バニラエッセンス-8

つないだ手

 紗月くんが弓弦と話すあいだ、翼はそれを無言で見ていたけど、たまにあたしを無表情でちらりとした。あたしは飲みかけだったフルーツジュースを飲むと、仕方ないのでテーブルにしがみつく。
「翼って、弓弦の言うことだったら、何でも聞くの」
「そういう約束だからな」
「約束って」
「どんなパシリでもやるから、雇ってくださいって」
「あたしの世話なんて、あんたにはとんでもないパシリなんだろうね」
「………、こんな仕事任されるなんて、正直ビビってる」
「え……」
「お前のことは、紗月さんにしか許さないと思ってた」
 翼を見つめた。翼は、困った顔の紗月くんを見ている。「僕は構わないから」を繰り返す紗月くんに、あたしはしばらくふてくされた顔でずるずるとジュースをストローですすっていたけど、毬音ちゃんが仕事を始めた頃、仕方ないのでソファを降りた。
「おい──」
 引き止めようとした翼の手をつかんだ。紗月くんがこちらを見たのが視界の端に入る。
 弓弦の言うことを聞くなんて、癪だけれど、紗月くんは困らせたくない。「行こう」と翼の手を引っ張ると、「結音」と紗月くんの心配そうな声がかかる。
「やだもん」
「えっ」
「あたしのせいで、紗月くんが弓弦と喧嘩なんて」
「け、喧嘩じゃないよ」
「いいの。紗月くんの陰に隠れてないで、あたしも、この街に慣れなきゃいけないんでしょ。でもひとりじゃまだ危ないから、翼をよこしたんでしょ」
「………、弓弦はそう言ってる」
「そんなの分かってるって言っておいて。行こう、翼」
「紗月さん、俺のケータイ」
「あ、うん。──あ、弓弦? ──うん。翼くんと出かけるって。ケータイ、翼くんに返すよ」
 紗月くんにケータイを渡された翼は、弓弦に何か言われたあと、「分かりました」とだけ言って電話を切った。
 あたしはうつむいていたけど、一度紗月くんを振り返った。
「紗月くん」
「うん」
「あたし、あの部屋にいていいよね」
 紗月くんはわずかに瞳を傷めたけど、柔らかく咲って、「翼くんとのデートが終わったら、またここにおいで」と言った。
「一緒に帰ろう」
「……“でーと”って何?」
「紗月さん、勘弁してくださいよ」
「ふふ、僕も翼くんなら安心だよ。弓弦もそうなんだと思う。弓弦に応えてあげて」
「はい。──行くぞ」
 翼が歩き出して、あたしは小走りについていく。観葉植物とすれちがって〈POOL〉を出ると、暗闇に浮かぶ色彩と人混みが吐き出す喧騒が襲ってきた。
 紗月くんは、この時間帯の街を歩かない。ここまで来たり、部屋に帰ったりするのは、必ず太陽が顔を出しているときだ。だから、あたしも太陽のいないこの街を歩いたことがない。
「紗月くんは」
「ん」
「紗月くんは、弓弦に大事にされてるね」
「何だよ、いきなり」
「紗月くんは、弓弦に言われてるんだって。夜のこの街は絶対出歩くなって」
「……弓弦さんには手え出せねえから、紗月さんを狙う奴もいるしな」
「狙う」
「一度、そんなことがあったんだよ。切っかけは、借金の踏倒しとか、くだらなかったけど。紗月さんを返してほしけりゃ、借金チャラにしろってな」
「どうなったの」
「さあな」
「殺したの」
「『さあ』っつってんだろ」
「パパのことみたいに、殺したの」
「お前、あんな野郎のこと、まだパパなんて言ってんのかよ」
 翼は仕方なさそうにあたしの手を引きはじめ、あたしはついていきながらもそっぽを向く。
「あたしがパパのことを憶えてるの。あたしがパパのことを憶えておいて──」
「じゃあ、帰るか?」
「えっ」
 翼はこちらをかえりみて、冷たい目をあたしの目に刺した。
