おねえさんのように
弓弦の仕事がいかがわしいのは窺い知れたけど、紗月くんも仕事のようなことはしているみたいだった。
この部屋に来て三日くらい、紗月くんはあたしにかかりっきりだったけど、その日はリビングでノートPCに向き合って、紙を見ながら何かを打ちこんでいた。床にいたあたしは、字が読めなくて絵だけで話を想像していた真新しい絵本を置いて、「何してるの」とそっと近づいて訊いてみる。
紗月くんは顔をあげて、「ペーパー作ってるんだ」とテーブルにあった小さい紙パックの野菜ジュースをひと口飲んだ。
「ぺーぱー」
「新聞みたいなものかな。この街に住んでる人に体験談を書いてもらって、僕が小説にして、載せてるんだ」
「紗月くん、小説書く人なの」
「まさか。たまに、頼まれてライターみたいなこともするけど。これは、僕が個人的にやってるものだよ。お金も取らないしね」
紗月くんは紙パックを置いて、かたわらのリュックから、雑誌くらいの大きさのふたつ折りの紙を取り出した。受け取ってめくってみたけど、字が読めないあたしには、さっきの絵本よりぜんぜん分からない。
「昔は、紙一枚だったんだよ。手書きだったし。PCになって、何ページか作れるようになった」
「ネットに載せるの」
「え、ネットは分かるの」
「パパがやってた。動画とか観てたよ」
「そっか。ネットには載せないよ。このペーパー自体、この街以外では配布しないし」
「どうして」
「外の人には、理解できないだろうしね」
あたしからペーパーを引き取り、ちょっと寂しそうに咲った紗月くんは、ノートPCに向き直った。
外。それは、この天鈴町以外のすべての世界を指すらしい。あたしには、外なんてパパと過ごす部屋の外のことだった。だから、この街じゃないと生きないという紗月くんたちと同じく──いや、いっそうあたしはこの街でしか生きられないのだろう。
紗月くんにもたれかかって、目を閉じた。「眠い?」と頭を撫でられて、少しうなずく。「ちゃんとそばにいるよ」と言ってくれた紗月くんに甘えて、あたしはうつらうつらと時間を過ごした。
しばらく、そんなふうに、ほとんど部屋で過ごす日々が続いた。けれど、きっちりした食事や睡眠であたしがふっくらしてきて、傷や痣がやわらいでくると、紗月くんはあたしを連れてあの喫茶店で作業するようになった。
この喫茶店は、〈POOL〉と言うらしいけど、紗月くんや弓弦は「ミキさんのところ」とよく言っている。ミキさんとは、あの日、ココアやオムライスを持ってきた美人のことらしい。紗月くんが作業に集中していたら、邪魔しないようにあたしは何かを食べたり飲んだりしている。
そんなあたしの相手をしてくれる、ウェイトレスの人が現れた。初めは、ちょっと怖かった。澄ましたような吊り目が印象的だからだろうか。全体的に色素が薄く、ひとつにまとめた長い髪も茶色っぽい。年齢はまだ十代だと思う。すらりとした美少女だ。「毬音ちゃん」と紗月くんが声をかけたのが切っかけだった。
「よかったらなんだけど、ときどき、結音の相手してくれないかな」
帰ろうとしていた美少女は首をかたむけ、あたしを一瞥した。
「たぶん、僕より毬音ちゃんが結音に近いかなって」
断ると思ったら、「いいですよ」と美少女は答えて、あたしの隣に腰かけた。
お互い、しばらくは様子見だった。ノートPC越しに、たまに紗月くんが気にかけてくる。そんな紗月くんに、「紗月くんが書いてるの、読めるようになりたいな」とあたしがつぶやくと、その人は頬杖をついて、ほどいた髪を指に絡ませながら訊いてきた。
「あんた、字、読めないの?」
あたしはその人を見て、躊躇ったあと、うなずいた。すると、その人は初めて咲った。嘲笑とかじゃなくて、微笑ましく思った笑みだ。「分かった」とその人はトートバッグから手帳とペンを取り出す。
「あたしが、字を教えてあげる」
「えっ」
「あんたのお相手をお願いされてるのに、これ以上沈黙してんのは、紗月さんに失礼でしょ」
紗月くんを見た。決まり悪そうな紗月くんに、「紗月さんは作業してて」とその人は軽く言って、あたしに向き直った。
「確かに、あんたのことはよく分かりそう」
「え」
「あたしも、この街で生まれて育ったからね」
「そう、なの」
「両親とか最悪だったよ」
その人は伏し目になって、長い指先であたしの頬に触れた。痣の名残を隠す絆創膏の場所だ。
「ママ?」
あたしはその人に上目遣いをして、首を横に振った。
「じゃあ、パパ?」
わずかに躊躇したけれど、今度はこくんとする。「そっか」とその人はつぶやき、ため息をついた。
「あたしのパパも最低。男なのに男に軆売ってさ、ママとあたしには暴力ばっかり。本人はホモじゃないって言ってたけど、どうなんだかね。まあいいや。あんた──えっと、名前何だっけ」
「結音」
「ユイネ、ね。あたしは毬音」
