青氷の祠-79

帰る場所

 豹さんはテーブルに置かれた灰皿に灰を落とし、「珠生にどのへんまで聞いたんだ」と話を戻す。
「昔のことを聞いたんだ」
「昔のこと」
「蛍華さんは僕を愛してた、とか言ってて」
 豹さんは僕を一瞥し、何も言わずに煙草に口をつける。
「豹さん、珠生がこの街を出ていったの知ってる?」
「あいつの背後にも目をつけてたからな」
「え、じゃあ──」
「お前とモーテルに行ったのも知ってる」
「………、何にもしなかったよ。キス、はしたけど」
「金は取ったか?」と豹さんはたぶん冗談で言い、僕は首を横に振って「僕は珠生にあれぐらいただであげて当然だったんだ」とつぶやく。絨毯に視線を落とした豹さんは、「豹さんにも」と僕がつけくわえると顔をあげる。
「僕、恋愛できないのかな。こんなに淫売に染まっちゃって、それでも踏み出してくれた豹さんにもうまく応えられなくて」
「そんなこともないさ。俺はじゅうぶん応えてもらってる」
「そうかな」
「お前は相性を強く求めるんだろう」
「……うん。あ、珠生は豹さんは自分を嫌ってるって言ってたよ」
 豹さんは快活に笑い、「そうだな」とあっさり肯定した。
「気に入らなかった」
「僕を盗るかもしれなくて?」
「盗れるとは思わなくても──。あいつも俺を敵視してたしな」
「珠生の気持ちは知ってた?」
「お前と向かい合ってないとき、お前を見るあいつの視線を見たら瞭然だった」
 豹さんがそう言うのなら、珠生の僕への想いは本物だったのだろう。どのみち、これは彼本人の話で信じている。問題は蛍華さんで、豹さんが肯定すれば珠生の洞察は事実になる。
「蛍華さんは、どうだったと思う?」
「蛍華」
「僕は、蛍華さんには嫌われてると思ってた。姉に押しつけられた荷物だって。珠生ばっかかわいがってたでしょ。僕のことはたたいて罵るばっかり」
「……ああ」
「珠生に言われても、そんなの信じられなかった。だから僕、こないだ、帰ってみたんだ」
「帰った」
「蛍華さんの部屋に行った」
 豹さんの表情が硬くなり、僕も頬に力をこめた。暖房にほどけた軆をはりつめ、香りは残して湯気を淡くさせる紅茶を見つめる。
「そしたら、蛍華さん、いなくて」
「………」
「変な、女が男と暮らしててね。女のほうが、蛍華さんはアル中になってどっかに連れてかれたって」
「………」
「珠生は、蛍華さんは僕の家出にショックを受けてたって言ってた」
「………」
「ほんと、なの? ほんとだったら、蛍華さんどこにいるの。病院? この街に帰ってきてる? 豹さんなら知ってると思って」
 細い糸ながら、覚悟を張った目を豹さんに向けた。豹さんは吸いさしの煙草を灰皿に置き、首を垂れて肩から大きな息を吐いた。
 静かで、何の音もない。身動ぎも息遣いもひそめられ、ゆいいつ、自分の心臓が遠雷を刻んだ。煙草が匂いを立てて燻らされていく。緊迫させた肩に二の腕が窮屈に痛んできた頃、豹さんは再び息を吐いて僕に顔を向けた。
「彼女はいない」
 心臓が一気に近づいて雷鳴になり、豹さんは無表情に続ける。
「この世にいない。部屋を貸す相手だから、大家はでたらめを伝えたんだろう。蛍華はアル中で連れていかれたんじゃない。あの部屋で自殺した」
 僕は呼吸を絶して目を開いた。豹さんは無表情ながら、それは意識した無表情だ。
「アル中も事実だ。最後の一年には仕事にも出なかった。俺が正そうとしても包丁を振りまわすだけだった。俺は見張っていたんだが、酒を奪うなら顔を出すなと言われて、最後の半年はきちんと会えなかった。彼女はひとりで手首を切った。四年も前だ」
「……何、で。僕、が出ていったせいなの?」
