嘘をつくよりは【2】
おにいさんはちょっと沈黙したものの、「うん」と答えてくれた。私はぼんやりした目をおにいさんに向ける。そうすると、「半分夢の状態で言ってるな」とくすりと咲った顔が見えて、「約束するよ」と今度はおにいさんははっきり言ってくれた。
「じゃあ、またね。澄音ちゃん」
私はこくんとして、やっとその場から歩き出した。つまずきかけてはっとして、目をこすって振り返る。おにいさんは手を振ってくれている。私も手を振ると、大丈夫、と意識を何とか保って帰路についた。たどりついた家の明かりは、消えていた。
眠い、と思いながらゆらゆらと家の中に入って、暗闇の中、ほとんど無意識に和室に自分のふとんを敷いて倒れこむ。おとうさんは二階、おかあさんはリビング、私の家の就寝はばらばらだ。息を吐いて力を抜く。また会えるかな、と霞んでいく意識であの穏やかな微笑を想って、その日は不思議と深く眠れた。
すぐ夏休みになった。蝉が鳴き狂って、焼けつく太陽が空気をゆでる。私はまだ自分の部屋がないから、日中はリビングで大量の宿題を消化する。エアコンはあまりつけてもらえることはない。
おかあさんは掃除、洗濯、買い物から料理、おとうさんの留守中もおとうさんの気に障らないようにすべてを欠かさない。おとうさんはいつも仕事からの帰宅直後が一番機嫌が悪くて、ぴりぴりする空気の中で始まる夕食は苦痛だ。それが終わると、私は和室にこもってテレビを眺める。
おとうさんの声がするたび、次は怒鳴りはじめるのではないかと硬直してしまう。そんなふうに胸の中にしこりを溜めながらも、夜になると私は一気に解放され、家を抜け出して暗闇にも臆さずに公園へと走る。
おにいさんはベンチの脇の街燈で本を読みながら、私を待ってくれている。私の駆け足に気づいて顔を上げ、「やっぱり今日も来た」と咲って隣に座らせてくれる。
私はすっかりおにいさんに懐いて、きーちゃんに対するよりずっと素直ににこにこするようになっていた。そんな私におにいさんは笑いを噛んで、「結局毎日会ってるよなあ」と私の頭を撫でる。
「きーちゃんよりおにいさんといるほうがいいもん」
「きーちゃんが俺のことを知ったときが怖い」
「大丈夫だよ、きーちゃん何にも知らないから」
「けっこう澄音ちゃんSだよね」
「えす?」
「まあいいけど。俺も澄音ちゃんの役に立ててるなら何よりです」
おにいさんはそう言って、柔らかな笑顔を向けてくれる。その笑顔を見ると、私はわけもなく元気になった。
きーちゃんのことはすごく信頼している。それでも、きーちゃんよりこの人と過ごすほうがいい。それは、私がこの人に、きーちゃんにはない感情をすでに持っていたからだったのだろうか。
夏休みは、ほとんど毎日おにいさんに会っていた。二学期が始まっても、ときおり夜に会っていた。
それでも、おにいさんの受験が加速するにつれ、遭遇する回数は減っていった。私は懲りずに公園に通っていたけど、おにいさんのすがたを見つける日は少なくなっていった。
秋が深まり、冬が冷えこみ、春が芽生えて──おにいさんは高校生になって、私は四年生になった頃、ついに会うことはなくなってしまった。
またきーちゃんの家に行くようになることはなかった。顔は出しにいっていたけど、きーちゃんはますます小説を書くことにのめりこんでいて、集中して書いている最中に部屋に入っていくのは悪い気がした。
五年生になった春には、ようやく自分の部屋をあてられたので、物音がしてもそこにこもっておけばよかった。でもやることがなくて、やるためのお金もなくて、勉強に熱中するようになった。先生にやたら褒められ、クラスメイトには百点のテスト用紙をうらやましがられ、だけど、両親は私がどんな成績をおさめても変わらなくて。
やがて私は、きーちゃんも在籍する公立中学に進学した。
桜の花びらが風に奪われるまま散っていた。入学式、もちろん私の両親は来ていない。教室で頬杖をついて、あの人もこの中学だったのかな、となんてぼんやり思い出したりした。
もう夢だったように感じる。だから、あさっての始業式の段取りを聞かされて午前中のうちに解散になり、つかつかと教室も校舎も出て、校門も抜けてしまおうとしたとき、その声が聞こえたときは空耳だと思った。
「澄音ちゃん」
立ち止まる。
え?
