不穏な影
男たちに愛されているうち、その温もりが心地よい寒気がおりていた。深まった秋に流れる風がひんやりとし、暖かいものがおいしい。十月の下旬、一度帰ってきた夏乃と大乱闘を起こしたり、珠生を見かけないのに気づいたりしていると、ファントムリムのライヴがやってきた。
宣伝時にすれちがってしまったため、光樹は打ち上げで僕とふたりで話す時間を取ってくれた。そのとき、ようやく僕は珠生に関して語れた。立ちんぼと野宿、病的な卑屈、毬音への手出し。「ぜんぜん知らなかった」と深刻の連発をまるきり知らされなかったことに光樹はふくれたが、「吹聴できることじゃないし」というまじめに話したかった僕の言葉に機嫌は直し、むずかしい顔になっていた。
現在の珠生は、いろんな意味で深長だ。「外でどうだったんだろうね」とふたりで極限のない妄想をしてしまう。珠生に手をさしのべるべきか、僕のその悩みには、光樹はにやにやしていた。「何」と睥睨すると、「優しいねー」とけして褒めるでなく光樹はにっこりとする。
別れ際には、「相談したければ、僕のとこ来ても、電話してもいいんだよ」と光樹は言ってくれた。僕はうなずき、「頼りにしてる」と微笑む。盗んだ自転車で陽桜に帰り、ファーストフードに自転車を置くついでにハンバーガーを買って帰宅した。
ちなみに、珠生は翌日の夕方には消えていた。毬音と温もりの残るハンバーガーを食べ、珠生に遭遇しない理由を考える。あんなのがあったので避けているのか、この街、あるいはこの地域を出ていったのか、もしくは──
やっぱり一応ぞっとして、でもありえそう、とハンバーガーにかぶりつくと、神経質な顔つきで口をもぐもぐとした。
「そういや最近、希水が帰ってきたってうわさを嗅ぎまわってる男がいるらしいぞ」
十一月の初日、ふたつ予約を片づけた僕は、〈neve〉のカウンターで午前一時の昼食を取っていた。マカロニグラタンで、冷たい風にあてられてきた頬に、ホワイトソースが香る湯気が心地よい。暖かい店内にいくらかほどけていた指で銀のスプーンを取り、かきまぜてその湯気をあおっていると、話していた客が行ってしまった頼さんが、正面にやってきてそう言った。
僕はスプーンをくわえるまま顔を上げ、ゆっくり口を動かして飲みこんだ。「まずいのか」と頼さんは眼鏡の奥で笑って椅子に腰かけ、僕はスプーンをおろす。男娼たちも買われていき、店内に耳につくざわめきはない。
「おいしいです」
「そりゃよかった」
「いっぱいいますよ」
「ん」
「希水が帰ってきたのが本当か、知りたがる男。僕も客に訊かれました」
「不愉快そうだな」
「あいつと寝たことあるのかって思うと、気分悪いですよ。個人的な因縁抜きにしても」
「因縁あるんだよなあ」と頼さんはいまだ実感が薄いように言う。
「訊かれてどう答えた」
「『名前聞いたことあるだけなんで』」
「よくチビたちが愚痴ってるぞ。希水ってそんなにすごいのかって」
この街生まれの子ならまだしも、ここ数年で流れてきて商売を始めた子は、希水に関して無だ。希水を知る僕たちがぶつくさするのを、彼らはきょとんと眺めている。
「会ってるか」
「ちょくちょく。いや、ここんとこは見ないですね」
「うわさに落ち着きがないよな。戻ってきたんじゃないのか」
「戻ってきた、っつうか──ふらふらしてるみたいですね。それで余計、真偽があやふやで男も探りたくなると」
「またここを出ていく可能性もあると思うか」
「どうでしょうね。どっかに消えそうでも、結局ここにいそうな気もします。えらく無気力野郎になってるんですよ」
チーズの匂いが柔らかなグラタンをすくう。息を吹きかけて口にすると、「まあそういう話じゃないんだ」と頼さんは椅子を座りなおした。
「水鳥が俺より希水に詳しいのは知ってるし、水鳥が希水のうわさにうんざりしてるのも知ってる」
「……ま、そですね」
「そういう意味で探ってる男の話じゃない。昨日しきみに聞いたんだ」
「しきみさん」
しきみさんは僕よりふたつ年上の男娼で、タチも売りものにできる人だ。筋骨そのものがすらりとした人で、初めて見たとき、僕は高級宿にいたころ自分をかわいがってくれたシーナさんを思い出した。過去は明確に知らないが、ストーカーをされて雑多なこの街に逃げこんだとか聞いたことはある。
「中央あたりのホテルに行った帰り、男に声かけられたそうなんだ。希水のことでな。客になりたいって感じではなかったそうだ」
「じゃ、あいつが勤めてた店の人間じゃないですか。取り返して稼ぎなおしてほしいとか。あいつの縄張りは中央でしたし」
「……そういうのもあるな」
「頼さんは何と思ったんですか」
「分からないんでお前に訊いてんだろ。しきみは気味悪がってたな。あいつの過去知ってるだろ」