「ああ。『あんたがいてもどうにもならない』と俺は言われた。珠生も似たことを言われたんだろう。珠生が出ていったせいじゃない。蛍華がおかしくなったのは、間違いなくお前が出ていってからだ」
「何で。蛍華さんは僕なんて」
「お前に愛されるのが怖かったんだ。うまく応えられる自信がなかったんだろう。愛してるのを気づかれないようにしてたんだ」
「そんな……」と僕はかすれた声をもらして、目を落として、首を垂らした。
 視覚が途切れ、軆が震える。蛍華さんが自殺した。僕を失って。その深手に。嘘だ。あの蛍華さんが。酔って正体を失くしても、僕を嫌いだと言っていた。生まなければよかった、殺せばよかった、出ていってしまえとさんざんたたきつけてきた。珠生をかわいがり、僕を除け者あつかいした。
 信じられない。蛍華さんのどこに、僕が不在になって行き場を失くす愛情があったのか。唇を噛む僕の隣に、立ち上がった豹さんが腰かける。
「蛍華には、お前が帰る場所だった」
 凍って見えない目を豹さんにかざす。豹さんは温かい手で僕の頬をさすった。
「いくら男に捨てられても、部屋に帰ればお前がいた。優しいやりとりはできなくても、気を引けば相手にしてくれるお前が」
「おもちゃだったの」
「違う。人間にはそういう、帰れる場所が必要なんだ。蛍華はお前がいて、お前のために、高級娼婦なんてやりぬけていた。ただ、素直になれなかったんだ」
 僕はこぼれそうな雫に睫毛を伏せた。肩が抑えられず、喉にずきずきが刺さって息ができない。胸の中が混沌と溶けていく。豹さんは僕の髪を撫で、その指先に香水がこぼれた。蛍華さんの甘ったるい香水は、依然覚えているのに嗅覚にはよみがえらない。
「……豹さん」
「ん」
「あの人、ほんとは叔母さんなんかじゃないんだ」
「………、」
「あの人は、僕のかあさんだった」
「……ああ」
「信じられないよ。そんなの嘘だよ。何で。そんなのどこにあったの。憎まれてたほうがマシだよ。あの人はいつも、僕を生んだのを後悔してた。僕がいなきゃこんなことにはならなかったって言ってた。愛してなんてなかった。僕は蛍華さんなんか嫌いだよ」
「碧織──」
「大っ嫌いだよ」
 僕と豹さんは見つめあった。僕の瞳はなみなみで、白くぼやけて何も見えなかった。豹さんが痛く微笑んだのは、頬に触れたそのもろい感触で分かった。
「豹さん」
「ん」
「僕にも帰る場所がなくなった」
「……あるじゃないか」
 豹さんは僕の頭をそっと抱き寄せた。僕はその温かさと煙草の匂いに目を開き、途端、一気に激しく泣き出した。
 頭がぐらぐらしていた。胸の空っぽが凍てついてすごく痛い。痛くてたまらない。そんなのは信じられない。豹さんの硬い胸にきつくしがみつき、傷ついた声をあげてしゃくりあげた。熱い涙がどくどくとあふれ、喉を穿つひりついた吹雪が溶け出していく。豹さんは僕を強く抱きしめ、香水や煙草で追い求める匂いで僕をぎゅっと包みこんだ。
 深い凍傷が、豹さんの腕に透いた安堵を覚えさせる。なぜ、愛は青氷に祀られているのか。それが分かった気がした。それは、冷たいからこそ、その温かさが分かるからなのだ。温かい心を知るため、愛は氷に祀られている。青氷の祠を経たとき、愛を大切に保つ意義が光になっていく。
 だから僕は、いっぱいに泣いた。焼けつく痛みは止まらない。僕が凍りついているのは、こうして、この人の胸に帰って暖めてもらうためなのだ。そして透明を守っていく。僕は豹さんの背中に腕をまわし、もう何も考えず、この腕の中を信じた。

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