。僕は連れていってもらえなかった。むしろ、心臓を穿つ雨の中で服を剥かれ、濡れた地面に肌を抑えつけられて犯された。死んでいく肌に雨がずきずきして、僕は切れてきたヤクにいらだちながら、すすり泣いた。
にぶい銀色の雨に霞む前方に目をやり、吐息が淡く色づいているのに気がつく。
豹さんが助けてくれなければ、確実に死んでいた。だから、珠生があのままでは死ぬと僕には言い切れる。誰かが助けなければ、自分で這い上がるのは日増しに不可能になる。僕は珠生が猛烈に憎い反面、彼が沈殿していくであろう痛みを理解もできる。僕は外向の痛みと内向の痛みを天秤にかけている。まあ、珠生が僕に助けてほしいかは分からなくても。
宿屋街を抜けてビル街に入っていた。冷えこんだ雨に身を震わせ、傘の下に窮屈に肩を縮める。ざーっというテレビの砂嵐に似た雨音をじっと鼓膜に当てていた。湿った空気が香水を濃密にただよわせる。この香水には重みがあり、立ちのぼらせる雨より奪い去る風に向いている。雨は汗みたいに深みをくれるわけでもないしな、と香りの具合を気にしていると、ビル街も抜け、僕は夕町のまだ引っ越していない部屋に到着した。
早かったし何かテイクアウトしてこればよかったな、と後悔しつつ、ドアの前で閉じた傘を振って水を切った。鍵穴に鍵をさし、ノブをおろして開けようとすると、開かない。
何だ。開いていたのか。僕は出がけには締めたはずだし──心当たりに舌打ちがもれ、最近ペース早いな、と右手に持つ傘を一瞥する。しかし、重苦しい雨の中モーテルに引き返すのは面倒で、捨て鉢にドアを開けた。
無意識に足元に目をやった僕は眉を寄せた。ブーツがなかったのだ。土足かと暗い廊下を見たが、足痕もない。この雨は僕が出かけるときには降っていたので、土足したら靴底がべったり残るはずだ。毬音が家出したのか、と思ったが、靴はある。
ふと、明かりのつく奥で、何か、にぶい音がした。
「毬音?」
大きめの声で呼びかけ、爪先が濡れたスニーカーを脱ぐと、何かが足に当たった。ん、と目をこらすと見憶えのないスニーカーが転がっている。
「パパっ」
だしぬけに応えた毬音の声はいつもと違った。僕に殴られても夏乃に蹴たくられても上げない悲鳴を帯びていて、不穏を感じるより早く、暗い廊下を駆け抜けてリビングに踏みこんだ。
一瞬、立ちすくんだ。毬音の長い髪がフローリングにばらついていた。剥き出しの白い幼い腕がそのうえに抑えつけられ、かたわらに服が引き裂かれている。毬音の顔はのしかかる男の影になっている。男は振り返り、僕は息を飲んで目を開いた。
珠生だった。
互いに何か言いそうになったものの、互いに声が追いつかなかった。珠生は仰向けにさせた毬音におおいかぶさり、服や黒髪は湿っている。
彼は動揺しかない瞳で僕を見つめた。言葉も鼓動も呼吸も一時停止した中、毬音だけがもがいて珠生を押しのけようとした。それで僕も我に返り、声を堰き止めていたものを喉から取りはらう。
「何してんだよっ」
ふたりに駆け寄って、思い切り珠生を蹴りつけた。珠生は僕の攻撃のまま床に崩れ、僕はすかさず彼の肩にかかとを落とす。珠生はうめきをあげて僕の脚をはらおうとしたが、僕は手にしていた折りたたみ傘でその手をよけて、背骨に蹴りを与えた。珠生は身を丸めて床にうずくまり、「何だよ」と僕はとまどいにうわずる声で珠生を凝視する。
「どういうことだよ」
珠生は首をぐっと腹のほうに曲げて何も言わず、僕は毬音をかえりみた。彼女は起き上がって膝をかかえ、かたくなにこちらを見つめている。全身に髪がかかってよく見えなくも、たぶん全裸だ。
「お前が誘ったのか」
「無理やりだよ」
「いつ来た?」
「さっき」
「お前が上げたのか」
「雨宿りしたらすぐ帰るって」
「されたのか」
毬音は首を横に振った。僕は背中に足を乗せる珠生を見下ろし、「何でだ」と背骨に圧迫をかける。
「ホモの次はロリコンか」
「………」
「何か言えよ」
「………」
「珠生」
「………」
「答えろ」
「………」
「珠生!」
「………」
「何か言えっつってんだよ、変態野郎っ」
珠生の細い腕を取って胸倉をつかんだ。間近の明るいところで見ると、彼は道端で見るよりずっとやつれていた。頬の線がくっきり浮かび、顔色も蒼ざめている。唇もくすんだ桃色で、雨に紛れつつも汗の臭いさえした。刹那、その受容しがたく衰えた印象に言葉が白くなったものの、傷にくたびれた瞳に出会うと、僕は彼の頬を引っぱたいた。