「ちらっと聞いたことは。ほんとなんですか」
「今も振り切った確信はないそうだ。その男も、つけねらってる感じがあったそうだぞ」
「………、借金取りとか」
僕のふと真剣になった推測に頼さんは笑い、「分かんないですよ」と僕はまじめに言う。
「ここにいた頃のあいつなら僕は詳しくても、外でのあいつはぜんぜん知らないんですし。荒んだ生活は送ってたみたいです」
「幸せな結婚生活じゃなかったのか」
「違うらしいです。借金取りも追いこみも、秘密組織だってありですよ」
「そうなのか」と頼さんもまじめになり、僕はスプーンを噛んだ。秘密組織は言い過ぎか。秘密組織であれば、恐らく無闇に声をかけるなんて情報収集はしない。「めっき剥ぐなよ」と頼さんが目敏く言い、「はあい」と僕はグラタンをすくって内臓を温める。
「あいつ、ここでも生活すたれてるんですよ」
「ん」
「やつれてますよ。昔の客は見ないほうがいいですね」
「容姿は変わってないんじゃなかったのか」
「戻ってきてすぐはそうでした。今はやばいですね。ここって落ち着けなければ、淘汰で擦れ切れていくだけじゃないですか」
「……まあな」
「あんなに傲慢だったくせに。外で相当な目に遭ってきたんですよ。男とも儚い夢だったみたいですし」
「捨ててきたのか」
「別れたって言ってました。いや、逃げてきた、か」
「じゃあその捜しまわってる男、駈け落ち相手ってのはないか」
僕は頬の力を取り落として無表情になった。頼さんに開いた目を向けると、頼さんは僕の面持ちに肩をすくめる。
「駈け落ち相手」
「コントみたいな顔してるぞ」
「そうかも」
「そうか?」
「そうですよ、さらった場所だし、逃げたら探そうと想って来るのは当然ですよね。うわ、やば。ああ、だからやだったんだ。蛍華さんも店もわりと何も来ないと思ってたら、とうとう来やがった」
「そうとは限らないだろ」
「どんな男だったんですか」
「しきみに訊け」
「いや、僕は容姿探っても意味ないのか。相手の男の顔知らないし。えー、違うといいなあ。店、客、借金取り──どれもありうるか。ま、あいつを妙に追っかける男がいるんですね」
「そういうことだな」と頼さんは話をくくり、「僕も気をつけとこ」と水をひと口飲む。時間にゆとりもあるし、ホットティーは食後にもらう予定だ。
「お前に害あるか」
「身内ってことになってますし。僕、あいつと兄弟なのは隠してないんで、たぐろうと思えばたぐれます」
「ここに問題持ちこむなよ」
「努力します」
頼さんは承知して、期待しない息をつく。努力なんて言葉を使う時点で、覚悟しておいてほしいということなのだ。
その男が駈け落ち相手であるにしろ違うにしろ、珠生を探っているのは事実だ。ならば、僕に情報を求めにくるのは杞憂ではない。蛍華さんが来るよりマシか、と思っても、よく考えれば蛍華さんが僕にいちいち接触してくるわけがない。
「そういや」と雑誌に手を伸ばしていた頼さんが僕に向き直った。
「こないだ、豹がここに来たぞ」
「えっ。嘘、いつですか」
「ちょうど一週間前だな。土曜日」
「………、光樹のライヴに行ってた」
「だろうと思って、そう言っといた」
「何て」
「今も仲いいんだなって」
「えー。何でいないときに限って。まさか僕がいないんで来たんじゃ」
「弓弦に休みを入れてる日だとは聞いてたそうだ」
僕は打ち沈んだ。やっぱり、僕は豹さんに見離されつつあるのだろうか。一度はあの人を裏切った身ゆえ、文句を言えた義理ではないけれど。
「弓弦にこないだのこと聞いたみたいだな」
「僕が悪かったんですよ」
「俺もそう言っといた」
「何か言ってました」
「敵と味方がはっきりしてるなって」
「褒めてないですね」
「自分の前ではいつもかわいいもんだってのろけてたぞ」
豹さんの前では──豹さんの前なんて、もうずいぶん立っていない。まともに向き合ったのなんて、数年前の話になってくる。
「このへんに用でもあったんですか」
「らしいな」
「豹さんって、実は僕のこと嫌ってんじゃないですか」
「んなこと訊けば、言い切ってあいつは心外そうにするぞ」
「ぜんぜん顔合わせてくれないですよ」
「あいつも手離したあとのお前を見るのはつらいんだろ」
「………、」
「会えばまたお前を傷つけるとは言ってたな」
グラタンをのろくかきまぜ、舞い上がった湯気の匂いをぼんやりと嗅いだ。まだ気にしているのか。それはそうだけど──豹さんならとっくに整理をつける時間は置いた。「あいつは水鳥には歯止めがきかないんだ」と頼さんは雑誌のページをめくり、僕は小さくうなずくと、スプーンいっぱいのグラタンを食べた。
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