バニラエッセンス-5

フレンチトースト

 そんなに慎重にならなくていいのに、紗月くんが必死だから、あたしも生唾を飲みこんでしまう。紗月くんはたまに「あ」とかつぶやいて、ずれた長さを調整しながら、あたしの髪を予定より若干短く仕上げた。
 ちょうど、顎に等しい長さだ。生まれてから切ったことのなかった髪が、蛇の群れのようにポンチョの折返しで絡み合っている。紗月くんはあたしの髪の毛先をはらいながら、「ごめん」とため息をついた。
「短すぎたね」
「ううん、いいよ」
「結ったりしたかったんでしょ」
「あ、別にいいの。ほんとは男の子くらいでもよかったし」
「……ほんと?」
「うん。一番ちょうどいいよ。ありがとう。あ、あのね」
「ん」
「この髪、そのかわいい服に、似合うかな」
 紗月くんは溜まった髪を集める手を止め、頼りなく咲って、「僕が切ったから自信ないけど」と頭をぽんぽんとしてくれる。
「結音なら似合うよ。大丈夫」
「そっか。うん、似合うならどんな髪型でもよかったの」
 あたしと紗月くんは瞳を通わせて、優しく微笑みあった。そのとき、ふと初めて思った。
 こんな人がパパだったら、あたし……
「けっこう床にも落ちちゃったね」
 そう言って紗月くんが切り落とされた髪の処理に戻ったのをいいことに、あたしは、ポンチョの陰で白い小さい手を握りしめた。
 違う。ダメだ。あたしのパパは、あのパパだ。
 忘れちゃいけない。あたしが憶えてなきゃいけない。忘れてしまったら、パパは本当にいなかったことになってしまう。だって、弓弦が殺して、あたしのパパは──
 紗月くんは、髪があらかた片づくと、あたしからポンチョも脱がせて髪に櫛を通した。そして、正面にまわると首をかたむけ、柔らかい笑みを浮かべた。
「よかった。かわいい」
 あたしは、ほんの少しだけ、嘘咲いした。
 紗月くんは、たぶん知っている。弓弦が、なぜパパを殺したいのか。でもきっと、教えてくれない。そんな溝がある人に、本当は心なんて許しちゃいけない。
 なのに、「何か軽く食べようか」と言われて、あたしに素直にこくんとしていた。
「ごはん作ってるあいだ、シャワー浴びておいで」
 キッチンでフライパンを取り出しながら、紗月くんはあたしに水色のパジャマと下着を持ってこさせて、さっきのドアをしめした。
「背中とかに髪が入ってたら、気になるだろうから」
「ん、うん」
「あ、シャンプーとか、置いてるとこに手が届かないね。それだけ床に置いてこようか。ちょっと待ってて」
 紗月くんはフライパンを焜炉に置くと、まだ火はつけずに、しめしたドアに向かった。あたしはそのあとをついていく。
 ごく薄いピンクが基調の洗面所があって、トイレもそうだったけど、白い陶器の洗面台は鏡になりそうにぴかぴかだ。カビの生えた洗面台しか見たことなかったあたしは、使わないのだろうかと面食らってしまう。その隣に洗濯機があって、ふかふかのタオルが積まれたラックもある。
 紗月くんは、手早くあたしがシャワーを浴びれるように用意して、タオルを一枚かごにいれると、「じゃあ、ごはん作ってるね」と行ってしまった。
 あたしは、タオルの入ったかごにパジャマを入れてみて、ここだよね、とわざわざ訊きにいくのはやめておいた。それから、色あせてほつれた紺のロングTシャツを、引っぱるように脱ぐ。あたしは下着なんてもらえなかったから、それではだかで、バスルームに踏みこんだ。
 床がひやりと肌に口づけ、曇りのない鏡に、傷と痣でまだらになった蒼白く痩せた自分を見つけた。弓弦や翼の言葉が、吹き抜けた風のようによぎる。
 普通じゃない。
 あの部屋にいた頃、毎日聞いていた周囲の声が、点滅するみたいによみがえる。ごめんなさい。殺さないで。痛いよ。静かにしてるから。助けて──
「……普通だもん」
 タイルに響いた細い声は虚しくて、何だか急に、紗月くんの元に戻りたくなった。あたしが届くよう床に置かれていたシャワーヘッドをつかみ、コックをまわしてお湯を出す。シャンプー、トリートメント、ボディソープで、あたしは生まれて初めて、汗臭さの残らない柔らかな匂いにつつまれた。