「まりね、ちゃん」
「うん。好きに呼んで。歳は今年で十六」
「あたしは、四歳だよ」
「四歳か。個人的に、いろいろ忘れられない歳だな」
「何かあったの」
「んー、まあ、パパの兄弟が来たり、ママがほかの男と結婚したり、ね。どうでもいいね。じゃあ、ひらがなから勉強していこうか」
そんなわけで、毬音ちゃんはあたしに字だけじゃなく、簡単な計算なども教えてくれるようになった。おかげで急速に仲良くなって、何だかおねえさんができたみたいで嬉しくなった。
毬音ちゃんは無表情なことが多く、そっけない態度も多かった。けど、毬音ちゃんなりに、あたしをかわいがってくれているのは伝わってくる。
そんなあたしたちに、紗月くんもほっとしたようで、作業に集中するようになった。
毬音ちゃんには、ひとつ年上の彼氏がいる。音楽が好きで、ギターを弾いている人だそうで、毬音ちゃんは「ユウ」と呼んでいる。「あいつは外で幸せに育ったのに」と毬音ちゃんは長い睫毛を迷わせる。
「あたしなんか、どこがいいんだろ」
「あたしは、毬音ちゃん好き」
「たとえば?」
「………、ほんとは優しいとこ」
毬音ちゃんは噴きだして、「ユウも似たこと言うなー」とあたしのノートを覗きこむ。このノートは、勉強用に紗月くんが買ってくれたものだ。「この字ゆがみすぎ」と指摘されて慌てて消しゴムをつかみ、あたしは同じ字を繰り返し練習した。
そんなふうに、書くのはまだまだだけど、ひらがなくらい読めるようになってきた頃、弓弦の手下のあの翼が〈POOL〉にやってきた。
「紗月さんは〔こもりうた〕があるし、毬音さんも仕事あるんだから、今日からお前の相手は俺だ」
あたしは思いっ切りふてくされた顔になって、「あたしは構わないんだけど」と毬音ちゃんはノートに赤ペンを入れる。紗月くんが心配そうに「弓弦?」と問うと、翼は若干かしこまった面持ちになって、「ですね」とうなずいた。
「弓弦の命令なんか無視してよ。あんただって、あたしといたくないでしょ」
翼はぶっきらぼうなあたしを見ると、負けない愛想のなさで返した。
「俺は弓弦さんには逆らわない」
「あたしが嫌だって言ってるの。それ伝えてよ」
「お前も弓弦さんには逆らえない」
「何で」
「しょせん、弓弦さんに食わせてもらってんだろ」
つい口ごもると、「翼くん」と紗月くんが翼をなだめた。翼は紗月くんを向き、「本来なら、こいつはもう生きてないんですよ」とあたしに億劫そうな目を戻す。
「そんな奴の世話なんて、よく分かんないですけど。弓弦さんが、どうしてもって言うから」
「僕から言ってもいいよ。それに、結音がいて邪魔なんてことないし」
「でも、〔こもりうた〕の最新号ってまだですよね」
「ん、まあ」
「毬音さんにだって、プライベートがあるし」
「ユウは、XENONと一緒に日本を転々としてるよ」
翼はわざとらしく息をつくと、「これが俺の仕事なんで」とあたしの腕をつかんだ。振りほどこうとしたけど、さすがに力が敵わない。
引きずり出されそうになったあたしに、「翼くん」と紗月くんは一度PCを閉じた。
「結音の意思もあるって、弓弦に伝えて」
翼はあたしの腕をつかむまま紗月くんを見て、「一度弓弦さんに訊いてから」とケータイを取り出した。腕を解放されたあたしは、毬音ちゃんにしがみつく。「弓弦はときどき、お節介だよね」と毬音ちゃんは息を吐き、紗月くんはお店の隅で電話を始めた翼を見守る。
「毬音ちゃんも、弓弦に何かされたの?」
「昔、家出したら保護された」
「……ほご」
「一応、パパが迎えにきて部屋に戻ったけどね」
「………、毬音ちゃんは、パパのこと、好き?」
「あんな奴、死ねばいい」
紗月くんが毬音ちゃんをちらりとして、「でも、まだ暮らしてるんでしょ」とPCを開く。毬音ちゃんは「寝床ですよ」とあたしと軆を離した。
「毬音ちゃん──」
「ごめん、たぶん弓弦も分かってて、この時間帯に翼くんをよこしたんだ。あたし、シフト入らなきゃ」
時計を見た。もうじき、二十二時だ。毬音ちゃんは、たいてい二十二時から午前四時までのシフトに入っている。あたしがしゅんとうつむくと、「大丈夫」と毬音ちゃんは頭を撫でてくれる。
「翼くんも、そんなに悪い子じゃないよ」
「あたしは嫌だもん」
「あの子もあたしたちと同族だよ。それに、紗月さんの〔こもりうた〕を待ってる人がたくさんいるのも事実」
「僕は、」
「仕方ないですよ、紗月さん。弓弦に逆らうなんて、どっちみちできない」
毬音ちゃんは立ち上がると、一瞬長い髪からいい香りをこぼして、「話せなくなるわけじゃないから」と奥に行ってしまった。それと入れ違いに翼がやってきて、自分のケータイを紗月くんに渡す。
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