青氷の祠-74

恋い焦がれた悪魔

「珠生、この街にいたいんじゃないの」
「初めはそう思ってた」
「初めは」
「ここならまともになれるかもって。元には戻りたくなかった。適度なプライドは取り戻させてくれるかなって」
「………、」
「ダメだった。どんどん落ちぶれてくばっか。それはお前が誰より見てきただろ。俺はこの街の人間じゃなくなってる。合わないんだ。どこにも落ち着けない」
 部屋は暖房の物憂げなため息に暖まってきている。僕はうなだれる珠生の蒼ざめる頬を見つめた。
「俺は俺のためにここを出ていく。碧織が責任を感じる必要はないよ。あの人もいなくなったんなら、追っかけてくる怖いものもなくなったんだし」
「外で生きていけるの」
「別に死んだっていいよ。俺は死ぬのがちょうどいい。まあ、なるべく生きてみるよ」
「ここには帰ってこない?」
「うん」
「……そう」
「希水にはなりたくないんだ。希水にはうんざりだよ。俺は淫売じゃない。そんなのにはなれない」
 珠生の口調は淫売を軽蔑はしておらず、むしろ資格のない自分を恥じている様子だった。僕は暑さに膝のマフラーをおろし、オーバーを脱いでふわりと香水を薫らせた。珠生はコートを着たまま、蒼白な頬でこぶしを握っている。
「碧織」
「ん」
「お前は、俺の本当の親のこと知ってる?」
「少しね」
「俺は父親の顔を知らない。母親も憶えてない。ぜんぜん知らない男に引き取られて殴られて、蛍華さんにたどりついてやっとかわいがってもらえた」
「……そうだね」
「でも、蛍華さんが俺を愛してたとは思えない。蛍華さんが愛してたのは、いつだってお前だった」
 たたんだコートをマフラーに重ねていた僕は、唐突なでたらめに眉を寄せる。珠生は視線をドアからベッドまでの距離に放っていた。
「蛍華さんが愛してたのは珠生でしょ」
「碧織だよ」
「あれのどこが愛してたの」
「お前を殴った」
「愛してて殴ってるんじゃなかったよ、あれは」
「罵って閉じこめて自分を憎ませた」
「自分も憎んでたしね」
「そうやってお前の気を引いた。俺を使っていっそう気を引いた。蛍華さんはお前を愛してたよ。俺を道具にしてたんだ。これでお前の嫉妬を煽れるんじゃないかって」
 渋面になってこまねいた。何を言い出すのだ。邪推としか思えない。蛍華さんが僕を愛しているなど、そんなのは僕が豹さんを憎むよりありえない。
「信じられない」
「本当だよ。お前が家出したあと、蛍華さんはショックに打ちのめされてた」
「嬉しさのあまり狂ったんじゃないの」
「俺への態度も変わった。当然だよな。俺をかわいがって、お前のいらだちを感じる必要もなくなったんだし」
「何でそんな作り話するんだよ。あの人は僕を愛してなかった」
「愛してたよ。俺には分かるんだ」
「あの人が愛してたのは珠生だよ。誰が見たってそうだったじゃないか」
「じゃあ、何で俺が帰ってきたのに迎えにこないんだ」
 息をすくませて口をつぐむ。何で──何でだろう。いろいろ思ってはきた。そして、何の疑問もなく愛ゆえの沈黙だと信じこんできた。
 珠生を愛していないとしたら、話はもっと簡単だ。それでも、珠生を愛していないのが蛍華さんが僕を愛している証拠にはならない。
「みんなお前を想ってたんだ。豹って奴も、蛍華さんも、俺だって」
「え」
「俺たちは三人でお前を取り合ってた。どうにかやって自分に振り向かせようとしてた。で、豹って奴が勝った」
「お前は、僕を憎んでたんだろ」
「うん」
「じゃ、僕にそっぽをされてけっこうなんじゃないの」
 珠生は僕と瞳を重ねた。深い、痛切な傷口がそこでは膿んでいた。珠生は僕の頬にそっと温まった手を伸ばした。僕の瞳は、珠生とは逆に麻痺している。
「愛してたよ」
「……え」
「憎かったけど、愛してた」
「何、言ってんの」
 こわばった咲いを声に含ます僕に、珠生はそそぎこむ瞳を向けてくる。
「碧織が好きだった」
「ふざけん──」
 最後まで言わせず、珠生は身を乗り出して強く口づけてきた。僕は空中に目を剥いた。
 珠生は僕を抱きしめて熱い舌をさしこみ、僕の唇を湿った音でむさぼってくる。僕は動顛に狼狽えて受け身になった。ざらついた舌に乗り、珠生の生温い唾液が喉に流れこんでくる。何かの味がするけど、何の味かは分からない。珠生は僕の頬を愛撫しながら無駄のない技術で舌を蕩かした。
「……嘘だよ、」
 息継ぎに唇をちぎった珠生は、かすれた声を絞り出す。珠生の黒い瞳がすごく近い。僕と珠生の唇のあいだで、もろい糸がはじけた。
「愛してたなんて嘘だよ」
「何──」
「今も愛してる。ずっと、いつだってお前を愛してる。忘れられないんだ。忘れようとしてきた。お前に会いたくて帰ってきたんだ。この髪とか、肌とか、軆とか、触れるのなんて期待してなかった。見るだけでもいいって。帰ってきた」
「珠生──」
「ほんとだよ。碧織を愛してる。振り向いてくれなくて憎かった。それで、蛍華さんに服従してるふりを利用してお前をなじった」
