僕らの恋はうまくいかない-5

ガーリィボーイ【4】

 好きな人と過ごせる時間は早い。あっというまに二月の下旬にさしかかった。会社に戻らず外食で昼食を取っていた雪模様の日、かばんの中でケータイが鳴った。希音くんに設定している着信音だ。
 塩ラーメンをすすっていた手を止めて、ケータイを取り出す。着信は電話でなくメールで、『仕事中にすみません。』という件名だった。
『鎬樹くん、確かXENONも聴くって言ってましたよね。
 来月の頭、天鈴町でXENONのライヴがあるんです。
 俺、行くつもりなんですけど、鎬樹くん興味ありますか?
 オフしてみたいなと思ってたから、訊いてみました。』
 思わずまばたきをして、読み返してしまった。XENONは、メジャーデビューはしていないけれど、インディーズでカルト的な人気を誇るロックバンドだ。特にヴォーカルの梨羽りわの正常じゃない歌は伝説に近い。俺はCDでしかそれを聴いたことがなく、ライヴに行ってみたいとは思っても、機会がないと思ってきたけど──
 返事を書こうとしたものの、すぐにはまとまらなかった。XENONのライヴは行きたい。希音くんとならオフもしてみたい。でもやっぱり、ネットから一線を越えるのは経験がなくて怖い気がした。どうしようと考えながら、その日の仕事を終えた。
 まだ雪が降っていて足場が悪いので、歓楽街には寄り道しないことにした。帰宅途中の電車の中で、イヤホンからXENONを聴きながらよくよく悩んだ。躊躇いを全部振りはらえたわけではなくても、部屋に着く頃には決心がついていた。
 ここは、ひと息に勇気を出してみよう。
 そうして翌月の初め、俺はひとりで彩雪に踏みこみ、迷いながらたどりついた〈まろん〉というダイニングバーで希音くんと対面した。ちょっとかわいい感じの童顔の男の子だった。希音くんは〈まろん〉の常連であるらしく、オーナーの栗香さんという女の人とも親しげだった。
 XENONが出演するライヴハウスは〈まろん〉の地下にあって、その夜、俺はそこでイベントのトリを務めたXENONを観た。XENONのビジュアルは現在ではわりと謎めいていて、ファーストアルバムのアートワークでしかはっきり認められない。が、そのファーストアルバムで見れる限り、梨羽の顔立ちは譲くんに似ていると思ってきた。実際その夜に見た梨羽は中性的で、でも服装はもちろん男で、譲くんが男のすがたをしたらあんなふうなのかなと思った。
 ライヴが終わると希音くんと〈まろん〉で閉店までいろいろ話した。小説のこと。音楽のこと。そして、偶然にもその夜から五年間無職だった希音くんが〈まろん〉で働くことが決まり、俺はまたここに会いにくると約束して、午前二時半が近い深夜に〈まろん〉をあとにした。
 天鈴町は昼には活気がなく、夜にしか息づかない。この時間帯でも残像するイルミネーションの下で、人通りはうるさいぐらいあった。三月に入っても夜の風はまだ冷たい。少し身を縮めて、希音くんと一緒だったので確認できていなかったケータイをチェックした。
 メールが来ている。譲くんからだ。件名はない。返事ついでに今から店行くの伝えようかな、とかちっとメールを開き、飛びこんだ文面に俺は思わず息を飲んだ。
『しのくんには報告しとくね。
 俺、彼女できた。
 告白されて、まだ嫌いじゃないってだけだけど。
 元カノ忘れるには必要かなって。
 今度こそ幸せになるぞ!』
 たたずんでその文章を見つめた俺は、「あー……」と小さく声をもらした。
 目をつぶってめまいをこらえた。心に刺さる杭が、さらに深く感覚をえぐる。息が喉で詰まって呼吸にならない。頭の中がくらくらとまわって螺旋状に暗くなる。座りこみたくなったけど、何とかこらえて、かたわらの壁にもたれた。
 つらい。やっぱりつらい。どうしても譲くんが好きだ。譲くんには俺は対象でさえないのに。はなから恋愛としては見てもらえないのに。譲くんがほかの人を見つめるのは苦しい。
 譲くんを抱きしめて、俺のものにしてしまえたらどんなに幸せだろう。そんな夢は絶対叶わない現実が重すぎて耐えられない。しかし、この想いをあきらめることもできない。ほんと俺ダメだな、とにぎやかな人混みに目を投げて、無性に心細さを覚えて、泣きそうになる。
 また譲くんに会える機会が減ったのもあり、〈まろん〉によく顔を出すようになった。希音くんは栗香さんにあれこれ教わり、失敗もやらかしつつ、仕事を続けていた。
「小説の更新が減ったね」と休憩で希音くんが相席してくれたので訊いてみると、「働くとろくに書けなくなるー」とタメ口になってくれた希音くんは息をついた。
「何かもう、書いてないとすっげえ不安なんだけど。俺このまま枯渇したらどうしようって」
「ぜんぜん書く時間ない?」
「時間は作ろうと思えば作れるけど、集中はコントロールできない。できるようになっておかなきゃいけないけど」
「やっぱ、希音くんが最後になるのは作家だよね」
「作家以外に道がないよ。自信なんかないけど、死にたくなきゃやるしかない」
