ちらつく人影
「ちょっと待って、それってやばいじゃん!」
頭の中が錯乱するのを、脳内に抑えて帰宅した。蒼ざめる顔を伏せて部屋に入ると、ベッドでふとんをかぶって、何とか考えようとした。でも、膝ががくがくして立てないときみたいに、どうしても思考が成り立ってくれない。
やがて、玄関から「ただいま」という聖音の声がして、僕は身を起こした。まだ日は陰っていない。兄なのに、いつも僕が頼ってばかりで情けないけど、聖音になら話せる気がする。
目のことは一応置いておこうと決めて、僕は聖音の部屋を訪ねた。聖音の部屋はアクアブルーでまとまって、聖音自身も私服の黒いシャツとアイスブルーのパンツの私服になっている。
僕は青と白のボーダーのベッドに腰かけ、「どうしたの?」と訊いてくれた聖音に、帰り道にナイフで襲われたことを途切れがちに話した。そしたら、聖音はぎょっと驚いて、僕を覗きこみながらそう言った。
「怪我は? してないの?」
「う、うん。外れたら、そのまま行っちゃって」
「男? 女?」
どきん、とあの目がよぎっても、「分かんない」とうつむいて答える。
「そっか。やっぱ、男かな。いや、最近は女でもいるもんな。えー、あの道通るの、ほんとにやばいんだ。えっ、それはさ、ちゃんとおかあさんにもおとうさんにも学校にも話さないと」
「が、学校にも」
「当たり前じゃない。誰か殺されてからじゃ遅いんだよ。ていうか、おにいちゃん、ほんと無事でよかった……」
聖音は僕の腕をつかんで、深く息を吐いた。「話してごめんね」と何となく言ってしまうと、聖音は首を横に振って「話してくれてよかった」と言った。
「おにいちゃんは、そのこと、人に話してほしくないの? 知られたくない?」
「そういう、わけじゃないけど。大したことないかもしれないし」
「いや、それ、通り魔だからね。大したことあるよ。今、みんなに知っておいてもらわないと、ほんとに誰か刺されたら」
「………、うん」
「一緒に、おかあさんたちには話してあげる。学校には、おかあさんたちが話してくれるよ」
「……分かった。話す」
「ん。おかあさんたち、あたし以上に取り乱すかもしれないけど。一応、今回は無事だったって前置きで話そう」
僕はうなずき、「おかあさんひとりに先に話すより、おとうさんがついてるほうがいいかな」という聖音の意見にも首肯し、まずおとうさんの帰りを待つことにした。
さいわい、おとうさんは残業で遅くなることなく、夕食の十九時頃には帰ってきた。夕食を食べてから話すつもりだったけど、僕も聖音もそわそわして、おかあさんにたしなめられるので、結局夕飯を食べながら両親に事を話した。
ふたりは目を開き、おかあさんは席を立って、まず僕の無事を確かめ、おとうさんは「何で帰ってすぐにおかあさんに言わなかったんだ」と混乱混じりの声で言う。それには聖音が、「おとうさんがついてたほうがいいと思ったの」と言ってくれて、それでおとうさんもはっとした様子になって、僕たちに謝った。
「どこにも何もされてないの?」と泣きそうなおかあさんに僕はうなずき、「でも、びっくりした」と言う。それから、おとうさんが学校とか警察とかに連絡して、僕は病院に連れていかれた。
怪我はないのに、と思ったら、カウンセリングみたいなものを受けさせられた。僕はあの目を思い出して、それが結びつけるものが怖くて、でもそれを気取られないように、うつむいて話をした。「つらかったら学校もしばらく休んでいいからね」と男の初老のお医者さんは言ったけど、僕は「大丈夫です」と答えた。
学校に行けば会える。一刻も早く会いたかった。そして、瞳を見つめ直して、似てるなんて思い過ごしだと確認したかった。
翌日、それが僕だということは伏せられてだけど、在校生徒が通り魔に遭ったと全校集会が開かれた。でも、もちろん教師間では僕が被害者だと知られていたし、担任である先生は、特にすぐ耳に入れたようだった。朝のホームルームでめずらしく何度も僕を見てきたし、「放課後、話したい」と国語の授業のあと、直接ささやきにきてくれた。
先生の瞳は少し震えていて、やっぱりあの目とは違うような気がしてきた。あの目は、一瞬だったけど、もっと殺意につらぬかれていた。
