青氷の祠-55

ふたりの男

「話って、あのこと」
「ん」
「こないだの」
「それもあるね。もうひとつ」
「何」
「お前、この街のうわさとか耳にしてる?」
「え。いや、ぜんぜん」
「希水様が帰ってきたって、この頃うわさが立ちまくってんだよね」
 珠生は慮外そうに臆し、店内の雑音が僕たちのあいだのテーブルに置かれた。「僕が流したんじゃないよ」と先に制しておく。
「面影あるしね、そうなんじゃないかって広がってきてるんだ」
「……そうなのか」
「僕も何人かの客に訊かれた。希水が帰ってきたうわさがほんとかどうか知らないかって。『知らない』って言ってる」
「ごめん」
「何で」
「……何か。怒ってない?」
「嬉しくはない。お前を昔抱いてたって、僕じゃなくても淫売には癇に障るんだ」
「……ごめん」
 ごめん。不気味な言葉だ。珠生が本気で罪悪感を感じているのも気味が悪い。ともすれば、こちらの嫉妬が内因の不快なのに──ここまで彼を変貌させた原因かもしれない人間が迫っていることに、僕は背筋を取りなした。
「珠生」
「ん」
「僕はさ、お前の駈け落ちのことほとんど知らないんだ」
 コップの水面の自分と向き合っていた珠生は、急な話題に僕に上目をよこす。
「僕が豹さんのとこを逃げ出して、何やってたか知ってる?」
「……さあ」
「お前みたいになってたんだよ。もっとひどかった。豹さんが助けてくれなきゃ死んでた、とは言ったね。ひと言でいえば、ヤク中の立ちんぼだったんだ」
 珠生は狼狽を混ぜて、僕の顔つきをたどった。「顔には何も残ってないけど」と僕は白いテーブルに腕をさしだし、長袖をめくる。うっすらと残る注射の痕を認めた珠生は、僕の瞳を見つめ、僕はその瞳に冷たい直視を返した。
「何でそんなのに走ったか分かるか。お前が僕にプレッシャーをかけたからさ。客と寝たこともないくせに、淫売面するなって」
「……ごめん」
「客と肌を重ねて、お前を追い抜いて一流になりたかった。それで僕は、豹さんを裏切って自分で客を取っていこうとしたんだ。ま、最後のほうは一流になるためじゃなくて、薬買うために客とやりまくってたんだけどね。だから僕は、お前の駈け落ちについて何も知らない。うわさも知らない。お前が消えて街は騒然としたらしいよ。それも耳に入らないぐらい、僕はあの頃やばかったんだ」
 腕をひいて袖を戻した。珠生の自失した目は、皺を正す僕の指先を追う。「お前のことは嫌いだよ」と僕は珠生のかすれた瞳をこちらに移させる。
「でも、帰るとこもなくて、ひたすら軆を安売りするしかないみじめさは分かる」
「……うん」
「外でひどかったの」
「まあ」
「もう戻りたくない」
「うん」
「駈け落ち相手との揉め事だけだったの」
「………、そこからいろいろあった」
「そう。希水が帰ってきたっていううわさを知らないんだし、こっちの話はますます知らないだろうね。この街に、外から追ってきたお前の足取りを探ってる男がいるよ」
 珠生はだるそうだったまぶたを押しあげて、僕を見た。
 僕は無頓着な瞳で肩をすくめ、そこにミルクティーやコーヒー、パイシチューがやってくる。ふっくらしたパイにシチューを閉じこめた代物だ。こんがりしたパイの香ばしさと、シチューの柔らかな匂いが暖かく食欲をそそる。
 それでも珠生は、にぶい衝撃で蒼ざめた頬に凍てついていた。伝票を置いたウェイトレスが去ると、彼はかろうじて視線を痙攣させ、断続的に息をつく。
「探ってる、って」
「僕と同じたまり場の男娼が、お前のこと知らないかって実際その男に訊かれたんだ。中央あたりでね。その男娼が言うには、昔の客とかじゃないと思うって」
「………、」
「自分を追っかけてきそうな男、いる?」
「……ふたり、いる」
「ふたり」
「どんな男だ」
 僕は紅茶にミニポットのミルクを入れ、砂糖も落として金色のスプーンでかきまぜながら、「三十ぐらいのまともじゃない男」としきみさんの情報を反復した。
「まともじゃない──」
「酒か薬はやってるって」
 それで珠生はどちらか分かったようだ。眉と瞳が信じがたさと恐ろしさにこわばり、覗いた舌が乾いた唇を舐める。
「背が高くて痩せててね、目の下に黒いピアスかほくろがあったって」
 テーブルに抑えつけられていた珠生の視線が、僕にびくんと刺さった。僕はミルクティーをすする。甘味と渋味の絡みあいが、〈neve〉のミルクティーと微妙に違う。
「ほんとに」
「と、声をかけられた人は言ってたよ」
「……そうか。何で外から来た奴って分かったんだ」