「お前はどこまで人間のクズになれば気が済むんだよっ。あれだけ僕をコケにして、まだ足りないのか、相変わらずバカにするのか。何だよ、僕の子供だからか。腹癒せか。僕がずぶとくなってつまらないから、このガキを傷つけようってわけか。くそったれ、そこまで僕が憎ったらしいのか。何か言えよ、答えろっ。ホモのくせに女に手出ししやがって、だったら誰にも近づくなっ。誰もお前なんか愛してない、僕だってお前なんか大っ嫌いだっ」
僕の息継ぎごとの暴力に、珠生は無抵抗だった。手足は床に垂れさがり、口元は呻呼をもらすばかりで、瞳は宙ぶらりんに濁っている。珠生は骨を失くした虚脱で僕の乱暴を受け入れ、いっそこのまま殺されてもよさそうだった。いや、もしかしたら僕に自分を殺させてハメるつもりか──そう思い当たると、僕は突然冷静になって手を止めた。
「ねえ、珠生」
彼の胸倉を離し、肩にぶらさがる腕をつかんだ。
「僕は毬音を愛してないよ。蛍華さんが僕を憎んでたみたいにね」
だるさに麻痺を重ねて死体じみた彼は、僕に渾身こめて引っぱられるとぐしゃりと壊れて顔面を床に引きずる。
「でも、毬音の意思は毬音のもんだと思うよ。で、毬音の軆は毬音の男のもの」
毬音は、僕が引きずる珠生を嫌悪を混ぜてよける。
「ホモじゃない、ほんとの男だよ。ふん、これは僕の雌豚が好きな台詞だけど」
うすら寒い暗い廊下を抜け、僕は珠生を玄関も引きずった。ドアを開けると、雨が横殴りになってきたのか階は濡れている。僕はうつぶせて地面に顔を伏せる珠生を、そこに放り出した。
「何しに来たか知らないけど、僕んちは公園の屋根じゃないんだ。悪かったね」
珠生の濡れたスニーカーも蹴り出す。一方は珠生の頭に当たり、一方は向かいのドアのそばに転がった。珠生は陰気な雨に打たれ、指先ひとつ動かさない。
「そこで死ぬなよ。迷惑なんで」
ドアで彼を遮断し、鍵もかけた。右手を腰にあて、虚ろな仏頂面で息を吐く。雨音が薄暗さに不気味に響く。寒いのでリビングに直行しかけたものの、はたと足を止めた。
「毬音」
返事はない。僕はキッチンの焜炉に腰を預けた。
「服着たか」
「………、ううん」
「着ろよ。お前は父親にはだか見られるのが言語道断なのは、知ってるだろ」
「………、」
「着せてほしい?」
「破れてるの」
「押し入れに何かあるだろ」
「ごめん」
僕はこまねき、左臑に右ふくらはぎを乗せた。
「何で」
「こんなのしてくるとは思わなかったの」
「分かってるよ」
「怒ってない?」
「お前より僕のほうがあいつの皮の被りかたは知ってるさ」
「ドアの隙間で、泣きそうだったの」
「………、分かってるよ。僕も最近のあいつには同情しかけてる。ココア淹れるんで服着な」
しばらく雨音しか聞こえなかったものの、ごそごそと音がして、僕も体重を脚に返した。キッチンの明かりをつけ、カップを取るついでに水切りに並べていた朝食の食器も片づける。
僕は熱い紅茶で、毬音は熱いココアだ。のぼった細い湯気に、澄んだ甘い香りと深い甘い香りが混ざる。「いいか」と訊いて、「うん」と毬音が答えると、カップとリビングに戻った。
毬音はベージュのコーデュロイワンピースを着ていた。「これどうするの」と破れた服を膝に乗せた彼女に、「ぞうきんにすればいいだろ」と僕はココアを渡した手で、服を回収して部屋の隅に放る。
室内は暖房がかかっていて暖かい。毬音はココアに口をよせ、僕はカップを床に置いて上着を脱ぐ。転がっていた折りたたみ傘を拾い、広げてそのへんに乾しておいた。毬音の正面に腰かけると、彼女は僕を見つめる。
「何だよ」
「パパとあの人って、仲悪いんだね」
「悪いよ。何で」
「こないだはそんなに悪くなさそうだったのに」
「今はあいつが変わったんだ。昔はあいつ、僕よりえらそうできつい奴だったんだよ」
「そうなの」と毬音はしばたき、僕はうなずいて紅茶をすする。苦い。砂糖が少なかったようだ。
「僕と母親とあいつで暮らしててね、僕は母親には殴られて、あいつには皮肉言われてって感じだった」
「パパはやりかえしそうだよ」
「やりかえすけどね、母親はともかく、珠生は絶対に上手にやりかえすんだ。昔はあいつに一度も勝てなかった」
