青氷の祠-54

温かい食事

 三十過ぎにして初めて淫売を買った彼は、モーテルの正面玄関で気ぜわしく僕に微笑むと、「またね」と残してさっさと人混みに紛れていった。ひと目で小心者と分かる彼が、また淫売を買いにくる勇気を持てるかは、僕にも先見できない。
 上着を着ていても肌には冷えこんだ風があたり、縮んだ細胞にきゅっと首がすくむ。イルミネーションの空を仰ぎ、かすかな朝の気配にフロントの時計が五時前だったのを思い出す。このあとに予約はない。帰るか、と寒くても晴れていれば人混みはある騒がしい通りに踏みこんだ。
 モーテルの部屋で乾かしたばかりの髪に、寒風が刺さってこめかみが痛む。時間帯的に空気もぐっと冷たく、こぼれる吐息は淡く白い。香水を乗せる風にさらされる頬はこわばり、上着のポケットに手を突っ込む。周りにもニットをかぶったり、マフラーを巻いている人がいる。冬服は適当に引っ張り出しただけなので、今度の休みにきちんと衣替えしよう。
 宿屋街を歩いていると、恋人で防寒するふたりのいちゃつきが目にあまる。僕は生まれて十九年になるが、仕事以外で誰かとべたついたことはない。僕は人を愛した経験がない。愛されたこともない。光樹や豹さんは大切だけど、恋愛ではない。要は女と近しくなったことがない。母親や雌豚や小娘のおかげで、ちっとも恋愛に意欲を持てない。今は女との氷の愛より、男との熱っぽい愛がいい。
 そういえば昔、珠生に愛を知らない奴の愛はまずいと言われた。一理ある気がして、いまだに思い出すと頬が引き攣る。でも、客は僕をおいしく食べてくれる。愛を売るなら、愛を知っているのは邪魔だと、今なら思う。珠生だって、結局男と愛しあって淫売でいられなくなった。いろいろ外であったらしくも、あいつは僕より愛は知ってるんだろうな、と息をつき、その白さは風の流れに沿ってふっとすがたを失くした。
 珠生とは三週間近くも逢っていない。あんなふうに放り出したのだし、正直僕もあいつにどんな顔をすればいいのかには悩むが──なずむ夜明けに闇が濃い前方に何気なく目をやった僕は、はっと口角を締めて足を止めた。
 数メート先の軒下にいくつも自販機が並ぶところに、変質者が着るような黒いレインコートを着た少年がいた。自販機と向き合う彼はフードはかぶっておらず、首筋に伸びた黒髪を風に揺らしている。その髪のすきまに見えた横顔には、蒼白い頬と赤い唇、長い睫毛があった。
 珠生だ、と睫毛を数回上下させて心臓を抑える。
 生きていたのか。一応、よかった。僕のせいで凍死していたら、いささか気まずかった。街を出ていったのでもなかった。いや、いっとき離れていたのか。僕を避けてはいたようだ。今も避けているつもりかもしれない。意向にそって無視して人混みに紛れようとしたが、立ち止まる。
 追いかけている男について、言っておいたほうがいいだろうか。僕には関係ないか。言ったところで遭うときは遭う。とはいえ、知っておけば万一のとき無防備ではなくなる。でも、僕があいつの安全を計らってやるというのも──
 どうしよ、とたたずんでいると、視野の隅に引っかけていた珠生の隣に白髪混じりの男が立った。
 彼は珠生には目もとめず、ポケットをさぐって煙草を買っている。そこは飲み物だけでなく、煙草や食べ物の自販機も並んでいる。珠生が立っているのは飲み物の自販機の前だ。ちらつく人の通行が邪魔な中、一見珠生とその男に縁は見取れなくも、男の口元がもらす白い息で、彼が珠生に話しかけているのは分かった。珠生が彼へと首を曲げたのが証拠にもなる。
 男は煙草の封をきり、そっけない顔つきで何か言っている。珠生が答えているかは、彼の後頭部しか窺えないので分からない。僕の脳裏に、じめついた路地裏とくしゃくしゃの千円札がよぎった。
 男は煙草を口にしてようやく珠生を向く。珠生は彼を見つめたのち、小さくうなずいた。僕は息を飲み、男がくわえ煙草のまま笑って珠生の肩に手を伸ばしかけたとき、反射的に珠生の名前を呼んでいた。
 珠生も男も、いくらか周りも振り返った中、僕は人をよけてそこに駆け寄った。珠生はネオンに浮かんだ僕に目を開き、初老の男は訝しそうに眉をゆがめる。頬を風で切ってきた僕は、そこにたどりつくと、刹那、顔を伏せて考え、顔をあげると珠生ににっこりとした。
「何、この人?」
「え……」
「おでかけの約束は僕とでしょ。遅刻したからって、その場で浮気?」
 僕に殴られた染みを頬に残す珠生はぽかんとして、僕は瞬刻、苦々しい瞳を送って彼に調子に合わせるのを強要する。それで目が覚めた珠生は、ほとんどとっさにどうしたらいいのか分からないための様子で、「ごめん」とうわずった声を発した。
「いや、その──もう三十分、待ったし」
「ちょっと仕事で問題あったんだ。弓弦が助けてくれておさまったけど」