「それは僕の推測」
「碧織も逢ったのか」
「聞いた感じで、だよ。だってこの街の人間は、お前に生々しい感情なくなってるもん。そんなに目を血走らせて捜すなら、お前と長いこと距離は置いてない相手なんじゃない」
「……そうだな」
「心当たりある?」
「そこまで分かってんなら、分かるだろ」
 やや口調を昔に戻す珠生は、両肘をテーブルについて顔を両手でおおった。重苦しいため息が、その手首を伝う。
 僕はおいしそうな湯気を立てるパイシチューを見つめて、熱いミルクティーに体温を溶かした。
 珠生を捕らえるものは、嫌悪や厄介でなく、絶望に近い恐怖感のようだ。降りた肩の線や、指にもつれる前髪の震えがそう窺わせる。ちょっとまばゆい電燈の光に睫毛をおろしていると、剥がないほうがいいかさぶたを剥ぐみたいに、珠生はゆっくりと両手をはずした。
「あの人は、俺を愛してたけど」
 珠生の声はかぼそく、口調は波間のようにつかみどころがない。
「それは希水としての俺で、珠生としての俺は愛してくれなかった」
 顔をあげた僕は、はなからあったはずの彼の目の下の隈に初めて気がつく。
「一緒にいて、俺が希水以前に珠生だって気づいて、あの人は変わった」
 珠生の視線はテーブルを泳いでいるものの、恐らく視覚は麻痺している。
「あの人は、今は俺を憎んでる。俺のせいで自分の人生はめちゃくちゃになったと思ってる。俺に復讐したいんだ」
 珠生は長い睫毛を伏せ、首をかがめて顔も伏せた。
「どっかで愛してもいる。珠生の部分はいらなくても、希水の部分はないと生きられないんだ。だからあの人は、俺が手元にないと困る」
 珠生はパイシチューの皿を引き寄せ、大きな銀のスプーンを白い指に取った。スプーンでつつくと、パイのふくらみは破れて湯気が湧き起こる。
「俺はあの人を愛してない。顔も見たくないのに」
 珠生はスプーンにすくったシチューを息を吹きかけて口にふくんだ。黙りこんだ彼に僕も何も言わず、その男が誰なのか確信を得られたのでこの話には満足しておく。気をつけろよな、と言いたかったのだけど、いまさら言い添えるだけ野暮だった。
「珠生」
 彼が黙々とシチューを半分ほど食したところで、ミルクティーを引きのばして味わう僕は声をかけた。温かい食べものに頬や唇にいくらか色彩を取り戻した彼は、疲れた目だけはそのままに顔をあげる。
「このあと、ヒマ?」
「ん、まあ」
「だったら、僕んちに寄ってくれないかな」
「何で」
「毬音がお前と話しときたいって」
「マリネって──」
「お前が手出しした小娘」
「……話って」
「あいつに悪いことしたと思ってる?」
「………、まあ」
「じゃあ、あいつにけじめつけさせて、後遺症残らないようにしてやってよ」
 珠生は、にんじんやブロッコリーが浮かぶシチューをのろくかきまぜ、テーブルに柔和な匂いをただよわせた。僕はその匂いで強烈に空腹を感じる胃を、どうにかミルクティーでなだめる。
「やだ?」
「いや……いいよ」
「っそ。話しかけたの、それもあったんだよね」
「碧織って、あの子をけっこうかわいがってるんだな」
「かわいがってないよ」
「尊重してるじゃん」
「あいつもひとりの人間ってことは侵害しないよ。子供ってことでの愛情はない」
「他人だったら、人権なんて平気で無視するんじゃないかな」
 僕は不愉快になったものの、珠生に悪意はなかったようだ。それより何やら実感がこもり、その口振りは傷んでいる。
 窓を見やると、いつしか外ではネオンが消えはじめ、浅い朝陽に空に横たわる雲も蒼くなっていた。人通りも失速し、店内の客もいくぶん減っている。僕は喉に溶けこむミルクティーを飲みほし、珠生もパイまですっかり胃におさめた。「じゃあ行こっか」と僕は勘定をすましてファミレスを出ると、珠生と部屋への道のりを並行した。
 薄暗かった街並みが、昇る太陽に少しずつ照らしだされていく。ビルの窓、路地裏の角、ゴミだらけの道路──冷たい風の中、緩く暖かな陽射しに、光景はしおれるように印象を乾涸びさせていく。ほどけるように喧騒が蒸発し、電線の鳩がこもった声で鳴いていた。
 僕と珠生はあたりさわりない話をし、何となく過去や例の男には触れなかった。毬音のことも特に話さない。生ゴミほどではなくなっても、依然として珠生には外の腐臭がしていた。そのへんを言って珠生を複雑そうにさせていると、夕町に入ってアパートに到着していた。

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