毬音はカップに顔をうずめるように熱いココアを飲む。僕は何となく玄関のほうを振り返ったが、どうせこの雨で、珠生が去る音は聞き取れないだろう。
「何かね、話さなくなったの」
「ん」
「あの人がここに来て、パパとかママのこと訊いてきて、話して。でも、ぜんぜん顔知らないのと一緒でしょ。話が続かなくなって、パパに似てるって髪のこと言ってきて、普通に髪に触ってきて、いきなり抑えてきたの」
「………、」
「嫌がったら力強くしたけど、目はどっちでもよさそうだった。息ははあはあ言ってた」
「あいつはホモなんだ」
「知ってる」
「何で女のガキに手を出すかな。やる気だったと思う?」
「うん」
「されたかった?」
毬音は首を横に振った。「僕が帰ってきてよかったな」と鼻で嗤うと、「早かったね」と毬音は時計を振り返る。五時にもなっていない。僕は最後の客がキャンセルしたのを話し、「ふうん」と毬音はココアをすする。
「あいつ、ほんとに雨宿りしにきたんだと思う?」
「ううん」
「お前を犯しにきたんだと思う?」
「ううん」
「何しにきたんだろ。だいたい、何でここ知ってんだ。僕のあとでもつけたのか」
「また来るかな」
「上げなきゃいいだろ。鍵持ってるわけじゃないし」
「うん──」
歯切れ悪い毬音に、「鍵やったのか」と僕は渋面になる。毬音はかぶりを振り、「部屋上げてやりたいわけ」と僕は眉をひそめる。毬音はまたかぶりを振り、「じゃあ何」と僕が息をつくと、いっとき手持ち無沙汰の沈黙が流れ、「自分で言いたかった」と毬音は小さくつぶやいた。
「何を」
「あたしはあたしの、とか。パパがあの人に言ったの」
「ああ……別にお前を弁護したんじゃないよ。僕があいつに言ってやりたかったんだ」
「知ってる。だから自分で、あたしの気持ちとして言いたかった」
「今度言えばいいさ」
「もう会いたくないよ」
「男性恐怖症になりたくなきゃ、きちんとあいつに抵抗できるのは知っとけ」
「………、」
「性的なトラウマは、ほっとくと人生つぶすぞ」
「………、今度、言う」
僕はうなずき、紅茶にそっと舌を浸して渋みをすくいとった。
僕は毬音を殴るし、罵るし、打ち棄てるけど、犯しはしない。子供を抱くのがむごいとは思わない。思う資格もない。僕は子供の頃、大人の男に抱かれて喜んでいた。でも、僕は毬音を抱かない。あの男たちは虚構であっても僕を愛していた。僕は毬音を愛していない。ガキなんかに手を出すとしたら、それはむさくるしい異常愛か、冷酷なはけ口だ。そもそも、僕は女にろくにたかぶらない。
珠生は? 何で珠生が毬音に手を出そうとしたのか、まったく分からない。珠生が毬音を愛しているわけはないし、女のガキでは珠生にははけ口にもならない。珠生が受け専なのかは知らない。が、ネコなら吐き出さなくても千円淫売でうんざりやっているだろう。私的にはタチなので、ネコばかりで不満が募っているのか。ならば、穴なら何でもよかったという一理が成り立つ。あるいは珠生はバイセクシュアルなのか、でなければ、何もなくふらりと気が向いただけなのか。
毬音はココアを飲みほすと、部屋の隅に重ねていたクレヨンとスケッチブックを取ってきた。外では雨が続き、僕の体温は暖房と紅茶で回復した。
珠生は失せただろうか。本気であそこで死にそうだった。やだなあ、とうなじをかくと香水がこぼれる。紅茶を飲みほすとふとんを引っ張り出し、寝転がって身を休めた。毬音は黒髪の人間を殺している。
こいつに珠生に唾を吐かせてやろうとは思う。僕の珠生への憎悪は関係ない。僕や夏乃の暴力に毬音が無関心なのは、それが日常だと受容しているからだ。珠生の手出しにそんな心構えはなかっただろう。精神的後遺症が鬱陶しければ、ケリはつけたほうがいい。僕は毬音を子供としてはどうでもよくても、一個人としては否定しない。珠生にやりかえす取り持ちくらいはしてやる。
久しぶりにじっくり休むと、あとは普段通りの夕食や入浴だった。夏乃も来ないし、毬音も僕とのぶっきらぼうな会話で当面は気が紛れたようだ。ようやくひと息ついた雨にまばらに鳥が鳴く明け方、暖房は消し、防虫剤のにおいがかすれてきたふとんで僕たちは眠りについた。
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