 弓弦、の名前で男の顔色が変わった。悔しいけれど、こういう場合は僕の名前より弓弦の名前が効く。豹さんの名前はそう乱用できない上、クズのチンピラだと格が離れすぎていて知らない場合もある。僕は珠生のもろい肩に手をかけて自分に引き寄せると、表情を蒼白にする男を向いた。
「ごめんね、おじさん」
「い、いや──」
「彼は僕のなんだ。だから触らないでね」
「連れがいるとは思わなくて」
「うん」
「すまない。その──じゃあ」
 僕が軽い笑みでうなずくと、男は逃げるように行ってしまった。それを見送ると、僕は顰め面で珠生をむく。彼の黒い瞳は困惑を泳がせていて、「勘違いすんなよ」と僕は彼の骨が分かる肩に置いた手を離した。
「お前に話があったんだ。逢えたっつうのに、あんなジジイに持っていかれたんじゃたまんないよ」
「……そ、そうか」
「また千円でやらせろって」
「いや、あったかい食事食べさせてやるって」
「飯代もないの」
「ん、うん」
 僕は燦々とする自販機に横目をし、「この一本も買えないわけ」と眉をひそめる。珠生は伸びた前髪に瞳を隠し、「買えなくはなくても」と痩せた声で言う。
「あとのこと考えたら、悩む」
 百円前後が生計を左右するのか。まあ、そういうのがあるのは僕もこの身で知っていても。珠生を下から上に眺める。「そのレインコートは」と訊くと、拾ったのだそうだ。「露出狂みたいだよ」と毒づいても、珠生に黒が似合うのは変わらない。顔も蒼白いし、魔女か悪魔を想わせる妖しい美しさがないこともない。拾いもののせいか、そのコートにはわずかに変な臭いがした。
「ずっと逢わなかったね」
「……お前が逢いたくないかって」
「避けてたの」
「まあ」
「風邪ひかなかった」
「さあ。ずっと頭は痛い。胃も」
「………、まじめな話なんだ。どっか店に入ろう」
「金ないよ」
「おごる。客を逃がした責任は取るよ」
 珠生は弱い瞳で僕を見つめた。僕は腰に手をあて、「僕はお前みたいに風邪ひいてるヒマもないんだ」と言う。珠生は首を垂れて空っぽに咲うと、うなずいて、雑音へと歩き出した僕の左に並んだ。彼のコートの裾は長く、切れこむように風になびく。
「ユヅルって」
「ん」
「はったり? ほんとに知り合い?」
「弓弦のこと知ってるの」
「知らないけど。えらい奴、なんだろ」
「そこそこね。ほら、僕を管理してるって奴だよ」
「年下の」
「そう。ほんとは今、そいつとは喧嘩してるんだ」
「喧嘩」
「僕は気にしてなくても、向こうはムカついてんじゃないかな」
 珠生の黒い瞳は、深い色合いで僕の横顔にとまっている。「何」と横目をすると、珠生は首を振って足元に睫毛をさげた。踏みかけた空き缶をよけたそのスニーカーは、あの日僕が蹴り出したものだ。「前から思ってたんだけど」と珠生は周囲の物音で聞き取りにくく言う。
「お前って、何か匂いがするな」
「香水つけてるもん」
「そんなんつけてたっけ」
「この匂いあると落ち着くんだ。嫌?」
「別に」
「お前はそのコート変な臭いがしてるよ」
「知ってる」
 僕はジーンズのポケットをさぐると、携帯用の香水を取り出した。珠生に吹きつけると彼は眉間を寄せ、けれど、ただの香水なのを知るととまどった顔になる。
「何で」
「変な臭いの連れなんて、僕が恥ずかしいだろ。あそこでいい?」
 前方の雑居ビル一階のファミレスをしめした。空がわずかずつ褪せはじめていても、閉店間際ではなさそうだ。珠生がうなずくと僕たちはそこに入り、ウェイトレスにふたりがけのテーブルに案内された。店内は半分ほど席が埋まっていて、ここは壁とも窓とも離れた中央あたりの席だ。
 僕は部屋での夕食があるので、ホットミルクティーしか注文しない。僕がそれだけなので、珠生もコーヒーですまそうとしたが、「何か食べていいよ」と僕が言うと、躊躇ったのち、彼はパイシチューを注文した。ウェイトレスが冷水を置いて去ると、僕はそのコップの表面に指先をすべらす。
「おせっかいだった?」
「え」
「胃が痛いんだよね」
「……三日ぐらい、ろくに食べてなくて」
「これからどんどん寒くなってくよ」
「死ぬかもな」
「男娼にならなくても、元のとこはお前をかくまってくれるんじゃないかな。昔の客のとこに行ってもいいし」
「………、うん」
 よく分からなくても、珠生はどうしても中枢には行きたくないらしい。やっぱ何か行きにくい事情があるのかな、と指先についた水滴をはらう。
 暖かく明るいところに来るのは、珠生は僕の部屋に来て以来なのだろうか。落ち着かない身動ぎをし、視線も迷子になっている。髪は綺麗で、肌にも垢がたまっている様子はない。立ちんぼでせめてもの生活費を稼いでいるのだし、コインシャワーには行っているのだろう。
 僕はあの頃、末期に至るとシャワーも何もなく客を取っていた。珠生はそこまでにはなっていないということだ。「貧乏臭いよ」と顫動をたしなめると珠生は僕を向き、ぎこちなくうなずいて冷たそうな水を飲んだ。

第五十五章へ

error: