その後の面々
珠生が去り、豹さんに蛍華さんのことを聞き、それがちょうど二週間前だ。がたがた来ていた僕は、あれ以降ようやく安定を取り戻していた。夏乃もいなくなったし、以前より安泰したとも言える。
けれど、ごく表面的だ。内面的には、いつ終わるかしれない葛藤に放り出された。珠生は僕に真実を知らないほうがいいと言った。事実だったと感じている。家出した時点で片づいたと思っていた憎しみまみれの過去が、今、思いがけない愛を持ってぶりかえしている。思い出すだけ岩漿のごとく滾っていた過去が引っくりかえり、僕は受容の軌道に乗ることにすら難儀していた。
理解してそばにいる人がいると、僕は幾許か猛威に耐えられる。豹さんはいそがしくても、光樹もいる。ひと通り話を聞いた光樹は、今は揶揄もよこしても、それは僕の心を解して揶揄に昇華できる部分を見極められるからだ。
ずっと一緒で、光樹は幼かった僕をじかに知っている。珠生の皮肉を、蛍華さんの暴力を、あの家に憎しみしか見れなかった僕を知悉している。かけがえのなさは光樹も冷静に自覚し、前より時間を作って会いにきてくれるようになった。
前述の通り、光樹は女の子の問題が片づいて生活にゆとりもある。音楽をやり、バイトをし、陽香さんのところに顔を出し、彼の生活で変わったことといえば、何か資格を取ろうと始動したことだ。光樹は若いうちの遊びとしてバンドをやっているわけではない。続けるための地盤として、生活の安定をはかりはじめたわけだ。何をやるかはさしづめ決まっていなくても、このあいだ訪ねた彼の部屋には、資格の専門学校の案内が山積みになっていた。
僕の部屋は変わらなかった。夏乃の結婚は本物で、僕はあの部屋に毬音とのふたり暮らしで落ち着いた。毬音は夏乃と縁が切れても平気そうながら、本音はいまいち分からない。彼女は今でも茶髪の女を殺している。そろそろその陰気臭い趣味も卒業させたく、僕は彼女に外界を教えようと思ったわけだ。
僕は毬音と形式的にも親子になった。豹さんの胸で泣いたあの夜、鎮まったあとに毬音を認知するにはどうしたらいいかを訊いた。法的に親である夏乃は籍をうやむやに消え、今、毬音は得体の知れない立場だ。面倒だっただけで、僕も毬音の認知に抵抗はない。僕にとって荷物なら毬音をどうするか分からない豹さんも安心させたくて、僕は毬音を認知した。
毬音は比較的無関心でも、僕に養われる権利を得たのには安堵もあったようだ。実質的な関係にきっと変わりはない。僕は毬音をたたくだろうし、まともに愛も与えてやれないだろう。でも、そういう態度はあの家庭で育ったものであり、僕の個人的な性質なので、毬音を巻きこむべきではないとも思ってきている。
僕に毬音を押しつけて街を出た夏乃は、足を洗って奥さんをやっているらしい。詳しくは知らない。知りたいとも思わない。僕は彼女が本当に結婚し、家庭に落ち着き、部屋に来なければ満足だ。相手の男も知らない。人ひとりを買い取れて浮気するのが容易でない男、となれば、財力と権力を持ち合わせた男なのだろう。このことで驚いたとすれば、夏乃がそんな大層な客を取っていたことだ。
僕はもちろん男娼をやっている。頼さんのいる〈neve〉で、親しい男娼たちと雑談し、大好きな男たちに抱かれる。やはり僕は、男に抱きしめられるのが好きだ。肉体が許す限り、この仕事を続けたい。珠生の愛は僕の淫売性を理解できなかった。豹さんは理解しようとはしている。恐らく珠生が正常で、豹さんは僕の変わった指向に骨をねじまげているのだろう。申し訳ないと思いつつ、僕は男たちの飢餓に口づけをほどこすのに蕩けてしまう。
せめて僕の仕事を正視しない豹さんのかわりに、僕を管理するのは弓弦だ。好きになったわけではなくも、彼の外の臭いに嫌悪をしめすのは減った。そんなのに文句をつけているヒマはなく、一連のごたごたでは彼に接触する機会も多かった。
彼に恋人ができて、豹さんを奪わない確信ができたのもある。何やら割りこんできていた女ともケリをつけ、恋人とは順調な様子だ。仕事の腕も上げ、豹さんの先見は外れてなかったんだなあ、と実績もなかった弓弦を見出して僕を預けた豹さんにしみじみとする。
それと、弓弦の恋人が発行した読み物のペーパーを先日読ませてもらった。外っぽくもこの街っぽくもある内容で、〈neve〉ではおもしろがられて話題の種になっている。いわゆる“心の傷”をあつかったそれは、この街限定のペーパーで、陽桜だけでなく彩雪にも配布されている。僕は光樹の部屋に行った際にそのペーパーを持っていき、それはファントムリムのメンバーにもまわしよみされた。光樹は僕や男娼たちと同じ感覚で楽しんでも、三人は外に近い感覚で蒼ざめたらしい。
