届かない声
白い息がそのまま凍りそうな寒天の元、本日の勤めを上げた僕は、葛藤の末に東側へと歩いていた。弓弦が毬音をさらって以来、仕事でぎりぎり近づくぐらいしかなかった陽桜中枢に踏みこもうとしている。決心はしたのだけど、気分は最悪で、今にも思い直してきびすを返しそうだった。
周囲の雑踏は普段と変わらない。モーテルのネオンが独特の色彩で通りを照らし、ざわめく種々のふたり連れがもつれこむ部屋を物色している。今日は四人客を取ったけれど、みんな二時間以上買わなかったので、現時刻は予定通り三時だ。寄り道する時間はたっぷりある。
最後の客と別れたモーテルの前で、引き裂く風に傷の癒えた頬を切られた僕は、いっときマフラーに首をすくめていた。
吐きたいほどの不安が胸に黒く停滞している。要は、蛍華さんのところになんて行きたくないのだ。行きたくないのだが、真相も気になる。といって、人に頼る問題でもない。今日は、ひとり客をあげていくごとに迷いが吐き気にのしかかられていった。今は、すぐさま心変わりに逃げ出したい心境だ。
そうだ。蛍華さんの心なんて、こうも気分を害してまで知る必要もないのではないか。あれは珠生の思いこみで、やはり蛍華さんは僕を憎んでいたらどうする。たとえ愛されていたとしても、この躊躇の切断に値するものが得られるとも限らない。これらもけして杞憂ではない。僕と蛍華さんは、本当に再会すべきなのだろうか。
猜疑をいじいじと錯綜させ、僕は青い光がおりるモーテルの玄関に突っ立っていた。ここは珠生との最後の場所だ。そう、珠生はああ言っていた。蛍華さんは自分を利用して僕の気を引いていた。家出にショックを受けた。僕を愛していた──。
入り組む雑音と隔てられ、長らく女々しい逡巡に落ちこんでいた。そのあいだに指先や爪先は感覚を失っていった。隣を若い男と派手な女がすりぬける。ひとまず手をオーバーのポケットに突っこみ、肺を使って真っ白な深呼吸をした。
あの部屋に、行くだけ行ってみよう。この時間なら、いるかどうか分からない。もし帰りを待つ男や子供がいれば、少なくとも現在は僕を断ち切っていると分かる。会わずとも、何かつかめるかもしれない。そんな期待で僕は遅疑を吹っ切り、こうして宿屋街を東側へと歩き出した。
このモーテル街は、奥まったところに抜けると一流ホテル街になり、やがてそれが高級売春宿街となる。僕や珠生が昔働いていた地区だ。蛍華さんもそこで働いている。考えれば、蛍華さんは今いくつだろう。四十になるかならないかだと思う。女なのでまだ売り物ではあるだろう。
しかし、もし身請けや引退をしていたらどうしよう。豹さんが手折っているのもありうる。珠生の話が本当なら、安酒アルコール中毒を深めている可能性もある。蛍華さんの現状がまるきり想像がつかなかった。生きてるのかな、とかもいくらか本気で思いつつ、肌に触れる空気の変化に顔を上げた。
制服を着たボーイが侍ったり、最上階にはレストランのある巨大なホテルが並びはじめる。喧騒もしっとりして、うろつくふたり連れにも緊張感があった。
そういうホテルのレストランには、豹さんと行ったものだ。最後に豹さんと食事を取ったのはいつだろう。今は誰と行ってんのかな、とちくりと思い、それが僕のぜんぜん知らない人間だと思うと、怖くなった。品のある光に息をつき、僕はゆとりのある通りに目を細めて香水の染みたマフラーを意識した。
毬音を取りにいったときには目をつぶって早足に抜けた、生まれ育った場所に出た。見憶えのある店もあれば、記憶にない店もある。出歩く娼婦や男娼も、淫売が泥水かぶりだなんて思わせない気品がある。淫乱でも処女でもない、不思議な匂いだ。豹さんが仕事をさせてくれたら僕もそうなってたのかな、といまいちピンと来ずに思い、客もきちんとした男が多い中を僕は黙々と縫っていった。
高級店が立ち並ぶ表通りをそれ、裏道を介した裏通りに出るとやや位のさがった売春宿や手頃なモーテルが現れる。このモーテルのひとつに、昔、僕と蛍華さんは暮らしていたわけで、モーテル崩れのアパートもちらほらしてくる。
記憶が曖昧になっていて、建て物が左右に敷きつめる細道で迷子になりかけた。ネオンがひかえめで、暗がりに無数の建て物の見分けもつかない。人通りはそこそこあっても混みあってはおらず、冷えきった風の唸りが聞き取れた。ときどき宿の前に立つポン引きに腕を取られそうになりつつ、あのアパートを探り当てて、こわばった白い息をついた。
僕と珠生と、蛍華さんが暮らしていたアパートだ。闇も濃いこんな時間で、案の定二階の奥のその部屋には明かりはついていなかった。カーテンが引かれているのが、目をこらすと見取れる。僕は喉をつまらせる吐きそうな心臓を抑え、震えそうな膝をしっかりさせて歩いた。