 珠生はすかさずもう一度僕の息をふさぎ、僕は急進した事実に茫然と脱力してされるままになった。
 僕を愛している。珠生が。僕を。ずっと──。
 認識が窒息して視界がぐらつく。珠生は僕の唇を夢中で奪い、骨に骨を食いこませて抱きしめてきた。やがて僕のうなじに顔をうずめ、暖房より熱い吐息を僕の背中におろしてくる。彼の髪の匂いが鼻にあたり、僕は小さく唾液を飲みこんだ。ひとまばたきで視線をベッドスタンドに定めると、ひくついた呼気をする。
「珠生……」
「……ごめん」
「………、」
「愛してる。ほんとだよ。豹も認めるよ」
「……豹さん」
「あいつは俺の気持ちを知ってた」
「え……」
「だからあいつは、俺がお前のそばにいるのを嫌がったんだ。お前を盗られるんじゃないかって」
 まさか、と言おうとして思い出す。豹さんは、あまりにも鋭く珠生がゲイだと知っていた。珠生は愛に飢えているとも言っていた。実際、僕は珠生をそんな対象としては見もしなかった。
「龍二さんがお前を殺そうとしたのも、同じことだよ」
「え」
「あの人はお前に嫉妬してたんだ。お前さえいなければ、俺の気持ちを独占できると思ったんだ」
 僕は珠生のフリーツの肩にぎゅっと息を詰める。“お前さえいなければ”──それはあいつに確かに言われた言葉だったからだ。
「お前がどっかに消えて、たぶんそれは俺のせいだと思ったから、俺はお前を傷つけないように忘れるのを決めた。蛍華さんみたいに、お前を想うまんまで大事なところを失くすのはごめんだった。それで新しくあの人を好きになろうってここを逃げた。ダメだった。お前が恋しくてしょうがなくて、それをあの人にも知られた。相手がばれてるとは思わなかったよ。寝言か何か聞いたのかな。俺の中にほかの男がいるって知って、あの人は変わった。俺はこいつじゃ碧織を忘れるのは無理だって思って、新しい男を見つけた」
「新しい男」と彼の腕を身じろぎ、「うん」と珠生は僕を放さないように抱きしめる。
「優しい人だった。この人となら碧織を忘れられるかもって思った。だけど、その人、ゲイなのに結婚しててさ。龍二さんが女房に旦那が男のガキと浮気してるって垂れこんで、俺は初めてその人が妻子持ちだって知って。あの人は優しいぶん、妻と子供と体裁を捨てられなくて、俺を捨てた」
 息苦しいほど密着させられ、珠生のこらえられた心臓が心臓に聞こえている。珠生は自分を追うかもしれない人間はふたりいると言っていた。
「俺はあっさり捨てられたショックにヤケになって、龍二さんのとこに戻って荒れた。この男と心中したっていいやって、酒を飲んでヤク漬けになった。殴られて、犯されて、ほんとに死にそうになると怖くて逃げた。妻子持ちの家を覗いたら、俺のヤク中アル中のなりに庭にいたガキが泣き出して女房が出てきて、めためたに言われた。男しか愛せないぐらいなら誰も愛するなって。そうなのかなって何も言えなくて、でも俺は碧織が好きだった。軆を売りながらふらついて、酒もヤクも何とか抜いて、相変わらずお前への気持ちは俺の一部で。顔を見るだけでもしたいって思って」
 その腕に溺れて失語する僕を、珠生はさらに抱きすくめ、ふたつの体温をなじませた。僕は瞳を失くしていた。黒いベッドスタンドを見ているが、視覚と統覚が遊離している。珠生の言葉と腕に自失していた。
 珠生はわなないた息を吐き、捻じりあげた布を水が出尽くしたのでほどくように、僕と軆を離す。
「お前の娘に手を出したのも」
 僕と珠生はひと置き置いて見つめあう。僕の瞳は弱く、珠生の瞳は永い。
「お前が好きだからなんだ」
「え……」
「お前に見立てて、……しようとした」
「………、」
「それで、あの子じゃなきゃダメだったんだ。お前の血が流れてるのはあの子だから」
「……僕が好きだったの」
「好きだよ」
「じゃ、何であんなひどいこと言ったの」
「憎かったから」
「好きだったんでしょ」
「振り向いてくれなかった」
「振り向かせなかったのはお前じゃないか。蛍華さんだって、夏乃だって、僕はそっちが嫌ってるんで嫌ったんだ。僕のせいにするなよ。みんなそっちが僕を先に拒絶したんじゃないか。僕は悪くない、ふざけんなよっ」
 わけもなく瞳が熱に滲み、珠生は今度は毛布で包むように僕を抱いた。僕は珠生に新しい服の匂いに抱きつき、息を止めて唇を噛んだ。
 何だ。何だというのだ。僕が鈍感だったのが悪いというのか。夏乃も蛍華さんも珠生も。僕が破滅に追いこんだのか。そちらが僕に一笑をくれたら済んでいたことではないか。
 豹さんや光樹は、惜しみなく僕に微笑みをくれる。ゆえに僕は彼らの愛を感受して愛を返した。
 刃向かったり、殴ったり、皮肉ったりされて愛を感じるほど、僕は愛の冷たさを肌に知らない。

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