殺意の暴発
その日、三人目の客と別れた深夜二時過ぎ、僕はひとり、黙々とネオンと喧騒の人混みを縫っていた。三時によっつめの予約があり、それで今日は上がりだ。一時間余裕があるわけで、ゴミを踏む僕のスニーカーは〈neve〉へと向かっていた。
湿り気が寒風を通す髪に、額やこめかみがずきずきと神経に障る。唸る風が吹くたび心臓や首がすくみ、麻痺した指でマフラーをきゅっと締めた。吐息をこもらせるマフラーは香水が薫っている。
立ち並ぶモーテルのネオンが寒気を通して目に染み、周囲にはいちゃついて寒さを吹き飛ばそうとするふたり連れがうようよしていた。僕も客と落ち合った喫茶店からモーテルに向かうまでそのひとつだったので、文句は言えない。でも早いとこ出たい、と厚手のジーンズに包まれる脚を機械的に動かし、飲食街へと抜けられそうな路地に目を走らせてもいた。
十一月も下旬で、来月になればこの雑踏も落ち着くだろう。遊郭で遊びふけるのを休み、帰省したり家庭で過ごしたりする人がいる。反面、彩雪は夜遊びと朝帰りの暴騰に凄まじいことになる。去年光樹たちが出演したクリスマスのライヴに出向いた折は、僕は色彩と雑音に翌日までまぶたと鼓膜がまたたいていた。昨日逢った宣伝に来た光樹曰く、今年のクリスマス当日にもいつものライヴハウスのイベントに出演するらしい。翌日も休みにしておこうかな、と対策を練りつつ、今はまだ普段通り騒がしい通りに目をやる。
比較的この街は、年末年始に踊らされない。僕はクリスマスも正月も祝ったことはない。誕生日も。幼い頃は誕生日には豹さんが何か買ってくれたか。
蛍華さんは絶対に僕の誕生日なんて祝わなかった。当然だ。あの人には、僕が誕生した日など一年で最もおぞましい厄日なのだ。例によって、珠生の誕生日には仕事を休んでどこかに彼を連れ出していた。クリスマスも正月も──なぜ蛍華さんは、珠生が帰ってきたといううわさに行動を起こさないのだろう。
珠生がみずから帰ってくると信じているのか。そういう、はたで観ると愚直な精神的連結は、確かに蛍華さんと珠生のあいだにはあった。蛍華さんを想うと、珠生への憎悪が再燃しなくもない。でも、このあいだの裏切られた瞳や、凍えて萎縮するさまを想うと、その炎に風が当たる。僕は珠生に紛糾していた。蛍華さんがそのうち出てくるのに手を貸すのもなあとぐずぐず思っていると、僕は突然肩をつかまれた。
びくっと振り返った僕は、桃色のイルミネーションを顔に走らせる相手に目を開いた。左頬に大きな生傷が駆けぬけ、右目の下にほくろが座っている──認識する前に肩の手を振りほどいて逃げようとした。
しかし、男は関節の浮いた手を俊敏に僕の腕に移し、骨を砕きそうな圧力を加えてくる。
「離せよっ」
「来るんだっ」
狂暴なしゃがれ声に、身を返した僕は彼を睨みつける。
「離せっ」
「来い」
「ざけんなよ、てめえみたいな客はいらないって言っただろっ」
「俺は客じゃない」
「じゃあ、あんたに僕に手出しする権利はない、離せっ」
「来るんだ」
「てめえ、こんどこそ殺され──」
男は僕の腕を強引に引き寄せて、胸に倒れこませた。汗と酒が饐えた臭いにぶつかり、とっさに喉が捻じれる吐き気が湧き起こる。身を捻ってその胸を押しのけようとする僕の腹に、男は何かを食いこませた。彼の肩に喉を圧される僕ははっと目を開く。
かちり、というひかえめな音が内臓に響いた。
「来るんだ」
「………っ、」