嘘……
嘘、でしょ。
だけど聞き違えるはずがない。このテノールの優しい声──
「久しぶり。はは、セーラー服かわいいな」
急いで振り返った。花びらをはらんだ春風が、長い髪やスカートをひるがえす。もたれていた校門の門柱から体勢を正しているのは、物柔らかそうな綺麗な男の人だった。
「おにい……さん?」
「うん。ごめんね、あのまま会いにいけなくなっちゃって」
あの面影が微笑む。視界がじわりと滲む。もっと背が高くなって、軆つきもしっかりして、でも、間違いじゃないのはその笑顔の感触で分かる。
心が花壇で香る花のように咲いていく。不思議と喜びが湧いて、暗く陰っていた気持ちがふわっと元気になる。
私は彼の元に駆け寄り、思いっきり抱きついた。彼は笑って受け止めて、「よしよし」と変わらずに頭を撫でてくれる。
「澄音ちゃん、綺麗な女の子になったね」
「も……もう、会えないって」
「俺も。けど、ずっと気になってた。あのとき、小三だったよね。だから、今日ここに入学するかもって」
「会いたかったよ……っ」
「俺も。忘れられなかった」
ぎゅっと抱きしめられて、彼に会えなくなって忘れた涙がいっぱい生まれ落ちていく。
彼は私の嗚咽を受け入れて頭をさすっていてくれて、やっと私が落ち着くと、「このあと時間って大丈夫?」と訊いてきた。私は彼の胸から顔を上げてこくんとした。「よし」と彼は私の手をつかむと、引っ張って歩きはじめる。
「そういえばね」
「うん」
「私、おにいさんの名前を知らないの」
「えっ。そうだっけ。あ、そういや呼ばれたことないかも。筧だよ」
「カケヒ……さん。今、何歳になるのかな」
「十八。こないだ高校卒業したよ」
「高校行ったんだ」
「一応ね」
「じゃあ、今年から大学生?」
「受験しなかった」
「えっ」
「家も出たよ。高校も半分は出席してない。試験で大目に見てもらえて、卒業できただけ」
私は筧さんの後ろすがたを見つめて、手を握り返した。
「じゃあ、家に帰らなくてよくなったんだね」
筧さんは振り返って、にっこりしてからうなずいた。
「澄音ちゃんは変わらないの?」
「自分の部屋ができたから、何かあればそこにこもってる」
「そっか。じゃあ、これからはこもらずに俺たちのとこにおいでよ」
「筧さん、たち?」
「俺、高校のときにグループに拾われてさ。そこに、今住んでる部屋とかも用意してもらったんだ。金もそのグループの仕事で稼いでる」
「グループって」
「表向きはタレント事務所だけど。所属してる女の子の仕事はAVに出たり、そのAV見て気に入ったおっさんにデリバリーで買われたりすること」
思い設けない「裏の仕事」に立ち止まってしまった。筧さんは「大丈夫だよ」と咲って私を覗きこむ。
「確かに、いかがわしいけど。澄音ちゃんに、危ないことさせるつもりはないから」
「……ほんと?」
「うん。ただ、俺と一緒に裏方の仕事やってみない?」
「裏方、って何するの?」
「いろいろあるよ」と言いながら筧さんはまた歩き出し、私はついていく。
「電話とかメールの受付もやるし、女の子を管理するマネージャーもやるし、もちろんロケして撮る撮影隊にもなる」
「はあ」
「その日に誰がどの役目につくかは、けっこういい加減だけどね」
「筧さんと一緒のことができる?」
「初めは誰かにつくものだから」
「そうなんだ。じゃあ、筧さんと一緒なら、頑張る」
「よし。俺が面倒見るって言ったら、入れてくれると思うから」
そんなことを話していると、駅に到着していた。交通費は筧さんが出してくれて、しばらく電車に揺られた。
到着した駅は降りたことのない駅で、駅の中を行き交う人たちもスーツの大人ばかりで、不安に筧さんの手をつかむ。筧さんはそれを優しく握り返してくれて、駅を出てビル街の中を進んでいく。
その中に普通に建っている雑居ビルに踏みこんだ筧さんは、エレベーターで五階に向かった。エレベーターを降りてすぐドアがあって、「おはようございまーす」と筧さんはそのドアを開ける。
「おはよー」
「ちーす」
意外とのんびりした声が返ってくる。手前に応接のソファがあって、奥にはデスクが並んでいる。みんなPCに向かったり書類をめくったりしていて、普通の会社に見える。
こちらに目を向けた男の人が、私にも目を留めて、「澄音ちゃん?」と親しげに微笑んでくれる。筧さんを見上げると、「よく話してたから」と筧さんはちょっと照れて咲った。
「すげえ。コスプレじゃないセーラー服だ」
「つか、リアル中学生だよね。かわいー」
「澄音ちゃんは売り物にしないですからね。俺のアシスタントやってくれるそうなんで」
「えー、もったいない」
「水着だけにでもなってみない? 下着でもいいよ」
「なしです、なしっ。亮吾さん、それでいいですよね」
私の名前を言い当てた人に筧さんが訊くと、「筧がその子連れてくれるのは想定内だったから」とその人は集まってきていたふたりを作業へと戻した。「亮吾さんは高校の先輩なんだ」と筧さんはその髪型や服装、アクセサリーがモデルみたいな男の人を紹介してくれて、私は急いで頭を下げる。
「え、えと、私……」
「いいよ、挨拶は。筧に君のことはよく聞いてるしね。家にもさ、帰りたくなかったらここに寝泊まりしていいよ」
「いや、亮吾さん、嬢じゃないし雅志さんたちと雑魚寝ですよね? だったら──」
「筧の部屋はワンルームだろ。それに、さすがの僕も、中学生の女の子を雅志たちの雑魚寝には放りこまないよ。女の子たちの部屋貸すから」
「いいんですか」
「大部屋でもカプセルでも、澄音ちゃんの好きなほうをどうぞ」
「よかった。だったら、澄音ちゃん、家に帰るよりここに寝泊まりする?」
「筧さんは、ここじゃないの?」
「俺は部屋があるから。澄音ちゃんが来たかったら、」
「それはやめといたほうがいいと思うなー、僕」
にやにやした亮吾さんに筧さんは口ごもり、私はきょとんとふたりを見較べる。
筧さんは息をつくと、「夜は別々」と私の頭を撫でた。私はうつむいたものの、家に帰らなくていいのと、夜以外は筧さんといられるほうをもちろん選びたかった。
「よろしくお願いします」と亮吾さんにぺこりとすると、「よろしく」と亮吾さんはにこやかにうなずいた。
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