青氷の祠-58

回想【13】

 僕は豹さんの部屋に引き取られ、そこで療養することになった。寝室の豹さんの青いベッドで安静を取りながら、僕は軆から余計なものをこしだし、妙なものを軆に入れないのに神経も精神もそそいだ。できる限り、その集中から目をそらさないようにしたが、僕の中毒は自力で脱せるものではなくなっていた。意志さえひしいで渇望はのたうちまわり、僕の肢体に洗脳の電流を流そうとする。気持ち悪くてたまらず、止めてくれる人がいなければすぐにふらつきに出そうだった。そこで、ほぼ一週間、僕から薬や酒が抜け切るまで豹さんがつきっきりで見守ってくれた。
 禁断症状も激しく、僕はかちわってしまいたいほどがんがんする頭を壁にぶつけたり、かきむしったりした。急にせりあげて、膨脹する真っ暗な何かに息を切らして悶え、まともに眠ることさえできない。かろうじて眠っても、はっきりした心象のないただ暗い波に飲まれる息苦しい悪夢にうなされて泣きわめきだす。
 そんな僕を忍耐強くなだめる豹さんの胸に嘔吐もした。茫漠と死にたくなったり、ぐったりと死体のようになったりもした。暴れて叫び散らし、わけの分からない自虐もした。僕がどんなに見苦しいことになっても豹さんは目をそらさず、全部受けいれて消化し、僕は豹さんの腕の中で徐々に安定を取り戻していった。
 落ち着いてくると、豹さんの仕事が心配になったが、僕のあの惨憺たる状態を知った時点で、豹さんは保護した暁には僕に付き添うのを考慮していたそうだ。豹さんは一週間の休暇を取っていた。それでもかなり無理をして取った休暇らしく、申し訳なくなっていると、「これぐらいしかしてやれないしな」と豹さんはベッドに横たわる僕の額を撫でた。僕のようやく息を吹き返した心は、豹さんの愛情を独占している噛みしめたい歓喜と陶酔に瑞々しく潤っていった。
 とはいえ、一週間後にはやはり豹さんは復帰しないわけにもいかなかった。だが僕をひとりにするのも忍びないようだった。依存にはだいぶ意志がきくようになっても、フラッシュバックがいつ来るか分からない。
 バッドトリップになったように虚脱したり狂暴になったり、かつベッドを降りようにも脚がふらつき、手持ち無沙汰だと鬱状態になる。僕は心身共に自分で自分をまかなえず、更生にはどうしても介護が必要だった。だが骸骨じみた僕を不用意に人目にもさらしたくなかった豹さんは、考えた挙句、僕のゆいいつの友人の存在を思い出した。
「光樹?」
「ああ。彼のところに行くかとも思って、ときどき連絡を取ってたんだ」
「……そっか」
「会いたくないか」
「ううん。元気かな。高校生になってるよね」
「どうだろうな。行くか分からないとは言ってた」
「ほんと」
「ああ。碧織を心配もしてる。知らせは入れておかないとな。来てもらうか」
「光樹がよければ」
「よし。じゃあ連絡しておこう」
 豹さんは起こしていた僕の上体を横たえさせた。明け方が近かった。療養中とはいえ、この街に生きるのなら昼夜反転が自然だ。カーテンが引かれた薄暗い寝室で、こうして豹さんのそばで寝つけるのも今日が最後だ。それは惜しくとも、光樹に会いたくもあった。一週間も休んでいそがしいのは分かっていても、「時間があったら会いにきてくれる?」と甘えてしまうと、豹さんは微笑んでうなずき、「落ち着くまではここにいるといい」とも言ってくれた。
 かくして、豹さんと入れ違いに光樹が僕の様子を見てくれるようになった。この高層マンションの私的な部屋に、豹さんは滅多に他人を通さない。今回ばかりは、僕の幼なじみであるよしみで光樹は通された。
 出勤前の豹さんに案内されて寝室に踏みこんだ光樹は、ふかふかのベッドに沈む僕と茫然と見合った。僕はこのとき初めて、橙色の髪に黒曜石のピアスを刺す光樹を見た。「じゃあ頼むよ」とスーツをきっちり着こんだ豹さんが部屋を出ていくと、光樹はそろそろとこちらに歩み寄ってべッドサイドに腰かけた。
 静かな部屋に、ひかえめなベッドのきしみが響く。外は夕暮れで既にカーテンが引かれ、明かりがついていた。僕と光樹はなおも見合い、僕が先にぎこちなく咲った。光樹はジーンズの膝に目を落とし、そこに肩にかけていた茶色のリュックをおろす。豹さんが出かけたのか、かすかにドアの閉まる音がした。
「光樹──」
「どれだけ心配したと思ってんの」
「………、」
「めちゃくちゃ心配してたんだからね。後味だって悪かったし。あの電話──何にもなくなかったんじゃん」