「あんな野郎、探せばどこにでもいるぜ。酒飲んで、ヤク打って、暴力振るって。“パパ”と大して変わりない奴のとこに行くか」
「あたしのパパは、」
「そんなのじゃなかったか?」
 イルミネーションの狭間から、翼の冷えた目に射抜かれて、あたしは立ち止まってしまう。
 パパ。あたしのパパ、は──
「いまさら、紗月さんたちとの生活を捨てられんかよ。捨ててまで、戻りたい毎日だったか」
 まるで、翼の瞳が本当に毒の塗られた矢で、その毒が神経に障ったみたいにずきりと視界がまたたく。
 お酒の饐えた臭いがよみがえった。大きな影がゆらりと近づくと、このあいだ蹴られた痣の残るおなかにこぶしが食いこむ。鈍い激痛にあたしは悲鳴を上げた。そんな悲鳴に応えるのは、似たようなどこかの子供の泣き叫ぶ声だけだ。熱く腫れるお腹を抱えてうずくまると、背骨をまっぷたつにする勢いで体重が堕ちて、堕ちて、堕ちて──
「結音」
 突然呼ばれて、はっとした。翼の目を見直すと、もう冷たい目ではなくなっていた。
「つ、翼、あたし──」
「……俺は、帰りたくない」
「翼のパパも、……あたしのパパみたいに」
「変わんねえだろうな。何なら、俺の代わりになってくれてもいいんだぜ。ぶん殴るぬいぐるみがなくなって、そうとう溜まってるだろうからな」
「ママは、いなかったの」
「いなかった」
 翼は前を向き、緩い歩調でまた歩き出す。あたしは黙ってついていった。翼の手は意外と温かい。
 怖い、と思った。初めて、思った。当たり前だと思っていたはずなのに、思い返すと、吐き気がこみあげるほど怖い。
 飲んでは殴るパパ。出かけては帰ってこないママ。常に夜であるかのように、あの部屋は雨戸に閉ざされて暗く、聞こえるのは子供の泣き声か女の人の喘ぐ声だった。何週間も放置されたゴミが、部屋の腐臭をそのまま表わしていた。
 夏は喉がいくら乾いても一滴もなく、冬は大げさに軆ががたがた震えても薄いシャツ一枚だ。でも、この環境が普通だと思っていて、そのあきらめが心を麻痺させていた。
 いつのまにか、あたしの神経は息をしている。お腹いっぱい食べて、ぬくぬくと眠って、微笑みかけられて頭を撫でてもらって。
 ……怖い。あんなの怖い。戻るなんて、怖い──
「ゆ、弓弦は、パパを殺した」
「お前なあ──」
「あたしの、ため?」
「………、」
「あたし、あのままだったら、」
「お前のためかどうかは分からないけど、お前が思うより、弓弦さんはお前を想ってる」
 あたしは翼を見上げるけど、ネオンに降りそそがれながら、翼はこちらを見ない。
「いいか、これだけは知っとけ。お前は弓弦さんのおかげで生きてるんだ」
「……食べさせてもらってるから?」
「弓弦さんに来た依頼は、もともとは、あの男とお前を消すことだった」
「え……」
「でも、弓弦さんはお前を生かして引き取った。殺したほうが早かったのにな」
 すごく周りはうるさいのに、何だか静寂に突っ立っているような感覚がした。「俺にはほんとに理由が分からない」と翼の声がする。
「弓弦さんは、依頼されたら絶対遂行する。なのに、お前には違反したんだ」
「何、で」
「知らねえよ。理由は話したくないからごめんな、って言われた」
 あたしは口ごもり、そのあとは翼とはほとんど口をきかなかった。
 たまに翼はケータイに出て、誰かと話す。弓弦ではないみたいだったが、遊びでもなさそうだった。
 めまぐるしく騒々しい夜の街を、朝までふらついていた。ずっと手はつないでいて、血管までつながったみたいに、あたしと翼の体温は同化していた。

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