バニラエッセンス-13

愛はなかった

 翌日、翼は任された仕事にまだ追われていて、「助けにいってあげなよ」と紗月くんに言われ、弓弦は仕方なさそうに出かけていった。
 紗月くんに「僕たちはミキさんのところ行こうか」と言われて、あたしはこくんとする。そんなわけで、ちょっとぐずついた色合いも匂いも灰色の天気の中、あたしたちはお昼前に〈POOL〉におもむいた。
 そこでは毬音ちゃんがカウンターでごはんを食べていた。ここしばらく毬音ちゃんと話せていなかったあたしは、思わず紗月くんを見上げる。紗月くんはあたしの心をすぐ察して、笑いを噛みながら「行っておいで」とつないでいた手を放す。
「毬音ちゃんっ」
 あたしが嬉々とカウンターに駆けよると、毬音ちゃんは振り返り、ミートソースが香ばしいパスタを食べる手を止める。
「結音。あ、紗月さん、こんにちは」
「こんにちは。仕事は? シフトの時間じゃないよね」
「ユウが今、この街来てて。さっきまで一緒だったんです」
「そっか。あ、じゃあ、すぐ帰っちゃう?」
「別に。むしろ、中途半端に目が冴えちゃって」
 紗月くんは、スツールによじのぼるあたしを手伝って、少し言いよどんたあと、あたしを向いた。
「結音、よかったら、毬音ちゃんに相手してもらっていいかな」
「え」
「って、その前に毬音ちゃんか。毬音ちゃん、お願いできる?」
「あたしは構いませんけど」
「じゃあ、僕、〔こもりうた〕の印刷に行きたいんだ。結音、ここで待っててくれる?」
「すぐ帰ってくる?」
「依頼だけだから、すぐだよ」
「ん、じゃあ待ってる」
「ありがと。毬音ちゃんも」
「いえ」
 紗月くんは毬音ちゃんに微笑み、あたしの頭を撫でると、〈POOL〉を出ていった。
 今日はみんないそがしいのかな、と脚をぶらぶらさせていると、「何かいるかしら」とミキさんが話しかけてきた。ミキさんとあんまり話したことはないあたしはどきっとして、落ち着かないまま考えて、「冷たいココア」とだけ言った。ミキさんはうなずくと注文を奥に伝えにいく。
 毬音ちゃんはスプーンの上でくるくるとフォークにパスタを巻きつけていて、それを口にふくんで飲みこんだあと、あたしを見た。
「久しぶりだね」
「うん。嬉しい」
「おもしろいことあった?」
「ん、別に……」
 言いかけて口をつぐむと、毬音ちゃんは首をかたむけてアイスティーを飲む。からん、と氷がこころよく響く。
「何かあったの?」
 毬音ちゃんの淡々とした表情を見つめる。スツールの上でもぞもぞしたあと、「昨日ね」と勇気を出して訊いてみることにした。
「芽留さん、って人のおうちに行ったの」
「……ああ。脚本家の人」
「うん。それでね、マリカさんって人がママで、トモキさんって人がパパだったの」
 毬音ちゃんはうなずきながら、またフォークをくるくるさせる。
「で、その、マリカさんも、トモキさんも、芽留さんにすごく優しくてね。もちろん、マリカさんとトモキさんも仲がよくて。あたし、よく分かんなくて」
「分からない」
「だって、パパって子供をたたくんでしょ? ママはあんまり家にいないんでしょ?」
「………、」
「何でああいう、空気、が“家族”なのか、分かんないよ。あんなの家族じゃないよね? 芽留さんちが変わってるんだよね?」
 毬音ちゃんは口に運ぼうとしていたフォークを置き、長い睫毛を伏せて、ふーっと長く細い息をついた。あまり思わしくないため息で不安になっていると、毬音ちゃんは頬杖をついて横目をくれてきた。
「あたしのパパも、あたしを殴るばっかりだった」
 あたしは自分が間違っていなかったことにぱっと顔を明るくさせたけど、毬音ちゃんの表情は今日の天気みたいに灰色だった。
「ママも家に帰ってこないし、たまに帰ってきたらヒステリーで。パパとママは喧嘩するだけだったよ」
「やっぱりそうだよね。あたしんちもそうだった。よかった、やっぱり──」
「ユウといると」
 毬音ちゃんは頬杖をといて、フォークを手にした。
「愛されてなかったんだなって、すごく感じる」
「え……」
「ユウはあたしを愛してくれてる。ユウの愛情を感じるほど、あの家庭になかったものがよく分かる」
