忘れ物
「柊っ」
明日から中間考査に入る十月の下旬、にぎやかな靴箱で上履きの爪先を地面に打ちつけていると、右肩にそんな声がかかった。
朝陽が舞いこむ昇降口に顔を向けると、冬服すがたで挙手をして駆け寄ってきているのは智也だ。同じくすでに冬服の俺は、「おはよ」と自然に笑みを浮かべて応える。
「はよ。ん、今日はラブレターは」
手提げしか持たない俺を、智也は匂いを嗅ぎつけようとする犬みたいにきょろきょろと覗きこむ。
「……ラブレターって。なかったよ。あいつもいそがしいんだろ」
「一年って、この時期に何かあったっけ」
「明日から中間」
「あー」
「『あー』って。のんきだな。俺たち、受験生でもあるんだぜ」
智也は興味なさそうに肩をすくめると、靴箱を開く。
気候はまだ心地よい秋の匂いを立ちこめさせているのだけど、俺も智也もそばに見かける生徒も冬服に染まってきた通り、風の感触はさすがに半袖では涼しすぎるようになっている。
「智也って勉強してる?」
「ぜんぜん」
「高校、行くよな」
「たぶんね」
「そんな適当で受かるのかな」
「受かるとこ受けりゃいいじゃん」
彼らしい理屈で片づけて、智也はスニーカーを上履きに履き替える。
受かるところ。智也は俺より成績が悪いが、何せそれは、試験にまともに取り合っていないだけの印象が濃い。彼の実力が本当のところどれほどか分からなくて、俺も焦ってしまうのだ。
できれば、こいつと同じ高校に進学したい。
「柊は深井と勉強してんだっけ」
あくびまじりの親しくないクラスメイトをよけ、俺たちは廊下を並行しはじめる。夏場は白いシャツが朝陽を反射して余計にまばゆかったが、今騒がしく行き交う生徒たちは、ほとんど冬服で廊下の色合いは落ち着いている。デイパックを肩にかけなおす智也は、渡り廊下にさしかかりながらそう横目をした。
「家だと集中できないしな」
「女とねえ」
「たぶん、お前と勉強した場合のノリと変わんないよ」
「芽さんはどう?」
「相変わらず。もう三ヵ月も経つんだよなあ、とか先週は話したけど」
「両天秤は怨まれるぜー」
ナイフで被害者の頬をぺたぺたと打つ犯人みたいに物笑う智也に、俺は防虫剤の匂いが蒸発しきっていない学生服の中で首をすくめる。
「両天秤ってつもりは、」
「もし二ノ宮とくっついたら、芽さんのことはあきらめたほうがいいかもなー」
「え」
「恋人ができてぱったり行かなくなるのは残酷だと思うかもしれないけど、そんなことはないぜ。相手によっては来られつづけるほうが重荷かも。だって、愛情はほかに向かってんだ。だったら、自分に向けられてるのは同情ってことだろ」
朝の白光に前髪や睫毛を透かし、頬には陰影を作る智也を見る。彼もこちらを向くと、悪戯な瞳をにやりとさせた。
「男に二股かけられたとき、かあさんが愚痴ってた」
「友情じゃ、ダメなのか」
「芽さんに絶対にその気がないなら、それでいいだろうけど。言い切れないだろ」
智也はすれちがいざまの女の子をさりげなくよけて、頭の後ろで手を組む。俺は返す言葉をまとめられなくて、喉元になずませる。まあ、うぬぼれる気はなくも、そうだ。俺は芽さんがどんな気持ちなのか、良くも悪くもいっさい見当がつかない。
「自分はゲイで、お前もゲイ。ゲイ同士が出会えば絶対につきあうって言ってんじゃないぜ、でも、可能性を考えるかもしれないのは確かだろ」
「……うん」
「二ノ宮のことは話してんだよな」
「隠してたほうがよかったかな」
「言っといたほうが、いざってとき行動しやすいだろ」
「………、どっちか決めなきゃいけない気もしてる。どっちか見捨てるってんじゃなくて、どっちを大切にしたいかって」
智也は俺に眇目をくれると、なぜか急に派手に失笑して俺を臆面させた。
「な、何だよ」
「いや、お前ものんきじゃん。どっちかと言えば、受験よりそっちで頭がいっぱいだろ」
からからとして第二棟に踏みこんだ智也に、思わず頬を熱っぽくむくませてすねてしまう。「お前がそういう話に持ってくんだろ」と抗議すると、智也は腕をおろしながら笑いを噛んだ。
「受験のことはさ、俺も多少は考えてるよ。家庭が家庭なんで、私立には行かないようにしようと思ってる。金かかるだろ」
智也は身軽に階段へと折り返し、俺はついまじめな顔になって彼に追いつく。
「公立は、それなりのレベルがないか」
「そうだな。だから実力に逆らわなきゃ」
上履きに目を落とし、「智也はやればできそうな感じがする」とひがみっぽく聞こえないよう気をつけてつぶやく。
「そうか? 数学とか三十二点以上取ったことないぜ」
「やろうって気がなかったからだろ。俺は、今の状態じゃ、やる気出しても不良高校が精一杯だ」
