片想い
ファントムリムのライヴにきちんと行けた翌日、僕はまだ腰を気遣う日程を続けていた。
あさっての月曜日に通常に戻るけれど、だいぶ甘やかしたおかげで、はたきでもしないかぎり痛まないようになっている。頬の絆創膏も取れたし、今日は客をふたり、感づかれないまま受け入れた。もうひとりは手先でいじるのみを好むマニュアル専門だった。三人しか取らなかったせいで、僕はまだ夜も深い三時頃に帰り道についている。
ビル街をあとにすると、ぐっと暗がりが濃くなり、寒さに鮮やかな月や星を空に見つけられるようになる。殴ったり叫んだりの物音も散らばっていて、ぼさっと歩く人間を狩ろうとする眼光も散らばっていた。見えないけれど、頬や背中や腰に感じる。感じない人間が襲われるわけだ。
今日は風はあれど強くなく、きめこまかい流れがすうっとクリームを伸ばすように吐息をたなびかせた。倒れたり溜まったりしている人間の息か、転がったり割れたりしている瓶や缶の蒸発かで、その風には酒の臭いが乗っている。葉っぱのにおいもする、と思っていると、かつっとふと背後で足音が聞こえた。
「碧織」
そしてそんな呼びかけも重なったので、足を止めて振り返った。ちょうど電信柱のそばで、アスファルトに白い光がおりていた。聞き憶えのある女の声、と思ったが、現れたキャメルのコートをきた女に一瞬見憶えはない。
「ひと月ぶりぐらいね」
正面に立ち止まった女に渋面した。黒い髪を肩で切り、コートの下は白いセーターと黒い革のミニスカートだ。誰、と本気で思ったが、足元のブーツを見て目を開いた。
「夏乃?」
彼女は素顔に近そうな顔で笑みを浮かべ、軽くうなずいた。僕はオーバーのポケットに手を突っこんで彼女をじろじろとした。
何というなりだ。二十歳過ぎのくせに、女子高生みたいではないか。女子高生など実物は見たことはないけれど。
「何やってんの」
「何って」
「茶髪は」
「やめたわ」
「ロングは」
「切ったの」
「コートにファーがない」
「邪魔だから」
「白い服」
「似合うって言ってもらったのよ」
「誰に」
「あんたじゃない男」
「そんなざまで買ってもらえる高級娼婦になったんですか」
「逆よ。あたし手活けされたわ」
僕は瞳をゆがめて夏乃を見つめた。「マジ」と風に揺れた髪に身動ぎすると、「これ見ても信じられない?」と夏乃は自分のさまを見せる。
「お前、縛られて奉公してたのか」
「そういうわけじゃないけど。あたしを管理してるポン引きはいたわ。そいつから買い取ってもらったってのが正確ね」
「買い取られてどうすんだよ。突っ込こまれる以外で何で生きていくんだ」
「あたし、手活けされたって言ったのよ」
僕はわずかに頬をかたくさせ、にわかには信じがたくて眉を寄せる。
「結婚するのか」
「そうよ」
こまねいた僕は仏頂面を保とうとしたが、耐えきれずに噴き出して笑い出してしまった。
結婚。夏乃が! 笑わずにどんな反応をすればいいのだ。白い息にまみれて爆笑している僕を、夏乃は冷静に見つめる。
「冗談だろ。お前が結婚? 奥さん? 笑っちゃうよ。無理だよ、無理」
「やってみなきゃ分からないわ」
「分かるよ。僕が何年お前とつきあってきたと思ってるんだ」
「来月で四年だわ」
「お前が家庭向きじゃないのは僕が一番知ってるさ。ふん、まあいいけどね。勝手にすれば? ただし、それなら二度と僕の前に来るなよ。人ひとり買い取る男に、浮気相手だの何だの難くせつけられたくないしね」
「毬音のことだけど」
「あ、持っていきたいの? いいよ、やるよ」
「彼には子供がいるなんて言ってないわ」
「あっそ。じゃあ、僕が持っとくよ。欲しくなったら、手紙一通で宅急便で送ってやる。顔は絶対に見せるなよ。じゃあな」
僕は笑いを残すまま手を振り、彼女に背を向けた。あの女を買い取って結婚。物好きな男もいたものだ。周囲の静けさを守ろうと、胸を抑えて笑いをこらえるも、夏乃のウエディングドレスすがただのエプロンすがただのを思うと、おかしくてたまらない。それほど彼女をださく見させるものもない。女の幸せが絵にならない奴なんだなと、寒さも忘れて笑いを噛んでいると、突然背中に足音が迫ってきた。