「何かすごいな、その心構え」
「生きる手段が極端に限られてるだけだよ。適度に生活能力あったほうが便利。鎬樹くんみたいなリーマンができるんなら、やってるんだけどなー」
「ごめん、無理そう」
「俺もそう思う。はあ、ほんともう書きたい。書いてるときのあっちの世界にいたい。でも、そうやってると『人間のクズ』って言われんだよなあ」
 だが、そうして希音くんを中傷する人は、希音くんがうらやましいだけではないかと思う。それは魅力的な小説が書けることかもしれないし、かなり自由に生きていることかもしれないし、自分の道を確信していることかもしれないけれど。
「希音くん、休憩終わりだよっ」
 カウンターから栗香さんの声がかかって、「あーっ」とか言いながらも希音くんは立ち上がる。俺は笑いを噛んでそれを見送り、持ってきた読みかけの音夜おとや一紗かずさの本を読みはじめる。
 テーブルに置いたケータイを一瞥するけど、着信はない。今回の彼女との恋は、連絡さえなかなか取らなくなるほどらしい。
 譲くんの勤める店に顔を出せば、もちろん会うことはできる。でも、何となくそこにも行けていなかった。前に彼女ができたとき、譲くんに会うと、その表情に滲み出る幸せがつらかった。
 彼女の話を隠すことも俺にはしない。本当に、信頼されているのだ。友人として。客あつかいで嘘をつかれるよりはきっとマシなのだが、友達以上はありえないなら、答えは客と何が変わらないのだろう。
 だが、連絡さえ取れずに一週間ぐらい経つと、友達でいること以上に他人になるのが怖くなって、やっとメールぐらい送ることができる。
『メールありがと!
 なかなかこっちから連絡できなくてごめん。
 会えたらいっぱい話あるから聞いて。』
 そんな簡素なメールは返ってくる。とっさに彼女の話は聞きたくないと思う。次に会う約束などほのめかされていないのに気づく。最後に、俺について何も訊いてくれていないことに絶望する。
 今、譲くんの心は彼女でいっぱいなのだ。そんな譲くんに会うのは、怖い。
 陽射しが風を柔らかに溶かし、カレンダーは四月になった。今年度も部署移動はなく、営業でさらに成績を伸ばすように言われた。だから、夜になると、お世話になっている店には定期的に顔を出す。譲くんのいる店ではどうせ譲くんとしか話さないので、行かなくても売り上げで困ることはなく、無理に会わなくていいのが救いだった。
「何だ、ほんとに来たんだ」
 手持ち無沙汰になる週末は、たいてい〈まろん〉に向かい、砂糖を溶かしたコーヒーを飲みながら本を読む。その土曜日の夜もそうしていた。店内が賑わいはじめて、俺もそろそろ夕食にしようかとメニューを一瞥したときだった。
「いらっしゃいませ」と言いかけた希音くんが、驚きを混ぜてそんなことを言った。
 ドアを閉めながら店内に入ってきたのは、希音くんと同い年くらいの女の子だった。
「きーちゃん、ほんとに働きはじめたんだ」
「信じてなかったのかよ」
「そうだね、あんまり」
「ふん。まあいいや、こちらへどうぞ」
 希音くんに案内されてひとりでテーブルに着いたその子は、地味な印象の女の子だった。セミロングの髪は黒く、瞳に射す光も少ない。紺のワンピースは、一瞬制服に見える。
 彼女にお冷やを出した希音くんは、視線を感じたのかこちらを向いた。視線が合って、俺は曖昧に咲ってしまう。
「あの、ええと……」
「何か食べる?」
「うん。菜の花とホタルイカのパスタ、いい?」
「オッケ」と言いながら、希音くんは伝票にペンを走らせる。
「コーヒーのおかわりもいいかな」
「おかわりすぐ持ってくる?」
「食事とでいいよ」
「ん、分かった。──で、澄音すみねも何か食べる?」
「おすすめは?」
「春野菜のパンケーキかなー」
「じゃあそれ。というか、きーちゃんタメ語で働いてるの? さすがろくでなし」
「鎬樹くんは友達なんだよ」
 その女の子が俺を振り向き、俺はまた曖昧に咲った。「メル友だったけど、先月にここでオフしたんだ」と希音くんが言ったとき、「すみませーん」とほかの客から声がかかる。「はあいっ」と希音くんは確かに敬語になってそちらに駆け寄っていった。
 女の子は俺に少し頭を下げて、それから憂鬱そうな横顔でテーブルに頬杖をついた。希音くんの彼女──ではなさそうだな、と思いながら、俺はめくっていた本に目を落とした。
 二十時頃まで店内をばたばたしたあと、今日は昼から入っていたという希音くんは、シフトを上がって「疲れたー」と俺のテーブルにやってきた。
 希音くんは、ほかのバイトの都合で不規則にシフトに入れられているらしい。「時間帯ぐらい固定してもらったら」と言うと、「栗香さん、そんな優しくない」と希音くんはテーブルに伏せる。
 それから首を捻じった希音くんは、「澄音」とまだひとりでテーブルにいる例の女の子に声をかけた。カップに口をつけていた彼女は、こちらに一瞥くれる。

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