やっぱり、先生ではないのだ。そうだ。そんなことがあるわけがない。そう思えることにほっとしつつ、同時に、では誰だったのかという疑問がのしかかってきて、ぞっとした。
放課後、教室にふたりきりになると、先生は真っ先に僕を抱きしめた。先生の腕の中に収まって、そういえば、身長が先生と犯人はまったく違うことに気づいた。
あの犯人は、僕とそんなに変わらなかった。ということは、もしかして同年代なのだろうか。年齢を聞かれて分からないと答えてしまったけど、それを伝えておかないといけない。
「昨日の夜に、学校から連絡が来て」と先生は息を吐いて、苦しげに口を開いた。
「すぐ、連絡したかったけど、たぶんスマホなんて見てる状況じゃないだろうと思って」
「僕も、先生に電話したかったけど、おかあさんが寝るまでまくらもとにいてくれて」
「そうだよな。でも、何も連絡できなくてごめん」
かぶりを振って先生にしがみつき、その匂いに頬を押しあてる。先生は、しばし僕の頭を撫でたあと、そっと顔を上げさせて「軆は無事だったとは聞いてるけど」と眼鏡の奥に泣きそうな色を見せる。
「ほんとに、大丈夫だよな?」
「ん。一瞬だったし」
「もう、ひとりでは帰るなよ。今日も俺が送っていくから」
「ほんと?」
「毎日は無理かもしれないけど。そのときは、誰かと一緒に」
「誰……か」
「友達が無理に作れないなら、おかあさんに迎えに来てもらってもいい」
「……うん」
「少し恥ずかしいかもしれなくても、何かあってからじゃ遅い。なるべく、俺が送れるようにするよ」
僕がこくんとすると、先生は僕を抱きしめなおして「よかった」と小さくつぶやいた。教室はわりと蒸していて、エアコンも切ってあるから体温が高いけど、僕はその微熱に酔っていたかった。
先生じゃない。先生であるはずがない。背だって違う。でも、先生の瞳を僕はよく知っていて、見紛うことがあるだろうか。
こればかりは、先生にも聖音にも誰にも相談できない。先生が疑われるのは嫌だし、疑われたら先生が傷つく。僕はこうして、先生の腕の中にいられるのなら、それでいい。
その日、先生は通り魔や安全対策のことで会議があって、僕は教室でひとりで先生を待つことになった。いきなり僕の帰りが遅いと家族に心配されるから、聖音に連絡して、先生に送ってもらえることを伝えた。『うまく言っとく』と聖音は請け合ってくれて、僕は教壇に腰かけ、青空が暮れて暗くなっていくのを見つめた。
十八時をまわった頃、先生が教室に来て、「少し車出せるから帰ろう」と言ってくれた。
「『少し』って?」
首をかたむけながら立ち上がると、「また七時から会議が再開するんだ」と先生は僕の手を取ってくれる。
「……そうなんだ」
「ごめん、そばにいられなくて」
「ううん。先生は担任だから、一番きつく言われるよね。ごめんね」
「優織は謝らなくていいよ。……昨日も、こうやって会議終わるのを待ってもらえばよかったな。そしたら──」
僕は先生を見つめた。まだほんのり闇が蒼く透けている。
先生の苦しそうな瞳に、やっぱり違う、と思った。先生じゃない。僕の危険にこんなに傷つく人が、僕を傷つけるはずがない。
僕は先生の腕に抱きつくと、「あのね」と小さな声で言った。
「時間ないの、分かってるけど」
「うん」
「車……ちょっとだけ、人目がないところに停めれる?」
「えっ」
「先生と、その……し、したら、嬉しくなれるから……」
「……優織」
「先生に触ってほしい……」
先生は僕を見つめて、「俺のほうが、ショックでできるか分からないけど」と弱く咲った。
「優織がしたいなら」
「あっ……先生が嫌だったら、その、………」
言いながら、なぜか息苦しさがこみあげて、涙があふれてきた。襲われて、人に話して、ぜんぜん泣かなかったのに、今になって涙がぼろぼろと止まらなくなる。
「優織」と先生がとまどった様子で、僕を覗きこんでくる。僕は先生の腕にもっとしがみつき、その手を握りしめた。
「優織、ごめん。俺が情けないこと言ってる場合じゃないのに。ちゃんと、抱いてあげるよ。優しくするから」