「俺はできるなら不良高校で済ましたいんだよな。高卒って事実があれば、それをどこで取ったかまで気にする職業にはつかないと思うし。悪あがきの気合いで、ノイローゼにはなりたくないよ」
智也を流し見て、いつも自分らしい奴だよなあ、とつくづく思う。受験をいい加減に済ましたいところも、けれどおばさんを想って無理しようかと考えるところも。
踊り場では、いつも通りホコリが積もった窓越しに陽射しが煌めいている。
「俺は、そういうタイプの場所に合わない気がするんだよな。不良ってゲイを嫌悪するし」
「そうか?」
「二年のとき、矢崎って奴がそうだった。ま、優等生すぎるとこに行っても嫌われるんだよな。今のクラスに塚谷っているじゃん」
「あの気取った一匹狼」
「二年のとき、あいつと委員が一緒になってさ。険悪だったよ。俺は普通レベルのとこに行きたい」
「ちぇっ。じゃあ、やっぱ勉強しなきゃいけないな」
さりげなく舌打ちする智也をきょとんと見ると、「だろ」と彼はやんちゃに片目をつぶる。彼の言ってくれているところを飲みこむと、頬を染めて手提げを握りしめた。
「べ、別に智也が俺につきあいたくないなら、」
「んなわけないじゃん。ま、仲良くしてる見本がいたほうが、偏見も少ないだろ」
「でも、……お前は俺の用心棒みたいなのではないし」
「そうだな。でも、友達だ」
俺は智也を見つめ、彼はにっとすると一足先に二階に飛び乗った。
智也はこう言いそうな気がしていた。高校がばらばらになっても、休日に会えばいい。そして、その言葉を言われたとしたら、それは離れてもたやすく関係が壊れないと信頼してくれているということだとも分かっていた。
それでも、問題はそういうことではないとか思いそうで、これまで同じ高校に行きたいとかは言えなかった。分かってくれていたのか。じわじわとほてる感慨に顔を伏せ、彼の隣に追いついて三階へとのぼりはじめる。
「ごめん、甘えてばっかで」
「俺もお前とじゃなきゃ、つまんないもん」
「うん──。あ、そういえば彼女と同じ高校には行かないのか」
「女子校にはIQが五百あっても入れないだろ」
「……そうだな」
「というわけで、さっそくお勉強。今日の数学の宿題を教えてほしいのですが」
つい噴き出し、「また写すだけだろ」とあきれて言いそうになったが、はたと足を止めた。あれ。数学。数学は今日は──
「え、今日って数学あった?」
「ん。昨日先公の都合でトレードしてたじゃん。おかげで社会が二時間目にあったっつうのに、五時間目にもあっただろ。変則すぎ」
生唾を飲みこんで立ち尽くした。言われてみればそうだ。やばい。何だか朝、時間割を見ながら今日は数学はないとか思って取り出した気がする。雨に濡れていく景色のようにさあっと蒼ざめ、慌てて手提げの口を開くと教科書を調べた。
「うわ、数学持ってくるの忘れた」
「じゃ、一緒にそのへんでサボるか」
忘れた弁当に購買で買えばいいというような軽さに、手提げの口を開くまま変な顔をする。智也はその俺の目に笑うと、ちらりと手提げを覗きこんだ。
「ほかのクラスの友達に借りれば」
「……んなのいないよ。ノートもないんだぜ。どうしよう。数学は──霞谷か」
「俺、あいつ嫌い」
確かに好感の持てる教師ではない。霞谷は三十台の女教師で、宿題なんかそもそも出さない教師もいるのに、毎回必ず出しながらも「少ないほうだ」と生徒に感謝を強要する。要は恩着せがましく、おまけに思い通りにいかないとヒステリックになる。
「数学って何時間目だっけ」
「六時間目」
「六時間目なら家に電話して──あ、そうか、家がそんな頼れる雰囲気じゃないんだ」
「頼むことは頼んでみたら」
「嫌な顔されそう」
「すでに嫌な顔されてんだから、度合いなんか気にすんなよ」
かなりあっさり述べて智也は踊り場を通過し、俺は手提げを下ろすと笑いさざめく生徒をよけてそれに続く。
彼の単純論に納得しようとはしてみたものの、やはり、あえて今以上に鬱陶しく思われるのは怖かった。現在、俺はあの家でいやいや飼われている動物並みの立場なのだ。
「俺、どっちみちケータイ持ってないよ」
「十円あれば、公衆電話が使えるぜ。職員室の向かいにあるだろ」
「金なんか持ってきてないよ」
「しょうがないなあ。おにいさんが十円恵んであげましょう。どうせ、霞谷に教科書忘れましたって言うのも気まずいだろ」
まあ、そうか。それで席を立たされるとかされれば、すかさずバカにされるネタになる。周りの人間を中傷するという手が横行しながらも、俺への直接の嫌がらせだって根絶されたわけではない。
三階にたどりつくと、同じ恥なら最小限のほうにさらすことにした。
「分かった。じゃあ、あとで十円貸してくれる?」
