良くない雲行き
豹さんといえば、珠生は僕と豹さんの仲を疑っているのだっけ。自分は豹さんに嫌われていたとも話していた。豹さんは珠生の帰還のうわさは耳にしているだろうし、確認もしているだろう。
光樹は珠生が帰ってきたと知り、彼が僕に害を加えないか懸念した。豹さんはどうなのだろう。あのざまでは僕に害を加える気力もない、とそのへんまで見通しているのか。
部屋を移るのを弓弦か豹さんに相談したかったのも思い出す。弓弦とはとうぶん気まずそうだし、豹さんがいいのだけど、どうせ豹さんと連絡を取るには弓弦を経由しなければならない。頼さんに託しても伝わるだろうか。一応言っておくと、「女と縁切るのか」と頼さんはにやりとして、「そんなもんです」と僕は半分以下になってきたグラタンにそろそろ紅茶も注文した。
翌日の夕方、僕は〈neve〉でしきみさんを見かけて、例の男について訊いてみた。過去をはっきり知らない通り、僕としきみさんは顔見知りだが、同じ席にたむろする仲ではない。しかし対立する仲でもなく、別に近寄りがたくはなかった。同じく僕と普段は接さない男娼とテーブルにいたしきみさんは、僕の質問に、後ろに縛った長髪をいじって咲った。
「どうして」
「知っておきたいんです」
「希水くんに何かあるの。知り合いとか」
「僕とあいつ、共育ちなんです」
優雅を保っていたしきみさんは面食らい、同席の男娼たちと顔を合わせた。店内は集結しつつある男娼たちににぎやかで、背後のテーブルには僕と仲のいい男娼たちがたまっている。
「ほんとに」
「僕はほんとはあいつを本名で呼びます」
「へえ。聞いたことなかったな」
「言わなかったんで。僕に飛び火がまわってきたあとじゃ遅いですし。訊いていいですか」
「うん」
「どんな男でしたか。いくつぐらいとか」
「三十ぐらいじゃないかなあ。やつれててぱっと見はもっと老けてる。酒か薬はやってる目」
「この街の人間だと思いますか」
「どうだろ。気味悪くて一分も話さなかったし、そこまでは分からない」
「何て声かけてきたんですか」
「『五年前にこの街にいたか』」
しゃがれた声色を真似たしきみさんに同席の男娼たちは笑っても、僕はきまじめなひそみで頬をかいた。五年前。それは珠生に関わっていた人間すべてに関わる数字で、参考にはならない。しきみさんは深い香りのコーヒーに口をつけ、「うわさを耳にした客っぽくはなかったよ」と言った。
「浮わつきがなかった。また希水様を拝めるかもっていう、期待っていうのかな。甘い幻想がある感じでもなかった。もっと陰気で、執着的」
「………、希水を愛してるって感じでした?」
「情はありそうだったよ。愛かは分からない。憎悪かもね」
「希水はその男に見つかったほうがいいと思いますか」
「すれちがってたほうが無難だね。ん、希水くんってほんとに帰ってきてんの」
「帰ってきてます。僕は逢いました」
「そうなんだ。僕、『単なるうわさかもしれないですよ』って逃げちゃった」
今もいるかは分からない、と言おうとしたものの、そこまで説明する仲でもないかと深入りはひかえ、念のため男の特徴も尋ねておいた。
「背が高くて痩せて、髪がぼさぼさ。息に酒の臭いがした。腐った目の下に黒いのがあって、ピアスかほくろだと思うんだけど」
情報をモンタージュすると、漠然とそのなりは想像できた。僕は「邪魔してすみません」と詫びると、仲間のいるテーブルに着く。「水鳥にいさんって揉め事に噛むの好きだよねえ」とひとりが言い、「好きで噛んでんじゃないの」と顰め面で空席に腰かける。通りかかったウェイターに紅茶を注文すると、頬杖をついて目を細める。
やはり、駈け落ち相手の男だろうか。そんな気もするけど、珠生の五年間を知らない短絡だろうか。
五年間だ。珠生が外で接した相手が、駈け落ち相手だけだったとは考えにくい。さらわれて監禁されたのならともかく、珠生は恋をして逃げたと言った。それに僕は、男とのいさかいだけで珠生があそこまでなるかとも思っている。珠生が男との腐蝕以外の何かにも巻きこまれた可能性はある。となると、相手の男でなく、別の問題で珠生に関わる人間かもしれない。
外から珠生を追ってきた人間である気はする。この街は五年の空白を置き、珠生のことなんてすっかり忘れていた。希水のうわさを耳にした昔の客も、生々しい歓喜があるわけでなく、ぼうっと興味があるという感じだ。そんなに煮えたぎって追いまわすのなら、珠生とそう長い空白はない相手であるのが妥当だ。
外から追ってきた人間だとして、ひとつ好都合なのは、僕に関わる確率が低いことだ。外で珠生と知り合った人間が、僕の存在を知るわけがない。珠生が僕について吹聴していたとするのは思い過ごしだ。駈け落ち先で新しい生活を開こうと、過去は押しこめていたとするほうが自然だ。僕に何も来なきゃこんな悩みはいいんだよな、と頬杖をほどくと、考えこむ僕を眺めていた男娼たちの視線をはらって会話に加わった。
珠生がいったいどんな経験をしてきたのか、さらに疑りたくなってしまう。日々半殺しにされた、ヤク漬けにされた、ケツを蹴られて立ちんぼをさせられた──思いつく限りの不幸を並べてみるものの、あんがいちっぽけだったりするのだろうか。でも、高飛車だった珠生を自卑におとしめる傷口を負わせた刃物だ。つい、けっこうな刃渡りを想像してしまう。
珠生に知らせたほうがいいのかな、とも考える。分からない。僕はあいつにそんな情はない。僕に何もなければ、あいつがどうなろうと知ったことではない。
それでも、ただでさえあんなにきてる珠生に裂傷が重なるのはやばいよな、とも思う。本気で死肉のドブに沈没しかねない。僕と毬音とあんなことがあり、珠生が今この街にいるかは定かではなくなっているのだけど──
やな予感がするんだよなあ、と自分の身も含めて思い、いよいよぶれてきた地盤を憂慮した。
【第五十四章へ】