「さあ」
「……何で僕を怨んでる」
「お前なんかいなくなればいい」
「………、」
「めちゃくちゃにして殺してやる」
僕は周囲の変わりないざわめきを聞いて唇を噛み、思いっきり男のみぞおちにこぶしを突き刺した。男はうめきに息を止めてしゃがみこみ、僕は一瞬も置かずに駆け出そうとする。男はしぶとく僕の足首をつかみ、僕は危うく道の真ん中で前のめりに転びそうになった。
「てめえ」と唸り声をあげて、つかまれた足を振りまわして男を蹴ろうとするも、男は執拗に僕の脚に取りつく。周りの人間がさすがに怪訝そうに見て、しかし何もせずに通りすぎていく。
「何なんだよっ……」
武器も腕力も彼が上である恐怖が、涙に剥げる化粧のごとく僕の虚勢を暴こうとする。
わけが分からない。何で。どうしてこの男は、そうも僕を憎んでいるのだ。珠生はこの男に何を吹きこんだのだ。こんなのに犯されたくない。殺されたくない。
僕は野生動物みたいに生きるのだけにしがみつき、どうにかこの息を喘がせる男を逃れようと、いっそう脚にちからをこめてまといつく腕を突き離そうとした。
「お前が消えればっ」
喉に穴が空いた声で、男は僕のふくらはぎに爪を伸ばした。
「お前がいなければ、」
「離せ、」
「お前を殺せば、俺は──」
「離れろ、ゲス野郎っ」
「お前を消してやる、そしたら全部、」
「ちきしょうこのクソ野郎、てめえなんかに消されてたまるかっ。そんなんだから、希水にも捨てられたんだよっ」
男を目を剥き、突如身を起こして僕の膝まで抱えこんだ。僕は震動に力が空振りしそうな軆を何とか制御し、ずれたマフラーにあふれる白い息の痙攣を食い縛る。僕の逆らう脚に、捨て身にしがみつく男は、凄絶にたぎった眼でこちらをつんざいた。
「殺してやるっ!」
息を突き裂く絶叫で、男は渾身で僕の膝を引き、僕はゴミだらけの道路に尻持ちをつかされた。周りがよけて人だかりを作る間もなく、男は腰を強く打った僕を路地に引きずりこむ。暴れても動くほど腰に打撃が走り、湿った暗がりで男は僕にのしかかった。
マフラーを取って喉元に顔をうずめ、咬みちぎった襟もとの亀裂で一気に服を引き裂く。声帯を裂く悲鳴を上げても、誰に届くわけでもなく、僕は這いずってでも逃げ出そうとした。すると、男は僕の喉に冷たい黒光りを押しつけて声までも塞ぎ、白く若い肉体を剥き出しにする。
やわな素肌に容赦ない寒風が体当たりし、心臓が硬直と震駭に混乱した。頭が息切れとわななきにぐらつき、焦点が定まらない。男に唇を奪われるのと最悪の事態の光景が交互にまたたき、次第にどちらが現実なのか分からなくなってくる。
男の饐えた臭いに吐きそうなのは確かだ。自分のものか男のものか知れない荒い息遣いが錯乱をあおり、冷えきった地面についた指先が麻痺に動かなくなっていく。脚をばたつかせても、腹にまたがる男にはろくな攻撃ができず、むしろ自分の腰の打撲を痛めつけてしまった。
抵抗の極限を突き破ったとき、まるで眼前に墨がかかる絶望が脳から心にどろりと垂れこめる。
もうダメだ。おしまいだ。敵いっこない。どうすればいい? 分からない。犯される。殺される──
ジッパーを引きおろされながら虚脱しかけたとき、にわかに軆の上でがつっと勢いよくガラスの砕ける音が飛び散った。はっとした僕にもガラスが降りそそぎ、頬に破片がかすって痛みが走る。ついでどさっと男が僕の胸に倒れこみ、僕は驚きにまごつく顔をあげた。そこで白い息をおののかせて、ビール瓶の首をつかんでいるのは、珠生だった。