振り向いて構える前に、夏乃は体当たりするように僕の背中に抱きついてきた。ナイフが刺さったりはせず、それでも僕は絡みついた腕を振りはらおうとする。だが、夏乃は僕にしがみついて離れず、僕のもがきにめくれた彼女のコートが、帆のように突風を孕んだ。彼女はあのくせのある香水でなく、何とシャンプーの匂いをさせている。
「本当よ」
「何が」
「あたし、ほんとに結婚するの」
「嘘なんて言ってないよ」
「信じてないでしょ」
「信じられないけど、信じたよ。都合いいし」
「ナイフ持ってきたらよかった」
「どうせ持ってんだろ」
「持ってないわ」
「そっちのが信じられないね。離れろよ」
夏乃は体温をこめて、僕の首にきつく抱きついた。その爪は切られ、マニキュアも桜貝のように淡い。人通りはないけれど、たぶんそのへんの小道にひそむ誰かに見られてはいる。
こんな女とラブシーンだと勘違いされたくない。だいたい何だ。なぜ夏乃が僕に抱きつく。この女は、僕を男とも見なしていないのではなかったか。あたりの不穏な音に混じり、夏乃の声と吐息が耳元にじかに響く。
「あんたはあたしを愛してくれない」
「そうだね」
「あたしはずっと期待してたのに。我慢して、そばにいようとしてきたわ。いつかあんたは振り向いてくれるかもって」
「何言ってんの」
「あんたはあたしの気持ちなんか、そうやって知ったことじゃなかった」
「お前、僕のこと男と思ってないんだろ」
「思ってるわ。あんたとまともな家庭が持てたらどんなにいいかって思う。あたし、分かってて生んだのよ」
「何を」
「毬音よ。あんたの子だろうって分かってて生んだの」
暗闇に浮かびあがる白い息を見つめた。指先が死んでいる。抱きつかれた衝撃で、かすかに腰が痛んでいた。
「汚い言葉も、すれた行動も、対等になって何とかあんたに見てもらおうとやったのよ。でも、あんたは最後まであたしに気づかなかった」
「僕を愛してたの」
「愛してたわ。それで殺そうともした」
「信じられないね。離れろ」
「あたしの結婚相手は、あんたがつけた痣で思い切ってくれたわ。そんな男とは引き離してやろうって」
「よかったね」
「あたし、迷ったわ。まだずるずるあんたに期待してたかった。それで相談しに部屋に行くたび、あんたは応えなかったりいなかったり。これじゃあたしの人生がめちゃくちゃになるって気づいたのよ。あたしはあんたを想ってる限り、破滅だわ。あんたなんか最低よ。つきあうだけこっちを自滅させる、似非ホモ野郎なんだわ」
素早く身を返し、彼女の頬を引っぱたいた。乾いた鋭い音が反響した。暗闇に互いの表情はほとんど見取れない。でも、夏乃の瞳は濡れていた。
「これでいい?」
「……じゅうぶんよ」
「僕がお前に最低なのは、僕がお前を好きじゃないからさ。好きな人間にはかわいいもんだよ」
「あんたなんか、片想いさせるばっかりよ」
「そうかもね。じゃ、離婚するなよ」
寒気に侵される身をひるがえし、もう夏乃は追いかけてこなかった。それでも見つめているのは、肩胛骨にあたる瞳と聞こえない足音で分かる。僕は振り返らなかった。振り返る義理があるとも思わなかった。
やがて、暗闇に身が紛れて瞳の感触はかすみ、遠くに足音も聞こえた。僕は傷ついた頬にあたる風に目を細め、無造作に煙草に火をつけてその匂いにもたれた。
あんたなんか片想いさせるばっかり──どうだかね、が本音だ。僕は僕を好きでいてくれる人は好きなほうだ。豹さんも、光樹も、客たちだって大切に想っている。
僕は自分を嫌いだと見る人間を嫌うのだ。蛍華さんとか珠生とかだ。夏乃も嫌っていると思っていた。なので、正直、彼女のあの態度をあっさりとは受け入れられない。何かたくらんでんじゃないだろうなとも思う。
しかし、狂言で髪や爪を切るとは思えないので、足を洗うのは事実なようだ。意識して主観を抜いてみるも、僕は本当に何も感じない。夏乃の愛情が真実かは分からなくとも、もしそうであれば、彼女はてんで片想いだったわけだ。
暗い脇道に入ると、アパートはすぐそこになる。にしても、だとしたらあの部屋を引っ越す理由もなくなるのか。いや、細心をはらって、こちらも念を重ねようか。豹さんか弓弦に頼み、夏乃の結婚が事実かを探るのは簡単だ。
そうしてからにするか、と煙草をふかし、でも豹さんには僕が片想いかな、とその匂いにちらりと思って吐息と共にふっと消えた。
【第七十三章へ】
