Epilogue
午前三時、ゴミぶくろを抱えて表に出ると、綿を大きくちぎったような雪が、ネオンを通して影を揺らめかせながら降り出していた。
足元が少し積もりかけていて、これ歩いて帰るのか、と終電までと栗香さんに甘えなかったのを後悔した。まあ、甘えたところで帰してもらえたか分からないのだが。こないだ連休もらったしなあ、とゴミぶくろを抱え直して裏手にまわり、朝に清掃員が通っていく路地裏の道にゴミぶくろを置いておく。
なごみくんどうしてるかな、とここに来ると思い出す。今、二月に入って二週間で、最後に会ったのが年明けのオール営業したときだから、ひと月半くらい会っていないのか。
鎬樹くん、澄音や冬乃も心配している。俺は勤務中で同席できなかったからよく知らないけれど、あの年末年始の日、なごみくんは三人の話を聞いて、そして、三人に自分のことも話していったらしい。
三人が無理に訊いたわけではないそうだが、そう感じさせてしまったのかもしれないと、あまりにもなごみくんがぱったり来なくなったのでみんな反省している。俺もどうこう言えない。仕事があったとはいえ、なごみくんを三人に任せたのは俺だ。それに、実際あの三人がなごみくんに不快を強いるとも思わない。
俺はまだそこまで知らなくて、三人に聞いて初めて知ったのだけれど、なごみくんは好きになった男の“ペット”になっていたらしい。「は?」と問い返してしまったが、そう言って自分を家出させた男と暮らしはじめていたというのだ。何だその男、と思ったが、調べようにも「ライト」という名前以外分からなかった。
もしかすると三人でなく、そいつと何かあったのかもしれない。いろんなことを話してもらうつもりだったけれど、結局なごみくん本人からは何も聞けなかったな、と俺は白い息をつき、指の感覚がなくなってきたから小走りに〈まろん〉の店内に戻った。
「栗香さん、雪降ってますよ」
暖房がまだついている店内のありがたさにふうっと息をつき、レジの清算をしている栗香さんにそう言う。「マジか」と栗香さんはいったん目を上げたものの、この店は窓がないから、出ないと外の様子は分からない。
今夜、ラストまで残って働いたのは俺ひとりだから、ほかにバイトのすがたはない。
ラストオーダーは零時で、それからキッチンスタッフは多少作り置きを残してホールスタッフより先に帰宅する。二時閉店までに料理はいつも品切れになるし、それでも何か食いたいと言われたら、サンドイッチなんかの軽食を栗香さんが用意する。ちなみに、そんなパンの耳を食べていたのがなごみくんだった。
ゴミも出したし、掃除も済んで、あとはテーブルを拭いたり、メニューを集めて片づけたり、調味料や爪楊枝の補充をチェックしたりする。「よし」と栗香さんがレジを締める頃には、俺も閉店作業を終えて、客だった頃みたいにカウンターのスツールに座って、眠いな、とかぼんやり考えつつ頬杖をつく。
「一杯飲んであったまってから帰りなさい」
栗香さんがそう言って、かぐわしいホットワインをさしだして、「始発までここに泊めるくれるほうが助かるんですけど」と言いつつ、俺はそれを受け取る。
「あたしが帰れないじゃない」
「朝まで緩く話すとか」
「いくらくれるの?」
「金取りますか」
「立派なホステス業だよ」
「あー、帰りますよ。ちゃんと」
「小説も気になるでしょ」
「そうですね。そろそろ推敲はしたい」
ホットワインは赤で、葡萄の甘さが胃を温めてくれる。「ちゃんと小説書いてるんだね」と栗香さんはこまねいて、「初対面のときから話してるじゃないですか」と俺は笑ってしまう。
「いや、先月、十日間休ませたら本気で三百枚を仕上げてきたから。びっくりしたよ」
「そうですかね。集中できたらそんなもんですよ」
「どこかに投稿しないの? ネットに載せるって、もったいない気がする」
「もったいない作品は自分なりに載せてないです」
「そうなの? ネットの奴、全部駄作?」
「いや、駄作って。何というか、まあ……駄作もありますけど。古すぎて見切った奴もあるし、枚数的によっぽど大御所にならないと本にならない奴とかですね」
「短すぎて?」
「長すぎて。昔は、千枚越えるのもわりと普通でしたよ」
「千枚!? 四百字が千枚?」
「ですね。そんな長編、本にしたらぶあついわけですよ。売れないわけですよ。実績積んで売れる作家にならないと、そもそも本にしてもらえないです」
「確かに、よく知らない作家の厚い本って読まないね。漫画でさえ、巻数増えてくると億劫になる」
「漫画がそうなのに、長編小説なんて売り物じゃないですよ」
「じゃあ、新作の三百枚はどうするの? またネット?」
「三百枚は、受け入れる新人賞とか文学賞ありますよ。だから、いいかたちにしたいです」
「頑張れよ」
「頑張ります」
甘いホットワインをすすって、重いまぶたをこする。雪の冷えこみが寒かった軆がワインでぽかぽかしてきて、少し眠くなる。
「そういえば、希音くん」
「はい?」
「小説って、まだネットに晒してるんだよね」
「ずっと更新止まってますけどね。秋くらいから止まってます。ブログだけたまに更新してます」
「例の『クズ人間ですね』ってメールはまだ来るの?」
「あー、来てるみたいですよ」
「みたい」
