Again & Again【3】
「どこ行くの?」
「酒飲めるほうがいい?」
「コウが何にもしないなら」
「しねえよ。じゃあ、つまみと酒でもいただきますか」
「うん」
かくして、駅前のにぎやかな通りに引き返して風に首をすくめながら俺たちは並んで歩いた。はぐれないように、とか言って手をつなぎたいけど、何とか我慢する。
路地を通り過ぎるたびちらりと覗き、いい店がないか探したけれど、結局目的地にしておいたチェーンの居酒屋にたどりついた。なじみの多い隣と密着度のある店より、こういう店はパーテーションで仕切られているので、まあいいか。
靴を脱いで畳の席に通され、肉を食ってきたところの俺たちはつまみは枝豆くらいにして、俺はビール、花はレモンのチューハイを注文した。
「コウ」
「んー」
「コウって、あたしの家は知ってたっけ」
「高校のとき、色と梨実と行ったことある」
「じゃあ、ちゃんと送ってよね」
「はいはい。てか、酔う気満々か」
「さすがにそろそろ、酔わないとつらい」
花は頬杖をついて、お通しの鶏大根の煮物を箸でつつく。俺も同じものを食べて、大根を舌で蕩かす。
「花って、ガチで失恋の気分なのか」
「失恋ではないよ」
「だよな。ただのブラコンだよな」
「にいさんは特別だよ。子供の頃から、あたしを一番かわいがってくれたのもにいさんだし」
「依存ではないよな、何となく」
「うん。あたしを誰より優先してくれる人だったかな。だから、あたしもにいさんが最優先だった。こう言ったらまた梨実に怒られるけどさ、裏切られた気持ちはある」
「裏切りなあ……」
そこで従業員がドリンクと枝豆を持ってきて、とりあえず俺たちは乾杯をして飲みはじめた。花はごくごくと遠慮なく飲んで、俺の財布を確認もせずに追加注文する。まあ最悪、隣がコンビニだったので、ATMで下ろしにいけばいいのだが。
酔わないとつらい、という花の言葉も本音だろう。あんなに兄貴に懐いていたのだ。きっと誰よりも信頼していた相手で、そんな人の一番が突然自分ではなくなった。絶望的にもなるよなあ、と俺はちびちび飲んで、酔うほど涙腺を弱くして目をこすりはじめる花を見守った。
「花は、何というか、ほんとに兄貴が好きなんだな」
三杯めのドリンクのウーロンハイを飲みながら、俺は何心なくつぶやいた。「いつも言ってんじゃん」と花は涙声をこらえて言い返してくる。
「でもさ、兄妹じゃん。何か、越えられない一線ってないの? 俺がひとりっこだから分かんないだけかなあ」
花はジンライムをジュースのように飲んでから、はあっと酒の匂いの混じった息をついた。
「失恋したの」
「え」
「中学生のとき。つきあってた男の子がいてね、でも浮気されてた。あたしのこと、相手の女の子にはさんざんに言ってて。重いとか、メンヘラじゃねえのとか……その女の子が、そう書いてるメール見せてきてさ。『好きならあいつと別れなよ』って。『じゃなきゃ、死ねば?』って」
「……初耳」
「にいさんにしか話してない」
「そいつとは、別れた……よな?」
「捨てられただけだよ。それから、にいさんだけがあたしをなぐさめてくれて。『僕がそばにいるから』──」
花は服の上から左手首に右中指を当てて斬る。
「『それはしないでほしい』って」
「……夏、半袖着てたよな。痕とか」
「リスカってわけじゃないし、痕は残ってない。死ぬつもりの一度だけだった。それも大して深く切れなかったし」
花は追加で注文したじゃがバターを口に放る。
「あたしには、にいさんのそのときの言葉がすべてだった。にいさんがいるから、あのとき壊れなかったんだと思ってる」
「……うん」
「けど、もうじゅうぶん支えてもらったよね。確かに、あたしもひとりで立たないといけないよ。梨実も言った通り、時効だよね……」
花はくたりと上体を折って、テーブルにこめかみを当てて緩くまばたいた。
花にそんな失恋経験があるとは思わなかった。子供の頃から、わけもなくブラコンだったわけではないのか。そのとき、兄貴が花の正気をつなぎとめてくれたのだ。何かそれだと俺も兄貴に感謝しなきゃいけないじゃん、と複雑になりながら野菜のトルティーヤを食べる。そう、兄貴の存在がなければ、俺は今のような花に出逢えていなかったかもしれない。
花はテーブルに伏せって、肩をゆっくり上下させている。「眠いか」と訊くと、「うん」とくぐもった声が返ってくる。「帰るか」と続けて訊くと、「うん」と同じ返事が来る。
俺は息をついて伝票を見て、ちょっと苦笑してしまった。だが、仕方がない。そのぶん、この子の初めての顔を知れた。きっとあまり思い出したくない、とても弱いところをさらしてもらった。そして改めて、俺はこの女の子を守りたいと、好きだと思った。だから、話ができてよかった。