 バスルームを出ると、ほわほわのタオルに水滴を吸わせる。そして、慣れない手つきで下着を身につけて、どきどきしながら水色のパジャマに腕を通した。パジャマは軽やかな肌触りで、慣れなくて、やっぱり似合わないって笑われないかな、と隠れるように洗面所からキッチンを覗く。
 キッチンには、紗月くんの背中がある。じゅーっという何かを焼く音と、優しい香りがした。ココアとは違う、ふんわりした香りだ。何だろ、とその香りに誘われて洗面所を出たあたしは、紗月くんに気づかれて、少し視線をとまどわせる。
「あ、あの……」
「ん」
「変、じゃない?」
 紗月くんはまばたきのあと、咲って「かわいいよ」と濡れた髪を撫でてくれた。「さっぱりできた?」と訊かれてこくんとする。
「そっか。じゃあ、髪、乾かさないとね。ちょっと待って、もうこれできるから」
「いい匂い」
「フレンチトーストだよ。僕は、弓弦ほど凝った料理作れなくて」
「弓弦、料理するの?」
「うん。すごく上手だよ」
「……あたしは、紗月くんが作ったほうがいい」
「食べてみたら、そんなこと言えなくなるよ」
 咲いながら紗月くんは、フライパンの中でフライ返しを動かしている。あたしは焜炉に歩み寄ると、背伸びしてフライパンの中を覗いた。
 調理されているのは、食パンだった。食パンに、優しい匂いの元が染みこんでいるみたいだ。紗月くんは、かたわらにあった小瓶を手に取り、中身を食パンに振りかけた。
 その甘い香りに、あたしは思わず身を乗り出す。
「それ、なあに」
「え」
「すごくいい匂い。香水?」
「はは、料理に香水は使わないよ。これはバニラエッセンス」
「バニラエッセンス」
「バニラアイスって食べたことない?」
「アイス、食べたことない」
「じゃあ、今年の夏には食べなきゃね。バニラエッセンスはね、バニラって植物から取れる香料なんだ。いい匂いだよね」
「うん。おいしそう」
「ふふ、料理においしそうな香りをつけるためのものだからね。──よし、できた」
 かちっ、と紗月くんは焜炉の火を消す。早く食べたいあたしの背中を、紗月くんはリビングへと押す。
「食べないの?」
「食べるよ。けど、まだ熱いし。髪、短くてすぐ乾くだろうから、冷ましてるあいだに乾かそう」
 そんなわけで、あたしはリビングに連れていかれて、紗月くんはドライヤーを洗面所から持ってきた。ドライヤーなんて、ママが使っているのしか見たことがない。あたしなんかがいいのかな、と思っても、黙って紗月くんに任せて髪を乾かしてもらった。
 ボディソープだけでもいい匂いになっているのに、乾かすと髪までなめらかに匂い立つようになった。そわそわするあたしをなだめると、「これ食べたら、また寝ようね」と紗月くんはお皿とフォーク、バニラエッセンスが香ばしいフレンチトーストを持ってきてくれた。
 きつね色になった食パンが吸いこんでいるのは、たまごみたいだ。銀のフォークで不器用にひと口大をちぎって口に運ぶと、牛乳の味もした。バニラはすごく香っているけれど、味には見つからない。
 かすかに不安そうな紗月くんに、「おいしい」と微笑むと、紗月くんはほっとした様子で笑顔になった。
「紗月くんは食べないの?」
「僕は、結音が寝てるあいだに弓弦のごはん食べたから」
「……そっか」
「一緒に食べたかった?」
「………、ちょっと」
「じゃあ、ひと口分けてくれる?」
「うんっ」
 あたしはまたひと口大ちぎって、フォークを紗月くんの口に持っていった。紗月くんは、それを素直に食べてくれる。
 パパは、それしかなくてカビの生えたパンをあたしが譲ろうとすると、よくこう言っていた。
『お前が分ける食い物なんか、臭くて食べられるか』
 飲みこんで「砂糖多かったかな」とかつぶやく紗月くんを見つめたあと、あたしはフレンチトーストに向き直った。
 温かい食事。いい匂いの食事。一緒に食べる食事。絵空事だと思っていた。でも、これが“普通”なのだろうか。
 フレンチトーストを食べ終わると、紗月くんは歯磨きとトイレをうながし、またあたしを寝室に連れていった。
 暗がりの中、ベッドサイドに腰かけ、軽くなった髪を優しく撫でてくれる。その手のひらの温かさとベッドのひなたの匂いに、うとうとと睫毛が揺蕩ってきて、やがて、あたしは眠りに落ちていた。

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