「メールボックスいそがしくて開いてないんで。でも、件名とアドレスでだいたい分かります」
「働いてることはブログに書いてないの?」
「書いてますよ。それでも、やっぱり言ってくる奴は言ってきますね。何なんですかね。ヒマではないと思うんですけど」
「いや、ヒマなんでしょ」
「だって、自分は働いて税金とか納めて、でもお前は何の義務も果たさず小説だのライヴだの、だから人間のクズだ、らしいですよ?」
「メール読んでるじゃん」
「ずっと前のも憶えてるんですよ。ムカつくから」
俺が不機嫌にむくれると、栗香さんは噴き出して「そんなメール開かないまま消しちゃいな」と言った。
「というか、希音くん、ライヴ最近行ってるの?」
「行ってますよ。わざわざその日に休むってほどまで行ってないですけど、オフの日だったら」
「そうなんだ。最近、何観た?」
「ファントムリムとルシッドインターヴァルの対バン」
「何それ、すごい観たかった」
「どっちもルーツがXENONですからね。よかったですよ」
「えー、うちの地下でもその対バンしないかな。ちらっとでもいいから観たい」
「栗香さん、意外とバンド好きですよね」
「好きじゃなきゃ、地下と提携なんかやってないよ」と栗香さんは床を指差す。
「あたしは若い頃、サイコミミックとかRAG BABYとか行ったなー」
「え、それ、生で見たんですか?」
「生だったし、近かったよ。ほんと地下ぐらいのハコだったし」
「いいなあ。サイコミミックとか、今は絶対ホールじゃないですか」
「ちなみに『栗香さんへ』って入ったサイン持ってる」
「えっ、それ見せてくださいよ。実物無理なら写メでもいいから」
「写メならいいよ。今度撮ってくる」
「いいなあ。サイコミミックのサインかー」
「ちなみに、あたしが次に欲しいのは、希音くんのサイン本」
「死ぬまで頑張りますけど、死ぬまで叶わないのもありうるんで、そこは見守ってください」
「希音くんより長生きして待たなきゃいけないの?」
「生きてください」
「あーあ」と栗香さんはあくびをしながら背を伸ばす。
「希音くんの作品を読む道のりは厳しいなあ」
「そんなに気にしてくれるなら、ネットで読んでくれてもいいんですよ」
「それは負けたみたいでやだ。ほんとね、希音くんは作家にならなきゃやばいよ? あたしが『この店継いでね』とか言い出したらどうするの」
「言い出すんですか」
「ないとは言えない」
「作家になります。ってか、ネット公開は実際どうしようかとは思ってんですよね」
ホットワインを温かいうちに飲み干した俺は、「閉鎖するってこと?」と問うてきた栗香さんに曖昧にうなずく。
「ネットで発表できるからいいやって、そこが甘えになってる気もして。どっちみち、俺はデビューまでここで働いてるわけで」
「そうだね」
「一年近く働いた結果、更新する余裕もないことが分かってきまして」
「はい」
「栗香さんは本気で書くときは大型連休もくれるし」
「理解してるからね」
「まじめにプロを目指すなら、ネット公表は絶つべきかなって。それはしょせん抜け道じゃないし、近道でもないし。むしろ、ただの逃げ道なのかもしれないとか考えはじめて」
「いいと思うよ」
「だから、まずネット公開をやめて退路失くして。次に、先月書いた三百枚を夏の文学賞目指して推敲しようかな、と思います」
「応援する」
にっとした栗香さんに、「ありがとうございます」と話してみてすっきりした俺は頭を下げる。
「あー、っと、じゃあ帰ります。ワインあったまりました。今から雪の中、ふた駅歩きます」
「タクシーは?」
「タクシー代は?」
「帰れ」
「はい」
俺は笑ってスツールを降り、カウンター内のロッカーから上着と荷物を取り出す。「また明日ね」と言った栗香さんに、「お疲れ様でしたー」と応えながら外に出る。
急に軆を襲った雪の寒気には、思わず身震いをした。息が白くなっては消えていく。
こんな時間帯だけど、空が暗いからこの街はネオンで息づいている。行き交う人通りに混じると、煙草の匂いや香水の匂い、笑い声や話し声、いろんなものがネオンの色彩の中で転がりあっている。
寒さの中に出ると、一気に目が冴えてきた気がした。やっぱり家着いたら推敲始めてみようかな、と思う。冷えこんで神経が凛として、雪が雑音を吸いこむ今夜は、いつもより集中できそうだ。書けるだけ書いて、俺はそれで生きていかないと。そんなことを思いながら、積もっていく雪の中、さくさくと足痕を残して歩いていたときだった。
「希音さん」
不意に前方から名前を呼ばれて、はっと立ち止まった。顔を上げると、そこにいた人は、この雪の中でコートも着こまず、俺に向けて壊れそうな笑みを作っていた。
「僕の話、しにきました。……小説になるか、分からないけど」
俺はぽかんと突っ立ってしまった。そのあと、白い息を吐きながら急いで彼に歩み寄る。
そう、小説を書くんだ。書きたいと思ったものをどんどんかたちにして、こぼれおちた毎日を脱出し、必ず認められるようになってやる。
そして、そうすることで、俺に「書きたい」と思わせた主人公たちの存在も認めてほしい。彼らはいつも、うまくいかない恋をしているような痛みを抱えている。そんな彼らが、それでもこの世に確かに生きていることを、俺はこの手で証明したいんだ。
FIN