ファントムリムの面々も穏やかだ。拓音のことは、びっくりはしても悪い衝撃ではない。七夏もタチの悪くなっていた女の子と片づき、美静は恋愛に焦らず心の均衡を優先している。深刻な衝突や断絶もなく、四人は音楽的にも精神的にも結びついている。オリジナル曲も増え、ライヴハウスでリスナーとの絆も築いたので、インディーズでアルバムを作ってみようかという話もちらついている。「いそがしいなら無理しないでね」と時間を割いてくれる光樹に僕が遠慮すると、「水臭い」と彼は僕の頬をつねって咲う。
光樹と蛍華さんの話をしながら、僕は今でもあの人を蛍華さんと呼んでしまう。「かあさんって言ってみれば」と光樹に言われても、僕にはかあさんという名称は、もはやあの人ではない。“蛍華さん”があの人になっている。「もし蛍華さんが碧織を愛してたとしても、ひどいことをしたのは変わりないと思うな」──かあさんをかあさんと呼べない僕に、光樹は傷んだ瞳でそうつぶやいた。
それは、子供としてあの人に愛されていたのなら信じたいけれど、心にとって都合がいいからとあっさりとは信じられない。仮に愛されていても、僕はあの人を愛せないだろう。悪循環だ。応えられない確信が、いっそう蛍華さんの愛情が真実であった場合を重圧にさせる。厭わしい中に哀しく、あのまま憎まれていると思っていたほうがよかったと感じる。僕はまんまとあの人にハメられ、思惑通り憎んでしまった。たたくよりも、罵るよりも、愛ゆえであろうその仕打ちが最もむごい。
過去を掘り返せば返すほど、あの人に愛情なんて見つけられない。ほんとに僕を想って死んだのかなと猜疑も渦巻く。豹さんの話を疑うのは忍びなくも、あの人の僕への態度、言葉、視線は完璧にとげとげしかった。僕に愛を気取られないように万全を期していた、と言われたらそれまででも──焼きついた心の殻は、予想以上に実情を受けつけられない。
愛を認めるのが憂鬱でもある。認めたら最後、すごい重量の氷が僕を取り囲む。祠でなく神殿だ。凍え、麻痺し、凍死する。とても僕の心ではまかなえない。そんな中で永遠を過ごすなんて、単なる拷問だろう。
蛍華さんに較べると、珠生の事実の受容は順調だ。彼が僕を想っていたのは不思議と信じられる。あんなに憎らしかった数々の皮肉も、珠生の心を知れば、万能鍵のごとく裏に隠された愛情を読み取れる。珠生のねじくれた言葉には、いつもどこかに僕への想いが秘匿されていた。心配だったり、嫉妬だったり、独占欲だったり──珠生を想うと胸が重くきしみ、この重みの許容には月日がかかると思うけど。
珠生は、僕の前にいない。二度と現れない。あのモーテルで別れた日以来逢わないし、希水は再びこの街を去ったとうわさも立っている。彼が今、どこでどうしているのか分からない。それがすごく怖い。彼については、永久にうやむやなのだ。
生きていてほしいと思う。珠生は僕なんかを愛して孤独に没した。“希水”でなく“珠生”としてやっていき、僕に振りまわされず、世界を持ってほしい。そうなれると信じさせてほしい。そうでないと、僕は珠生を想うたび、胸がずんと重くなって喉がざらざらにさいなまれる。
僕はあの夜のあとにも豹さんに会った。昔のように食事を取り、車で話を聞いてもらって少し甘えた。「あのふたりのことは、受け入れられるならそうしたほうがいいと思うが、無茶はしなくていい」と豹さんは言った。珠生も蛍華さんも、僕を痛めつけたくて愛したのではないと。僕はあのふたりに僕を愛する勇気を、愛に孕まれる氷を受ける勇気を持たせてあげられなかった。突きつめればやっぱり僕は愛されないのかな、という不安を豹さんがぬぐってくれる。豹さんのおかげで、僕も永続的な愛をあしらったりせずに済んでいる。珠生と蛍華さんを受け入れたいのなら、豹さんを想うことが土台となっていくのだろう。
豹さんに対して祠を捧げるのは、豹さんも僕で暖まってくれているので報われる。しかし、珠生や蛍華さんの愛は、はっきりいって許容してもどうにもならない。いまさら遅い。相手を幸福にできない。今度は僕が一方的に想うハメになる。それでも、心をかけてその氷に取り組んでいるのは、片想いの憎悪なんてそぎおとしてしまいたいからだ。
僕はふたりに──とりわけ蛍華さんには、応えられない。ただし、その想いを汲み取ることはできる。僕は自分のために、この憎しみをやわらげる。深く突き刺さって取れない憎しみもあるだろう。それでもその氷と和解し、痛みを溶かしたい。僕は蛍華さんをないがしろにはしない。
そんなことはとうぶん認められなくても、一歩間違えれば、あの人が僕のかけがえのない家族だったのも事実なのだから。
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