「珠生──」
ろれつのまわっていない僕の声に、視覚を停止させていた珠生はこちらに目を向けた。「早く」と彼は細くなった右手をさしだし、僕はつい躊躇いかけても、息がある男に躊躇っている場合ではないと痺れた手で痩躯を押しのけ、珠生のもろい手をぎゅっとつかむ。
どちらの手も、冷水に浸したように冷たかった。
珠生は僕を立たせてくれ、よろけた僕は彼の右肩に倒れこんでしまう。
「ご、ごめん」
珠生は何も言わずに黒いコートに僕の肩をかばい、ビール瓶を手にするまま、じめついた路地を出た。自分で歩こうとするも、腰の痛みが助けがないと膝を崩させる。珠生のコートにはあの変な臭いと汗と精液の中、かすかに僕の香水が残っていた。髪には安っぽいシャンプーの匂いがする。
珠生はビール瓶はコートに隠し、僕の肩を守って人混みを歩いていった。息ざしを怯えさせる僕は何度も振り返り、けれど追いかけてくる男のすがたはない。ビール瓶が割れる強さで頭を殴られたのだから、起き上がるより死ぬほうが自然か──
まぶたを伏せて、珠生の鎖骨に顔をうずめた。それでも珠生は僕を見ずに歩いていたが、肌に雫が触れると、歩調を緩めて僕を見おろした。
「碧織──」
「……ごめん」
「……いや」
「怖くて……」
「……うん」
「……ありがと」
「俺は、知ってるから」
そっと珠生を見あげる。珠生の前髪のかかる黒い瞳は弱く咲った。
「あの人に襲われる気持ちは、ね」
間近で見ると、鼻梁や顎骨の美しさでやはり彼が美少年なのに気づいた。僕はうなずくと彼の腕に身をひそめ、破られた服を胸で握って珠生の体温に目を閉じる。珠生は僕をビル街に連れていき、僕たちはそのへんの道端に座りこんだ。
僕はおろされたジッパーをあげると膝を抱え、珠生の肩にもたれて、寒さと名残る恐怖に震えた。口づけで移った酒気はべたつく唾液で取れてきても、珠生のコートにはビールの臭いが立ちこめてきている。
珠生は弱った僕を見つめ、そろそろと乱れた焦げ茶の髪を撫でてきた。首に変なかたちで絡みつくマフラーの裾と、落ち着いていく吐息が風に緩く流れる。背後に建つのは店でなくビルで、窓を通る明かりや彩られる看板もなく足元は暗かった。目の前をさまざまな脚が行き来し、けれど、やがて滲んできた瞳にそれは見えなくなってしまう。
「……何で」
「え」
「何であの人、僕をあんなに殺したがってるの」
「………、」
「珠生は知ってるんでしょ。何で」
「………」
「どうして」
珠生は眉を硬くさせて僕を見つめ、髪を撫でる手を止めると首を垂らした。僕は頬に涙を流し、傷に鋭利な痛みを感じながら珠生に目をすえる。珠生はスニーカーにはりつめた瞳を刺し、変色した唇を噛みしめた。
「珠生」
「……知らないほうがいい」
「何で」
「お前は過去を片づけてる」
「過去」
「蛍華さんのことも、俺のことも。あの家のこと」
「あの家に関係してるの」
「落ち着いておきたいなら、知らないほうがいい」
「どうせあの人で落ち着けないよ」
「別のとこが揺らぐんだ。俺は知らないほうがいいと思う」
「そんなの僕が決めることだよ。僕は知りたいんだ。教えて」
涙を引かせる僕と虚ろに疲れた珠生は見つめあい、珠生が先に後ろ暗くうなだれて首を振った。僕は歯噛みしても、珠生につけいる隙を見つけられなくて濡れた睫毛を伏せた。
【第六十八章へ】