「……ごめん」
「そのまま死ぬつもりだったんじゃないだろうね」
 だんまりにうなだれると光樹は顔をあげ、僕の痣の残る頬をたたいた。強くはなくも、優しくもなかった。僕は光樹に目を上げ、するとそこでは光樹が瞳を滲ませている。
「バカ。碧織は碧織だけのもんじゃないんだよ。僕とか、豹さんだって、碧織がいなくなったら何か失くすんだから」
「ごめん」
「ごめんじゃすまないの」
「……ごめん」
「碧織には僕が消えたってこたえるとこ、ないみたいだね」
「あ、あるよ。ごめん。だって、僕、あのままじゃいけない気がして」
 光樹は僕を睨むように見ていて、気圧されてうつむく。豹さんはそういう態度は僕に表さなかったが、本当はぶつけたかったのだろう。そうされて当然のことを、僕はした。弁解もなく、ただ申し訳なくなっていると、光樹はたたいた僕の頬に触れた。
「僕には外で友達ができたよ。それは、碧織と距離ができたのとは違う」
「……うん」
「けど、ごめんね。やっぱり外で交遊持ったら、遠く感じるよね」
 光樹に上目をした。身動きに長い髪のシャンプーの香りと肌に染みこんだ豹さんのベッドの匂いがこぼれた。「僕たち、友達だよね」と光樹は言い、僕がこくんとすると彼は眼つきをやわらげる。
「じゃあ、もう消えたりしないでね」
「うん」
「約束だよ」
「うん」
「碧織が僕を想ってくれてるのは知ってる。それぐらい、僕も碧織を想ってるんだ。碧織にないがしろにされるとつらいよ」
 もう一度こくんとすると、光樹は微笑んで僕の頬にあてた手を引いた。そして改めて僕をまっすぐ見つめ、「よかった」と瞳を深める。僕が照れ咲うと光樹も咲い、膝に乗せていたリュックを脇に移した。
「長髪」
「オレンジ」
 僕たちは咲い、それぞれ自分の髪に触れた。「切る機会がなかったんだ」と僕は肩胛骨もおおう髪の毛先をつまむ。剥げた爪に絆創膏が貼られる指は、減退した食欲に鉛筆より折れやすそうだ。
「落ち着いてきたし、切ろうと思ってる」
「うん。あんまり似合ってない」
「知ってる。光樹も、何それ」
「豹さんにもぎょっとされた。変かな」
 僕は光樹を眺め、わりと突飛ではない印象をそのまま伝える。光樹はうなずき、「いろいろ試してこれがしっくり来たんだ」とくすんだ橙色を撫でた。
「鮮やかオレンジじゃないでしょ」
「ちょっとくすんでるね。茶色っぽい」
「青とか緑は見事に合わなかったよ。わりと地味」
「ピアスもしてるね。綺麗」
「黒曜石だよ。何か結局、僕って地味なのが似合うみたい」
「どういう心境の変化」
「碧織が消えてグレてたの」
 僕がばつがわるくなって首をすくめると、「冗談だよ」と光樹は失笑する。
「グレたい心境ではあったけど。僕ね、この街に帰ってきたんだ」
「え、ほんと」
「ただし、彩雪に」
「彩雪って、北の」
「そう。クラブにパーティにテアトルの」
「何で。こっちで部屋見つからなかったの」
「待ってね」と光樹はリュックを膝に戻し、中を覗いてあさった。思い出したようにいちごクリームのワッフルをお見舞いだとよこし、それから、緑のスケルトンのカセットを取り出す。
「カセット」
「何が入ってると思う」
「………、元気になる曲」
「はずれです。あ、聴きたい音楽とか観たい映画があるならレンタルしてくるよ。これね、何と僕がヴォーカルやってる歌が入ってんだよね」
「ヴォーカル」
「外で友達できたって言ったでしょ」
「ん、三人ともわりと落ちこぼれだって」
「うん。僕ね、その三人と音楽始めてたんだ」
「音楽」と思い設けない言葉に僕はまじろぎ、「バンドね」と光樹はケースにおさまったカセットを手のうちに転がす。
「で、僕がヴォーカル。ギターの美静ってのがいうには、僕の声はいいんだって。ふたり組の不良がベースとドラムス。みんなでこの街に流れてきたんだ」
「みんなで」
「そう。音楽やるなら、やっぱこっちより彩雪のがいいでしょ。僕、外ですれちゃったんで、とにかくこの街であれば場所に文句はつけないんだ。こっちにも遊びに来るよ。しょっちゅう来れると思う。碧織のほうからも来れるでしょ。一応、彩雪なら陽桜とおんなじ層だし」
「うん。じゃあ、音楽ってCDとか出して、プロになるの。あれ、そしたらまた外──」
「んー、プロにはならないつもり。プロじゃなくても、誰かに聴いてもらうのはできるしね」
「そっか。高校は」
「行きません。義務でもないのに学校行くなんて。もうあんなのうんざりだよ。高校行くなら、中卒って軽蔑されてたほうがマシ」
