ドライフラワー【4】
リビングのテレビがついていて、映っているのはゲームの画面だった。二次元のイケメンが迫っているところに選択肢が並んだ、もろにそういうゲームだ。「花ちゃんに借りてた奴で」と天乃さんは照れ咲ってそれを片づけて、すっかり慣れた手つきで、我が家のキッチンでカフェオレを淹れてくれる。
俺は荷物はいったんリビングのソファに投げ、ダイニングのテーブルにつくと、天乃さんが「どうぞ」と出してくれた温かいカフェオレを飲んだ。俺の甘さは、兄貴と同じだからちょうどいい。
天乃さんは俺の正面に腰かけると、顔を覗きこんできて「疲れてるね」と言った。
「えっ」
「果くん」
「そ、そんなことは」
「分かるよお。人事部を四年もやってると」
「そ、そうなんですか? てか、兄貴も同じなんですよね。人事部」
「しっかり独り立ちしてるけどね」
「兄貴が人の配属とか辞令出すとか想像つかない」
「そう?」
「いつも大人の言うことを聞いてる人だったから」
「そうかもね。だから、左右された人が言われたくないことや、言ってはいけないことのポイントをよく分かってるよ。っていっても、二年目だからね。萌くんが決めて指示を出すなんてまだ先だよ」
「……はあ」
「果くんはよく分からないか。大学生だもんなあ。私はもう卒業して四年か」
「卒業式、袴でした?」
「うん」
「ちょっと見たい」
「いや、そんな見せ物になるものでもないよ」
「兄貴には見せました?」
「萌くんにはね」
「ふうん……」
俺はカップに口をつける。つまんねえの、と思ったのも、天乃さんは表情から読み取れたらしい。「仕方ないなあ」と言いながら、天乃さんはスマホを手に取ると、何やらスワイプして画像を探しはじめる。「懐かしいなー」と写真をさかのぼるほど、天乃さんはしみじみとつぶやく。
「課題とかサークルとか大変だった、ほんと。でも、思い返すとやっぱり大学時代は自由だったなって思う」
「そんなもんですかね」
「卒業しておいて損ってことはないよ。あ、これかな。あー、もういつ見直しても化粧が濃くて」
そう言いつつも、天乃さんは大学の卒業式の写真を見せてくれた。確かに、普段のナチュラルメイクではないけれど、ごてごてとけばい化粧ではない。ピンクの生地に白と紫の花が咲いた華やかな袴すがたで、アップにした髪にも桃の花のかんざしが飾られている。
友達の何人かと映っているけれど、天乃さんが一番かわいい。
「果くんも」
俺は天乃さんに顔を向けた。
「バイトはそこそこにね」
「えっ」
「今は学業が一番でいいんだよ」
思わず口ごもると、天乃さんはくすっと咲って「ご家族、みんな心配してるよ」と言った。
「果くんは、最近バイト根つめすぎてるって」
「……いろいろ、あるんですよ」
「何? 彼女に貢いでるとかなら、心配だなあ」
「彼女──は」
「果くんはモテるから、つきあう女の子が切れないって萌くんが言ってたよ」
「………、まあ、はい。でも、貢いではないです」
何言ってんだ俺。『はい』って。『貢いでない』って。
彼女なんて、そもそもずいぶんいない。作る気力も失せた。行きずりの処理すら、つらいのだ。なのに、どういう強がりだ。俺が今ここで言いたいのはこんなことじゃない。彼女なんかいない、好きな人がいる、それは──
俺はもう、あなたのことしか考えられないんだ。
やばいって分かってる。
でも、ほんとに好きになってしまったんだ。
──なんて、言ってしまっていいのか? 兄貴の野郎。無防備に俺と天乃さんをふたりきりにしやがって。
俺は好きな女を大事にする男じゃない。好きな女を求める男だ。いつもならとっくに抱きしめている。押し倒して、口づけて服を剥ぎ取り、濡れた奥をつらぬいている。
「果くん?」
思わずうつむいて、カフェオレの香ばしい湯気を見つめてしまうと、そんな天乃さんの声がかかる。俺はぎこちなく息を吐き、天乃さんに上目を使った。
何にも知らない無垢な瞳。もし俺の気持ちを知ったら、その瞳はどんな色になるのだろう。喜んではくれないだろう。それは知っている。でも、少しは動揺してくれる? いや、逆に拒絶や嫌悪を浮かべるのか?
「天乃さん──」
「うん」
「……何というか」
「うん」
「何、っつうか……」
くそ。知るか。言う。言うぞ。そしたら、家庭崩壊かもしれない。だが言ってやる。そうしないと、俺の頭が崩壊してしまう。
マグカップを脇に寄せて、きちんと顔を上げた。天乃さんと視線が重なる。よし、ときっぱり口を開こうとした。
そのときだった。
「あれ。果、今日はいるのか」
はっと、振り返った。「萌くん」とぜんぜん俺に対するのとは違う、はずんだ天乃さんの声が耳を素通りした。俺は、今自分が言おうとしていた言葉への混乱で、視覚が一種取り戻せなかった。けれど、すぐにその故障は直って、天乃さんが立ち上がって兄貴に駆け寄るのを見た。
「遅いよ、萌くん。果くんが帰ってきたから、相手してもらえたけど」
「ゲームしておくんじゃなかったっけ」
「ひとり攻略しちゃったの」
兄貴は困ったように咲ってから、俺を見て、すまなそうに目配せしてきた──“ふたりきりにしてくれ“。
俺は唇を噛んでも、もちろん鈍感に居座るわけにいかない。そしてどうやら、親父もお袋も姉貴もいないこと自体、兄貴が作った状況だと察した。俺はここのところ家にいる時間が少なかったから、連絡を聞きもらしてしまったのだろう。
俺は椅子を立つと、荷物を肩にかけて「ごゆっくり」と言ってリビングを出た。兄貴とすれちがうとき、その手にブランドのロゴが入ったふくろがあるのに気づいた。
ああ、そうか。家族もそれを感じ取ったから、兄貴と天乃さんを今夜ここにふたりきりにしたのか。俺もわざわざ立ち聞きせずとも、兄貴の決意が分かってしまった。
その夜、兄貴は引き取ってきた指輪と共に、「家族になって一緒に幸せになってください」と──ついに天乃さんにプロポーズの言葉を贈った。
ああ、姉貴になっちまったよ。こんなに好きになったのに。本気で好きになったのに。彼女も作れなくなるほど、すべてになっていたのに。そんな人が姉貴になってしまうなんて、何でこんなに残酷なんだ。
俺は近くから、でも遠くから、一生あなたを見守ることになるのだろうか。そんなのはつらすぎる。だから、この気持ちは箱に閉じこめて鍵をかけよう。その中で静かに息を引き取るのを待つ。この恋は誰にも知られないまま、誰にも知られないうち、ただ朽ちて消える。
だから、幸せになってくれ。必ず幸せになってくれ。兄貴のプロポーズに、あなたは喜びに泣いて「はい」とうなずいたから。
もうそのままで。俺の枯れていく痛みなんか知らないで、すべてが美しいそのままで幸せになってほしい。
それでいいんだ。あなたは、あなたが選んだ男と幸せになれば、俺はそれでいい。
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