しかし、今、蛍華さんはいないのだ。どうしよう。外で待っておこうか。今日は影で見守ろうか。そんなのを思いながら、僕はいくつかの部屋に明かりのつくアパートの敷地内に踏みこみ、側面の階段を慎重にのぼっていった。
近づくごとに心臓が刺さって目がくらみそうになる。怖かった。二度と来ないと思っていた場所を、今踏んでいる。
光樹と駆け降りたきしむ階段、豹さんが食事に迎えにきた剥き出しの廊下──急に自分の軆が分散し、幼い頃に転落した感覚がめまいを起こした。視界がセピアになり、呼吸が抜けるばかりで吸えなくなる。胸がぎゅっと締めあげられ、夕方になると着飾った蛍華さんが珠生を連れて抜けていったドアが目の前に迫った。
その茶色のドアに、痺れた指で触れた。冷たい。呼吸が小刻みになり、睫毛が揺れた。何を想えばいいのか、心を空白にしたときだ。突然ふっとドアの隙間に明かりがもれ、僕は息を飲んで目を開いた。
「……蛍華さん?」
中でぼんやり話し声がし、笑い声が続いた。足元から何かがせりあげ、僕はとっさに銀の把手をつかむ。
「蛍華さん」
風が唸るばかりの静けさに、その声は響く。
「蛍華さん? いるの? 僕だよ。碧織だよ」
ドアノブをまわしても、鍵がかかっている。僕は一度ドアを平手でたたいた。
「帰ってきたんだ。蛍華さん。僕だよ」
応答はなくても、話し声はしている。確かにする。男といるのだろうか。構わず、ドアをこぶしでたたいた。
「蛍華さん。僕だよ。開けて。珠生に言われて帰ってきたんだ。開けてよ。蛍華さんっ──」
いきなりドアが開けられ、はっと身を引いた。煙草のにおいがして、顔をあげると、上半身ははだかの若い男が眉をゆがめていた。
「何だよ」
「あ、……蛍華さん、中にいるの」
「誰だよ、ケイカって。中にいるのはミユキって俺の女」
「で、でもここは、」
「待って、リョウちゃん。もしかして、ここに前住んでた人のことかもしれないわ」
この男のものらしい大きすぎるトレーナーを着た、子供のような女が現れた。寝室があるというのに、奥にまっすぐ見えるベッドも変わっていない。
「ここに住んでるのは、リョウちゃんじゃなくてあたしなんだ」
長い茶髪をはらい、邪慳な男にしなだれる女の子は僕を品定めしてくすっとした。
「家具、冷蔵庫、もろもろこみで借りてるのよ」
「蛍華さんに」
「なーんか、ここに前暮らしてた人は、ベッドも冷蔵庫もいらないとこに行っちゃったのね」
「……え」
「アル中でぶったおれて、それ以来帰ってこなくて、家具も置きっぱなしに引きはらっちゃったの」
「どこに運ばれたの」
「さあね。どっかの病院じゃない?」
女の子の笑い声が反響し、僕は動揺した目をスニーカーに落とした。アル中で倒れた。病院に運ばれた。引きはらった。蛍華さんが。何で。僕が家出したせいか。珠生は事実を語っていたのか──
「もういいだろ」と男が不機嫌に僕の肩を押しやり、ばたんとドアを閉めてしまった。女の子の声と足音が遠ざかり、僕はしばらくそこにぼさっと突っ立っていた。
不穏な風音が鼓膜を圧迫し、喉がぴったりと閉塞していた。蛍華さんはここにいない。いつ頃、どこに行ったのだろう。
今は何をしているのだ。アル中の治療をしているのか。娼婦には復帰しないつもりなのか。いや、別の部屋ですでに新しく生活しているのか。
なぜ、倒れるほど酒を飲んだのだろう。男に振られても、そこまではしなかったのに。本当に僕の家出で──
僕は歩き出した。〈neve〉に直行するつもりだった。
弓弦との連絡はすぐに取れて、翌日に僕は〈neve〉でない喫茶店で彼に会えた。率直に豹さんと連絡が取りたいと言うと、コーヒーをすすっていた弓弦は意外そうにした。「すぐにでも」とたたみかけると、「すぐは無理だろ」と弓弦は弱った顔になる。それでも断りはせず、豹さんに至急で伝えるとは約束してくれた。
僕は蒼ざめて、思いつめていた。目線がぶれて雑音にいらつき、煙草も香水も神経を鎮めてくれない。弓弦は眉をひそめて心配を現しても、豹さんを呼び出すほどであるのから深刻さは察したのか、何も訊いてこなかった。「仕事はちゃんとしろよ」とだけ残して別れ、僕は分かっていても客の前でもそわそわと散漫だった。
そして翌日、〈neve〉には弓弦からの青い封筒が預けられていた。豹さんと落ち合う場所として、高級ホテルの名前とその場所、日時が記されてある。明日の十九時、明日の予約は豹さんの命令ですべて取り消したともあった。
これで豹さんに会えるのだ。そこはそれで緊張しても、当面、僕はそれより蛍華さんの行方だった。
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