「帰りますよー」と俺は花の肩を担いで席を立ち、レジで会計をすると、身のすくむ寒空に出た。平日の夜なのに、まだ外の混雑は引いていなくて、ふらつく花をしっかり支えて駅に向かう。
半分寝ぼける花ひとりをこのまま電車に乗せたら、駅を寝過ごしそうだし、痴漢も危ない。俺は最後まで付き添って、約束通り家まで送ることにした。
時刻は二十三時半をまわっている。花の地元まで行って、俺が自宅に帰れる終電があるのか分からなかったが、まあ何とかしよう。
暖房でぼんやりした電車では、さいわいシートに座ることができて、けっこう長く揺られた。乗客には案の定酔っ払いもいたから、送ることにしてよかった。
花の地元に着くと、改札を出てタクシーを捕まえて、花に何とか住所を言わせる。そうしてたどりついた一軒家で、高校時代に来たきりの俺がいきなり登場していいのだろうかと思いつつ、花がずりおちそうになったのでインターホンを押した。
しかし、午前零時半が近い。明かりは灯っていて誰か起きている様子でも、そりゃ出ないよな、と花を揺さぶり、鍵を持っていないか訊こうとしたときだった。
「……あの」
門扉越しのドアに隙間が開いて、怪訝そうな男の声がした。「あ」と俺はそちらを見て、「ええと」と一瞬言葉に迷ってしまう。
「突然すみません。俺、花の友達で──花がかなり酔ってるんで、送ってきたんですけど」
俺の言葉に「あー……」と納得する声がして、ドアはすぐ大きく開いた。花の兄貴は、確か眼鏡をかけた繊細そうな男だったが、スニーカーをつっかけて出てきたのは、わりと筋骨しっかりした男だった。
「こっちこそすみません、姉貴が」
あ、と納得する。そういえば、花には弟もいた。花にぼろぼろに言われている弟が。
弟くんは門扉を空け、「おい、ねえちゃん」と花を覗きこんで頬を軽くはたく。花はうめいたけど何も答えない。弟くんは俺を見た。
「すみません、ヤケ酒につきあってくれたんですよね」
「いえ、何というか──話相手になってただけですよ」
「いいんですよ、今の姉貴のことは分かってますし。あー、くっそ、こいつ重いな……。あ、このあと急いで帰りますか」
「いや、終電なくて困ってます。駅前にネカフェとかありますかね?」
「あ、じゃあうちに泊まってください。ただ、姉貴を俺ひとりで部屋に運べないんで、手伝ってもらえると」
「それは、もちろん。ってか、泊まっていいんですか」
「いいですよ。えーと、姉貴に彼氏いるわけないですけど、まさか」
「友達です。高校時代からの。憶えてもらえてるか分からないですけど、花のおかあさんには、昔この家に遊びにきたとき会ったことがあります」
「じゃあ、親も文句ないですね。どうぞ」
いいのか、と躊躇しそうになっても、弟くんが花をドアの中に引っ張るので、俺は慌てて手伝う。靴を脱いで家に上がると、花とのすれちがいざまや風が流れたときに通じる匂いがした。
玄関の先の右手にあるドアから、光とテレビの音がもれている。
「親、挨拶しますか?」
「え、と……したほうがよければ」
「じゃあもう、明日の朝でいいですね。姉貴の部屋、二階ですけど大丈夫ですか」
「はい」
階段は左手にあって、弟くんが明かりをつけて花の部屋まで案内してくれた。弟くんが開けたドアから部屋に踏みこむと、いつもの空間に無意識に安心したのか、花は電燈もつけずにふらりとベッドに倒れて、そのまま寝てしまった。
「どんだけ飲んだんだよ」と弟くんはこまねき、俺は「おにいさんは留守ですか?」と首をかしげる。
「いますけど、明日も仕事なんで寝ました」
「そうなんですか。あ、いや、花を心配して待ってそうなイメージだったんで」
「零時まで待ってましたよ。スマホも手放してなかったし」
「……やっぱ、おにいさんもシスコンですか?」
「俺には、兄貴と姉貴はよく分かんないですね。まあ、兄貴のことでこれから変化はあると思いますけど」
そう言う弟くんの目がどこか苦しそうに見えた気がして、しばたいて見直した。けど、今度は特に影はなかった。
「客ぶとん持ってきます」と弟くんは部屋を出ていって、この部屋に泊まるのか、と暗がりのままでよく見えない室内にどぎまぎしてしまっても、友達と名乗ったからにはそうなのか。腕と脚でふとんを無造作にたぐりよせる花を見て、生唾を飲みこむ。
酔った花と、部屋にふたりきり。これは──理性、と強く自分に念を押していると、弟くんがふとん一式を持ってきてくれた。「どうも」と俺はそれを受け取って、フローリングに置く。
「一応、親には姉貴の友達が泊まってるとは言っておきますね」
そう言って、弟くんは部屋を出ていった。何となく淡々とした子だが、冷たいわけではなさそうだと思った。
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