バニラエッセンス-9

それでもお前は

 そんなふうに、翼はあたしの世話役になった。
 一緒に過ごすうち、何となく怖い、という翼への先入観は消えていった。ぶっきらぼうでも、ちゃんと守ってくれる。無口だけど、手は握ってくれている。
 弓弦のゆいいつの側近というのも、事実みたいだ。八歳のくせに、大の大人にお辞儀されたりしている。〈POOL〉で過ごすときもあった。紗月くんはいなくて、毬音ちゃんが働いている中、あたしは甘いものを食べて、翼はひたすらケータイでメールを打つ。
「誰にメールしてるの」
 翼はくせっぽい黒髪の隙間からあたしを一瞥し、「転送作業」とまた目を画面に戻した。
「何それ」
「仕事の依頼だけ弓弦さんの携帯に転送して、迷惑メールは届かないようにしてるんだ」
「弓弦、そんなのも自分でしないの」
「俺なんかに任せられる仕事が少ないせいだろ。弓弦さんを悪く言うな」
「翼は、弓弦好きだよね」
「好きっつーか、尊敬してる」
「あたしは、弓弦より翼のほうがマシ」
 翼はケータイをいじるまま、「ガキだな」とお礼も言わずにつぶやいた。
 あたしは、いい香りをただよわせる冷たいチョコレートのタルトをすくって食べる。いい匂いっておいしいな、とぼんやり思う。
「翼は、いつから弓弦の子分やってるの」
「五歳」
「毬音ちゃんは、弓弦はよく拾うって言ってたけど、翼も拾われたの」
「俺は自分から弓弦さんに押しかけた。うざがられたよ。手下は持たない主義だって」
「弓弦ってそんなにすごいの」
「ほとんど陽桜のボスだな」
「翼だって、自分のこと話せばよかったじゃない。そしたら、」
「仕事の紹介なら、いくらでもしてやるとは言われた。でも、部下はいらないって」
「今は部下なんだよね」
「パシリだよ。……まあ、お前に関しては、ちょっとは信頼されてるんだなって思ってる」
「翼には、あたしの世話なんて嬉しくないでしょ」
 翼はちらりと画面から目線だけあげて、あたしを見たあと、何も言わずにまたケータイをかちかちといじりはじめた。
 あたしは頬杖をついて、ほろ苦いチョコレートで舌を癒しながら、店内のざわめきを眺める。弓弦ねえ、とスプーンをくわえて、あたしは部屋での弓弦と紗月くんを思い返す。
 紗月くんと弓弦は男同士なのに、違和感がない。どこで知ったのかは忘れたけれど、あたしも同性愛のことは知っていた。実際に目にしたのは、紗月くんと弓弦が初めてだ。だけど、異性愛しか見たことのなかったあたしにも、ふたりはすとんと入ってきた。
 一見、弓弦が紗月くんを守っているように見えるけれど、実は紗月くんが弓弦を支えている。紗月くんがテーブルでPCをいじっていたりすると、弓弦は甘えるように紗月くんを後ろからぎゅっとして、耳元で何かささやく。紗月くんは言葉によって、失笑したり、はにかんだり、困ったりする。
 でも、どんな言葉でも最後には微笑んで、弓弦の頭を撫でる。弓弦は満足するまで紗月くんの背中に抱きついていて、指先に紗月くんの髪を絡ませる。お互いがお互いを愛おしそうに見つめて、ほんとに愛し合ってるんだなあ、と伝わってくる。
 パパとママには、そういうやりとりはなかった。あの生活で見つかった愛は、拾った絵本の中でだけだ。今ようやく字が読めるようになり、絵本の中で最後に必ず出てきていた一文を、あたしは紗月くんと弓弦に当てはめる。
『そして、ずっと、しあわせにくらしました』
 弓弦はあたしによく思われていないのを察知して、必要以上に干渉しない。だけど、翼を世話役にしたことをお節介だと責めたときには、煙草片手に肩をすくめた。
「だって、お前が来てから、紗月がお前の心配ばっかするんだぜ」
「じゃあ、あたしなんかほっとけばよかったじゃない」
「翼が気にいらねえなら、ほかの奴にするか? 毬音には懐いてたし、女のほうがいいのか」
「そんなんじゃなくて、あたし……」
「安心しろ。いつまでも翼をはべらせておくわけじゃない。お前が成長すれば、ちゃんと放すさ」
 あたしがむくれていると、紗月くんがテーブルに朝食を持ってきた。フレンチトーストだ。バニラの甘い香りが空気に染みこむ。