智也は俺に横目をくれると、返事の代わりににやりとした。
かくして、一時間目が終わったあと、智也と公衆電話におもむいた。智也も言っていたとおり、グレイの公衆電話は職員室の向かいに設置され、そこは校長室の脇でもある。
靴箱が近くて騒がしいが、まさかボックスではない。誰か使っていたら次の休み時間に繰り越しだったが、ケータイを隠し持ってくる生徒の普及のおかげで、みんな目もくれずに通り過ぎている。
授業のあいだの休み時間は十分間だ。躊躇っているヒマはなく、十円玉を滑りこませると、空で確認したあと番号を押した。
『はい、塩沢です』
聞こえてきたのはもちろんかあさんの声で、そういえば、口をきくのは久しぶりだ。といっても何週間ぶりではないが、やはりその声には妙に緊張してしまう。街中で引っかける女の子を物色する男のように、壁にもたれていた智也は、ボタンを見つめて無言電話をしそうになっている俺の脚を蹴たくった。
「あ、」
『もしもし?』
「あ、あの──」
智也を一瞥すると、彼は顎をしゃくる。
「か、かあさん? 俺。柊だけど」
『え。あ……、柊?』
「う、うん。ごめん。いそがしかった?」
『……どうしたの。学校なんじゃないの』
「学校だよ。その、よければでいいんだけどさ、俺、今日数学の教科書とか家に忘れちゃって。昼までに持ってきてくれないかな」
『数学?』
「うん。つくえの上に置きっぱなしだと思う、ノートもワークも。今日、時間割りが変更になってたの忘れてて」
向こうでは何か音がしているけれど、何の音かははっきり聞き取れない。気まずい固唾を飲みこみ、電話線からしたたるいたたまれない沈黙にみぞおちを圧迫される。しかし、それに捕らわれている時間はない。
「ダメかな。いそがしい?」
『……構わないけど。お昼までに持っていけばいいのね』
「うん。教室まで持ってこなくても、靴箱に入れといてくれればいいよ。三年五組の七番。名前も書いてあるから」
『分かったわ。お洗濯が終わったら、持っていくわね』
「ありがとう。じゃあ」
そしてさいわい、料金切れでぶつっと切れる前に受話器を戻すことができた。冷や汗が報われてほっと息をつく間もなく、これから向こうの三階に戻らなくてはならない。「どうだった?」という質問を、智也は歩き出しながら投げかけてくる。
「持ってきてくれるって。洗濯終わってからって言ってたし、昼休みに見にこればいいよ」
「っそ。しかし、家族と接する君って初めて見たな」
体操服だったり教科書を抱えていたりする生徒とすれちがい、俺たちは明るい渡り廊下に曲がる。
「変だった?」
「すげえ緊張してた」
「………、何か怖いんだ。こないだのとうさんが声かけてきたのも、やっぱ単なる嫌味だったみたいだし」
「でも、高校行かせてくれるんだろ」
「と、思う。あの答え方で怒ったかなあ」
「行かせない、とか、出てけ、とか言われたら、高校より家庭見切るの先に済まして自立したほうがいいかもな。まあ、俺はお前がどんなふうになっても、女とつきあうとかに走らない限り友達やってると思うよ」
にかっとした智也に、毒味が名残る胸に息苦しい俺もわずかに咲う。家族に接して、こんなに疲れる。この気だるい靄は、中傷をすりこまれたときの味にずいぶん似ている。
冷たいアルミニウムの手すりに無意識に手を宛てて階段をのぼりながら、笑いさざめく生徒たちを漠然と見やった。
「普通でいたいっていうなら、まず、あの家をどうにかしなきゃいけないのかもな。けど、どうしたらいいんだろ。香野の家庭訪問とかで、俺を理解する奴もいるってのは知っても何にも変わらない。むしろ、俺のほうが変わるべきだって思ってる」
──昼食時間にまず弁当より靴箱を覗きにいくと、きちんと数学一式が届けてあった。こういうことはまだしてくれるんだ、なんて思ってしまうのが、かえって、あの家で亀裂に喘ぐ自分を自覚させて心が痛む。「昼飯食いながら宿題写させろよ」と智也に腕を引っ張られ、苦笑混じりにその場を離れながら、右手の中の数学の教科書に目を落とした。
分かってくれないのなら、たとえ家族だろうと見限る。そう思っているけれど、ちょっとでもこんなことをされると、期待しそうになる自分が情けない。
本当にダメなのだろうか。頼めばこういうことは助けてくれたとしても、家族は絶望的に俺の敵なのか。
分からない。家族のあらゆる拒絶反応は、俺の心を確かに真空状態に孤立させる。そして、もう俺には、みんなを理解させようとする努力をするための酸素がない。
ダメなんだろうな、と胸苦しさに片腕に数学一式を抱きしめると、智也の隣に並び、それでも自分にはこんな親友がいると心臓をほぐした。
【第百七章へ】