 あたしは、パスタを食べはじめた毬音ちゃんの横顔を見つめた。
 そこに、ミキさんがココアを持ってくる。でもあたしはストローを開封すらせず、うつむいて、自分の手がいつのまにか赤いチェックのスカートを握りしめているのに気づく。
 愛されてない。愛されてなかったから、毬音ちゃんはパパに殴られてきた。ママに放っておかれた。愛情がなかったから、喧嘩ばかりだった──
 あれ、とちょっと頭が混乱してくる。ぼろぼろと砕けていくもろい壁のように、意識が錯綜する。
 何。何なの。どういうこと。愛? 愛、なんて……
「ま、毬音ちゃん」
「ん」
「あ、あたし……」
 毬音ちゃんの視線を感じる。でも、顔を上げられない。喉がずきずきして、呼吸が震える。
「分かん、ない、そんなの。愛とか、そんなん、分かんないよ」
「……うん」
「それ、は、パパとママが、あたしの家族じゃなかったから、なの?」
 しばらく、沈黙が流れた。いや、お店の中の雑音はあるのだけど、鼓膜まで届かない。真っ暗闇にぺたんと座りこんでいるような、強烈な孤独感が襲ってきていた。毬音ちゃんは黙ってあたしの頭に手を置くと、ぽんぽんとして、食事に戻った。
 分からなかった。まるで、箱の中身を引っくりかえして、かえって探し物が見つからないみたいだ。その見つからないものは、“愛”という鍵だ。
 ない。どこにもない。あたしのどこにも、そんなものはない。それさえあれば、あたしの頭はこんなにぐちゃぐちゃしていないの? パパからもらったことはない。ママからもらったこともない。じゃあ、あたしが“家族”と思ってきたあのアパートの部屋は──
 どう思えばいいのか分からなかった。ただ、首を絞められて息が苦しかった。
 パパもママも家族じゃない。だったら、あたしは、何を信じればいいのだろう。
 弓弦の手助けが入るとあっさり仕事は片づいたようで、まもなく〈POOL〉に翼がやってきた。まだ紗月くんは帰ってきていない。翼はダウナーをやったみたいに完全に疲れきっていたが、あたしたちのそばに来ると、「ほら」と手をさしだしてきた。「何」と眉を寄せたあたしに、億劫そうに眇目をする。
「紗月さんには、弓弦さんから連絡が行ってる」
「何の」
「お前の世話は、俺がやる」
「……また」
「いつもだろ」
「せっかく、毬音ちゃんが──」
「毬音さん、弓弦さんが『休め』って言ってました」
 翼は毬音ちゃんを向き、毬音ちゃんは息をつくと、食べかけのパスタのフォークを置く。
「ほんと、弓弦って世話焼きだよね」
「毬音さん、今夜もシフト入ってるんですよね」
「……そんなことまで知られてんの」
「弓弦さんは、自分に関係ある人のスケジュールは暗記してますから」
「ストーカーみたい」と口をはさむと、翼はこちらをじろりとして、あたしの手を取った。
 わがままを言いたかったけど、毬音ちゃんの都合もあるし、紗月くんは弓弦に言われたらあたしを翼に任せるだろう。「仕方ないなあ」とか、もやもやをかかえつつも強がってぼやいて、また翼にじろりとされながら、あたしは椅子を降りた。
「ごめんね、結音」
 そう言った毬音ちゃんにはもちろん首を振って、「弓弦に言ってほしいよ」と言っていると、ぐいと翼に手を引かれた。あたしはおとなしくそれについていき、「またね」と声をかけてくれた毬音ちゃんに、「ばいばい」と空いているほうの手を振った。
 翼は乱暴にあたしを〈POOL〉から引きずりだしたわりに、外に出ると、あたしの歩調に合わせた。別に話すことなんてないあたしたちは、ちょっと肌寒い曇り空の下を歩いていく。
 こうして何も考えずに歩いていると、あの不安がじわじわと胸に染みこんできた。パパ。ママ。あたしたちは、いったい何だったのか──。
 あたしの手を包む翼の手を見て、ふと、忘れていたかすかな記憶がよみがえった。
『お前はいい子だから』
 お酒に濁った目と息が近づいた感覚に、あたしは足を止める。
『パパの言うことなら、何でも聞けるよな?』
「……結音?」
『いい子だ。だから──』
 あたしは目を大きく開いた。まるで傷口みたいに、ぱっくりと。