 あたしがこの料理を気に入ったのを、紗月くんは知ってくれている。「紗月くん」とあたしに服の裾をつかまれると、紗月くんはあやふやに咲った。
「紗月くんも、何か言ってよ」
「ん……僕も、結音についててあげたいけど。大丈夫だよ。弓弦もね、結音が心配なんだ」
「………、別に、翼に監視させなくったって」
「監視じゃなくて子守な」
「弓弦。──翼くんはいい子だから、結音もきっと気にいるよ」
「紗月くんといたいよ」
「それ言っていいのは、俺だけな」
 弓弦は煙草をつぶし、黄色のフレンチトーストにかぶりついた。ふわりとたまごと牛乳が混ざった匂いがただよう。「うまい」と弓弦は紗月くんに微笑んで、紗月くんは嬉しそうに微笑み返す。
 何だか入りこめなくて、あたしは仕方なく銀のフォークをつかみ、フレンチトーストにかかる砂糖の甘さに没頭した。
 この胸のもやもやは、どう言葉にすればいいのだろう。あの部屋に戻りたいわけじゃない。けど、弓弦は好きになれない。紗月くんならいいのに、何でわざわざ翼なのか。弓弦なんかに面倒を見られたくない。
 そう、それが一番近いかもしれない。そうだ。どうして、パパを殺した人に、父親みたいな面をされなくちゃいけないの?
 引き取られて十日ぐらい経った頃だった。夜眠るときは、まだあたしのベッドを買っていないから、紗月くんと一緒に寝室のベッドに入る。
 紗月くんは、あたしが寝つくまで頭を撫でていてくれる。その夜もそうで、あたしは引きずり出されて殴られる不安もなく、紗月くんとひなたの匂いの中で眠ってしまった。
 だから、その話し声も、温かさに埋もれて、おぼろげにしか脳裏に引っかからなかったけど──
「何か、俺の周りってそういうの多いな」
「……弓弦が助けてくれるからだよ」
「………、こいつは、そうは思ってないみたいだけど」
「え、結音?」
「部屋に踏みこんだとき、あいつ、結音の軆に触ろうとしてた」
「え……」
「初めてだったのか、もう何回もあったことなのかは分からない。ただ、あいつは、遅かれ早かれ結音を犯す気だったと思う」
 お……か……す……?
 どういう意味、と思う前に、重たいほどの眠気が打ち寄せてきた。そのまま奪われるように、意識が遠ざかっていく。体温が軆の奥に集まって思考を飲みこむ。それでも、引っかき傷みたいに、妙にその言葉だけ頭に残った。
 おかす。
 だから、翌朝、紗月くんに意味を訊こうと思ったのに、起きたらもう翼が迎えにきていた。
「ねえ、翼」
 翼が“おかす”を分かるかどうか謎だったけれど、別にそれなら帰って紗月くんに訊けばいいと、あたしは翼とつなぐ手を引っ張った。
「んー」
「分からなかったらいいんだけど」
 晴れた空をぼんやり見あげていた翼は、「何だよ」とあたしをじろりとする。
「べ、別に怒らなくていいでしょ」
「怒ってねえよ」
「ちょっと訊こうと思っただけだよ」
「怒ってねえって」
「……昨日の夜ね、たぶん、弓弦と紗月くんが話してたの。そのとき、弓弦が言ってたの。あいつはあたしをおかす気だったって」
「あいつ?」
「パパのこと、だと思う」
「───」
「でね、あたし、“おかす”って分かんないの。翼は知ってる?」
 まっすぐ見上げると、くせ毛の隙間から翼はあたしに横目をくれた。
「……お前、もっと弓弦さんに感謝しろ」
「え」
「俺からは言えない。とにかく、お前は弓弦さんに感謝しろ」
「何それ。分かんないよ。翼は、“おかす”って分かるの」
「ああ」
「じゃあ、意味教え──」
「弓弦さんの判断なしで言えない」
「弓弦なんかどうでもいいでしょ」
「俺にはよくない。それに、俺から知ったらお前もつらい」
 納得できなくてふくれても、翼の硬い無表情は変わらない。
 あたしは、翼とつなぐ手に力をこめる。いつのまにか翼とは手をつなぐのが当たり前になっている。
「パパを殺したんだよ」と絞り出したあたしをちらりとした翼は、とにかく、これしか言ってくれなかった。
「それでも、お前は弓弦さんに感謝しろ」

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