「せんせ……」
「大丈夫だよ。俺も嫌ってわけじゃなくて、ほんとに、すごく……怖かったから」
「こわい、って」
「優織がいなくなるなんて、考えたくない。もしかしたらそうなってたかもしれないのが、すごく怖いんだ」
先生を見上げて、触れ合った瞳に、先生も僕の手を強く握った。その温かさに涙が落ち着くと、「行こう」と先生は僕の手を引いて教室を出た。
僕がいなくなるなんて──僕も、先生がいなくなるなんて考えたくない。そんなの、考えただけで頭がおかしくなる。僕自身より、僕のそばにいる先生のほうがよほど傷ついているのだ。僕の隣にいる人だから、きっと、僕がいなくなったら自分もどこにいたらいいのか分からなくなってしまう。
ほんのりアプリコットの匂いがする車を、マンションの影になるところに停めた。僕が座る助手席を倒し、先生は軆を重ねて僕の開襟シャツをはだけさせ、丁寧に触れて口づけてくれた。僕は小さく声をもらして、引き攣るように喉を反らせる。
先生がこちらに体重をかけて、顔を覗きこんできた。ゆっくりキスを交わすと、服越しに先生のものが僕のものに触れる。僕は先生の首に腕をまわし、先生は僕のベルトを外してファスナーを下ろすと、先端が濡れているそれを手に包んでそっと動かした。
すると、びくんと快感が生々しく駆け抜けて、僕の喘ぎも切なく湿る。下半身が痺れて、ふわふわに蕩けて、過敏に痙攣する。先生を呼ぶと、先生もベルトを緩めて自分を取り出して、確かめるように僕の中を進み、奥に届くまで腰を沈めてくれた。
僕は目をつぶって、背中が汗ばむのを感じながら、先生の動きのまま溶けていく感覚に溺れた。ぎゅっと先生にしがみついて、時間を気にしなくてはならないのも分かっていたけど、体内に宿っている先生の熱を、愛おしく感じ取った。
先生は動きながら僕のものも手で刺激して、絶頂が集まって硬くなって、脈が激しくなっていく。先生の舌が僕の首筋をたどり、僕の切れた息にかすれそうな声がもつれる。
先生も小さく声を出し、「いきそう」とつぶやいた。「中に」と言うと「でも」と躊躇われて、「お願い」と僕は先生のワイシャツをつかんだ。先生はそれでも渋ったけど、それ以上に波が大きくなって我慢できなくなってきたようで、「何かあったら、ちゃんと相談して」と言って腰の動きを速くした。
「何か」──男同士で妊娠はないけれど、それでも、中で出すと大変なのは一応聞いている。だから、先生はいつも中では出さない。僕は目を閉じたまま、先生から響いてくる快感に喘いで、先生は何度も僕の名前を呼んだ。
やがて先生が不意に僕の奥を突き、中でほとばしったのが分かった。僕はわなないて、その刺激に意識が揺らいで、その緊張の隙に一気に達してしまった。
荒っぽい息がぐるぐるまわって、先生は僕の肩を顔を伏せた。僕はゆっくりまぶたを押し上げ、視線を迷わせ、何の気なしに闇が降りた窓を見た。
そして、思わず声を上げてしまい、「え」と先生は頭をもたげた。
「何──」
「い、今……人が」
「え?」
先生も振り返って窓を見たけど、僕の声が上がった拍子に、人影はすっと窓のそばを離れていた。
「人、って」
「誰かいた。暗かった、けど。たぶん──」
「………、同じ奴、か?」
「わ、分からない……」
声が震えたのを見取って、先生は僕を抱きしめた。
何だろう。ただの通りすがり? 昨日と同じ人?
通り魔なら、僕をいちいちまた狙うだろうか。あるいは、通り魔じゃなくて、何か理由のある行為なのか。僕がそんなに憎まれる理由なんて──
先生にぎゅっと抱きついた。先生との関係を知った人がいたら、もしかしたら。あんな目と、先生の優しい瞳が似ているなんて、やっぱり気のせいだったと思う。そうしたら誰なのか見当もないけれど、先生は人気のある教師だし、この仲を察してひとり占めだと憎んでくる人もいるかもしれない。
けれど、僕は何も言わなかった。先生のせいかもなんて言って、先生に距離を置かれるのは嫌だ。
先生の隣にいたい。それだけは譲れない。
どんなに怖くても、先生のこの体温を肌から失くしてしまうよりはいい、そう思った。
【第五話へ】