 パパ。そうだ。パパは殴るだけじゃなかった。
 あの日、あのとき、パパはあたしに優しく触れてきた。弓弦さえ来なければ、パパは、あのままあたしを抱きしめて──
「結音っ」
 突然そんな強い声に気づいて、風船がはじけたように我に返った。左手を見上げた。そこには怪訝そうな翼の瞳があった。
 そう、こいつらさえ来なければ──慣れたはずの翼の手に急に嫌悪感が湧いて、さながらぬいぐるみの腕を引きちぎるように、あたしはその手を振りはらった。
「な、何だよ、」
「弓弦のせいだよ!」
「は?」
「弓弦とか、あんたとかのせいだよ!」
「何言って──」
「弓弦があのときパパを殺さなきゃ、パパとあたしは仲良くなってたのに!」
 翼は嫌いな食べ物でも出されたようにうんざりした顔になった。そして、また始まったとでも言いたげに苦々しく吐き捨てる。
「お前、あんなに自分を痣だらけにしてた奴を──」
「パパは優しかった!」
「はあ?」
「パパ、そうだよ、あんたたちが部屋に来たとき、パパはあたしに『いい子だ』って話しかけてきてたもん。優しく触ってきてくれてたもん」
「……それは──」
「うるさい! 全部弓弦のせいだよ! 弓弦が来なきゃ、あたしはパパと、」
 ぱんっと頬が破裂した。いつもされていたみたいに。あたしは顔を上げた。でも、雲の切れ目の逆光の中にいたのは、パパじゃなかった。
「お前、分かってんのか!」
 声を震わす翼は、普段は淡白な目にはっきり怒りを浮かべていた。
「っとに、うざってえガキだな。分かったよ、教えてやるよ、“おかす”の意味。てめえくらいこましゃくれてたら、この言葉知ってるだろ。レイプだよ」
「え……?」
「どうせ、レイプのAVくらい観たことあるだろ。あれだよ。お前は親父に、無理やり股開かせて、ぶちこまれそうになってたんだよ!」
 あたしは白紙になったような目で翼を見つめた。翼はいらついた息を吐き、何とか自分を抑えようとしている。それでも落ち着けないのか、あたしを睨みつけた。
「まだ分かんないのか? お前はなあっ、弓弦さんがあのとき来なかったら、股から血い流してんだ」
「う……嘘」
「嘘じゃない! 優しく触ってきた? ふざけんじゃねえ。そのあと服を破って、お前を素っ裸にして、」
 あたしは錯乱じみて首を左右に振り乱した。力いっぱい翼の軆を押しのけた。
 激しく脈打つ心臓がうるさくて、本当にうるさくて、唇を噛みしめる。踏みとどまった翼は、あたしの腕をつかもうとした。あたしはそれを後退ってすりぬけると、そのまま駆け出していた。
 レイプ?
 ぶちこまれる?
 ばくばくともがく鼓動の中で、女の人の悲鳴がこだました。ビールの缶をつかむパパの太い指がちらつく。やめて、という声が脳内で発狂する。太い指が運んだ、ゆがんだ臭いのビールを飲んだその口元は、確かに笑っていて──
 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。視界をどんどん突っ切りながら、手を握りしめて食いこむ爪に、歯を食い縛る。
 パパはあたしをあんなふうに、めちゃくちゃにしようとしたの?
 やめてって言っても、あたしの服を引き裂いていたの?
 どんな悲痛な悲鳴を上げても、無視してあたしの軆をつんざいて──
 映像を観終わったパパは、飲み終わったビールの缶をつぶして放り投げた。
 同じような空き缶につまずいて、あたしは地面にたたきつけられた。膝がぐちゃっとすりむけたのが分かった。でも、起きあがれなかった。
 そんなことより、呼吸がおかしかった。喉が引き攣って、吸いこむばかりで、吐くことができない。空気が肺に詰まって、息ができなくて、声も出ない。体温が狂って、指先が冷たくなっていく。麻痺が手足に充満して、四肢を失くしたみたいになっていく。
 そして、ドミノ倒しのように、頭の中も暗くなって、意識までも見失って……空き缶みたいに転がったあたしが最後に想ったのは、
 あたしに、愛は来ないの……?

第十四章へ

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