 僕は笑いを噛み、ふとんをずりおちかけたワッフルをベッドスタンドに移す。食べられるか分からなくても、あとで冷蔵庫に保存はしておこう。
「陽香さんは納得してるの」
「ぜーんぜん。音楽も反対されてる」
「そうなの」と軽く目をひらく。意外だった。陽香さんが光樹を理解しないのも、陽香さんに理解されていないことを光樹が押し切るのも。
「それでいいの」
「分かってくれたらなあとは思う。かあさんは外で素人になじんで、この街で娼婦なんてやってたのは忘れたいんだよね。僕がこの街に懐くのも嬉しくないんだと思う。この街に住むのもいい顔されなかったよ。結局、仕送りとかいっさいしなくていいってので出てきちゃった」
「家出」
「たまには帰るよ」
「音楽も反対されてるの」
「堅気に落ち着きなさいって」
「音楽って堅気じゃないの?」
「碧織に較べたら堅気だけどね。一般人にしたら、不安定極まりなくてヤクザなんだよ。サラリーマンになれとはさすがに言わなくても、ちゃんと学校行って安定したらって。ま、心配なんだ。でも僕はこれでやっていけると思うし、音楽してると落ち着くんだ」
「そっか」と僕が首肯すると、「碧織は賛成してくれる?」と光樹は不安げな上目になる。「したいことがあるならしたほうがいいよ」と僕は微笑む。
「したいことないっていうのが、一番怖いし」
「うん」
「したいことしないと、僕みたいになっちゃうよ」
「……怖いね。そう、碧織はまともな売春がしたいとは言ってたもんね」
「っていっても、この何ヵ月もまともじゃなかったよ。落ち着いたら話すね。今は、薬のこととか、思い出すだけでやばいし」
「あ、ごめん。無理しないでね。したいときでいいよ」
 咲ってうなずき、肩におりた髪を耳にかけた。「ライヴハウスとか出てるの」と話を切り替えると、「まだ」と光樹は肩をすくめる。
「これが初めてのオリジナル」
 光樹はカセットを揺らし、「聴けるようになったら聴いて」とさしだした。僕はもろい手先で受け取り、「どういう感じなの」とカセットの表面に自分の死神じみた顔を見る。
「ロックかな」
「ロック」
「ポップスとかフォークではないね。ギターの美静しか音楽に詳しくないんで、曲のために詩をけずったり、詩のために曲をいじったり右往左往だよ。詩は僕が書いたんだ」
「どんな詩。恋愛のこと」
「教室で孤立してたときのこと。暗いです」
「そういうの歌って、平気なの」
「そういうのを歌うんで楽になれるんだ。吐き出せるんだよね」
「そっか。今度聴いてみるよ」
「うん。プロにはならなくても、ライヴハウスとかには出れるようになりたいと思ってる。そしたら来てよ」
 僕はこくりとして、「でも、意外」とカセットをワッフルのかたわらに置く。ベッドスタンドのデジタル時計は“18:41”と表示し、外にはいつのまにか闇がおりている。
「光樹が音楽に行くなんて」
「僕も美静に切り出されるまで考えてなかったよ。歌ってみるとすうっと溶けてね、ああこれが僕に必要なものだったんだなあって。精神の安定とか未来の指針とか、ぼんやりしてたのが歌を見つけて定まってきたよ」
「僕がいなくなって始めたの」
「いや、中二のとき」
「聞いてないよ」
「ごめんなさい。いや、成立するようになるか分かんなくてさ。僕は啓示受けたとしても、お遊びにすぎなかったかもしれないし。美静は子供の頃からギターしてたけど、残りの三人は初心者だし。ベースとドラムという下地がなってない上、何か、歌も声出しゃいいってもんじゃないんだよね。感覚だけでとりあえずセッションしたときは、めちゃくちゃだったよ」
「歌うってむずかしい?」と僕は不案内に首をかたむけ、「けっこうね」と光樹は肩をすくめる。
「メロディ追うには呼吸法とか大事だし。変なとこで息継ぎして、リズムはずすと台無しでしょ。息が切れるとコントロールしにくいから、体力もつけなきゃいけない。初心者三人が自然とこなせるようになって、アンサンブルも取れるようになってきたのは、ほんと最近」
 よく分からなくも、いい方向にまとまってきているのは分かってうなずいた。それでも光樹は、僕がいまいち分かってないのに気づいたようだ。「まあ聴いて」と照れ笑いしてカセットをしめす。こくんとして、今度豹さんにラジカセあるか訊いてみよう、とカセットはベッドスタンドに置いたままにしておくことにした。

第五十九章へ

error: