砂糖づけの人形-1

 前髪を長く下ろして顔を隠しているのは、もう搾取されたくないから。悪意は搾取だ。心をむしりとって、踏み躙って、ぼろぼろにする。
 だから私は、何とか自分を守るために、最初から人を近づけないようにしている。
「おい、結菜ゆうなー、お前まだ前髪切ってねえのかよ」
 それでも、昔の私を知る親とか幼なじみの律樹りつきは、しょっちゅう今の陰気な容姿に、あきれながら文句をつけてくる。
 その朝も、紺のセーラー服で家を出て通学路を歩いていると、突然背中を押された。前のめりになった私の正面にまわりこんで、突き押してきた犯人の学ランの律樹は、そんなことを言う。
 さっぱりした短髪、ころっと大きな瞳が童顔で、でもどんどん背が伸びて筋骨はしっかりしつつある。学年は同じで、この四月に中学三年生になったばかりだ。
 私はうつむいて、「別にいいでしょ」とぼそっと言い返す。
「あ? 何て?」
 わざとなのか、本気なのか。
 私は律樹を追い越して、春の朝陽が踊る海沿いの道を歩いていく。波の音が砂浜に潤って響き、潮の匂いが風に乗って滑る。
「結菜」と律樹は私を追いかけてきて隣に並び、「髪、鬱陶しいぞ」と長い髪を引っ張る。
「……痛い」
「似合ってねえし。かわいくないぞ」
「それでいい」
「何で? 昔は結菜ってそこそこモテてたのにさー」
 私は無言で歩いていく。風が髪を舞い上げようとして、うつむいて顔がさらされるのを避ける。
「結菜ー」とまだ律樹はぶつぶつ言ってきて、うるさいなあと毎朝のことにうんざりしていると、左手の曲がり角から「りっちゃん、結菜」と明るい声がかかった。
「おう、織衣おりえ
「おはよう、りっちゃん。また結菜に文句言ってたの?」
「だって、織衣も、こいつは前髪だけでも切ったほうがいいと思うだろ?」
「結菜がそうしたいならいいじゃない。りっちゃん、結菜の彼氏じゃないでしょ?」
「当たり前」
「あたしの彼氏でしょ」
「そうだよ」
「じゃあ、結菜よりあたしの髪でも褒めてればいいの」
「織衣の髪は柔らかくて好きだよ」
 私は、織衣をちらりと見た。緩いウェーヴの長い髪は、確かに伸ばしているだけの私と違って、綺麗で柔らかそうだ。前髪はヘアピンで上げていて、きらきらした瞳にもにこやかな口元にも、光が当たっている。
 織衣は、律樹と仲良くなるために私とも友達になったくらい、行動的な女の子だ。悪い子じゃない。それでも、律樹と織衣が親しくしゃべっているのを見ると、私の胸はほんの少しざわつく。
 心を閉ざすまでは、律樹を意識していたせいだろうか。もう乱暴につついてくるばかりなので、その気持ちもどうなのかよく分からなくなってしまったけれど。
 どのみち、私なんか障害にもならず、律樹も織衣が気になるようになって、ふたりは中二の夏につきあいはじめた。三年生になってからは、ふたりはクラスも同じだ。それでも、相変わらず律樹は私の容姿にあれこれ言ってきて、たぶん織衣はそれがちょっとだけ気に入らないと感じつつ、私と律樹が幼なじみに過ぎないのも分かっている。
「そういえば結菜、引っ越してくるって親戚はどうなったの?」
 織衣がこちらを向いて訊いてきて、「家にはもう来てる」と私はぼそぼそと答える。
「学校来ないの? 同い年の子なんでしょ」
「……家から出ない」
「引きこもりかよ。ほんとにそんなのいるんだな」
「何か事情あるの?」
「さあ……」
 勝手に話していいのか分からないから、そんなふうにごまかすと、ふたりとも突っ込まずに宿題がどうとかいう話を始める。
 ちらほら、同じ制服の子たちが学校への道に流れてくる。
 私はかばんの持ち手をぎゅっと握り、ほんとに佳月くんどうするんだろ、と考える。
 中学二年生と三年生のあいだの春休み、私の家に同居人が現れた。佳月かづきくんという私と同い年の男の子で、彼は事情を抱えて、都会の街からこの海辺の町にやってきた。詳しいことは知らないけれど、ひどいことをする親から保護されて、私の両親が引き取ることになったとは聞いた。
 笑顔がぜんぜんなくて、でも、壊れそうなほど優美な容姿をしている。本当なら、先週の新学期から同じ中学に通う予定だったのだけど、こんな田舎町に慣れないのか、家から出ようとしない。学校は一応、私が同じクラスにいるのだけど、私がいたってなあと我ながら思う。
 桜がまだ残る学校に到着すると、窓からのまばゆい朝陽の中で、にぎやかに挨拶や笑い声が飛び交っている。靴を上履きに履き替えて、三年生の教室が並ぶ二階の廊下まで、いつも何となく律樹と織衣と一緒だ。
「またね」と声をかけてくる織衣にうなずくと、私は三年一組の教室に踏みこむ。挨拶する相手はいない。自分の席に着いて、教科書をつくえの中に移すと、図書室で借りた本を読んでホームルームを待つ。
 八時半のチャイムと共に、若い男の担任の先生が教室にやってくる。「席つけー」という呼びかけにみんな自分の席に散って、先生は出欠を取ると、今日一日の予定を話しはじめる。
 私は、さっきまで騒がしかった廊下に誰もいなくなっているのを眺める。手短にホームルームが終わると、私は一時間目の国語の教科書をつくえから取り出して、授業までまた本を読もうとした。
 そしたら名前を呼ばれて、視線を向けると担任の先生が手招きしている。私は席を立ち、後ろのドアから廊下に出ると、「何ですか」と先生に歩み寄った。
「いとこのことだけど」
 先生は、教室を欠けている佳月くんのことを始業式からかなり気にしていて、ときおり私に様子を訊いてくる。
「……はとこです」
 ぼそっと訂正すると、先生は一瞬口ごもって、「様子はどうだ?」と問うてくる。
「学校には来そうにないか」
「ごはんとかは、一緒に食べるようになったので、そのうち来るのかもしれないです」
「かもしれない、かあ」
「……あまり、無理させないほうが」
「それは分かってるけどな。ひとり勉強とか遅れるのも心配だからなあ。分からないと、かえって来づらくなるだろ」
「………、本人には伝えておきます」
「そうしてくれると助かるよ。あんまり来ないと家庭訪問になるし、それが逆効果になる前に」
「分かりました」
 先生は私の肩をたたき、「ちょっと前髪切れよ」と出席簿を小脇に抱え直すと、きびすを返して階段へと消えてしまった。前髪、と反芻して、何でみんな同じこと言うんだろと憮然としながら教室の席に戻る。
 ざわめいていた教室は、一時間目が始まって国語の先生が入ってくると静かになった。起立、礼のあと、さっそく授業は昨日の続きに入る。
 家庭訪問が逆効果になる前に。確かに、先生が訪ねてきたりしたら、佳月くんはつらい顔をしそうだ。
 でも、学校に来たほうがいいよ、と私がせっつくのも気が引ける。そもそもほとんど話さないんだよなあ、と息をついていると、クラスメイトの朗読が始まって、教科書のページをめくる。
 その日も平凡に一日が終わり、部活もしていない私は、さっさと学校をあとにした。
 ずいぶん暖かくなった春風とすれちがって、足元を桜の花びらがひるがえっていく。空では束の間の晴れ間が続いている。すぐに春雨が雷も連れてやってきて、桜の花びらをちぎってしまうのだろう。佳月くんは桜見たことあるのかなとぼんやり思い、都会にも桜くらいはあるかと思い直す。
 波が寄せて、潮が香る海岸沿いの道を抜けて、住宅地に入ると自分の家に着いて鍵を取り出す。
 鍵をさす前に、かちゃっと音がした。おかあさん帰ってきてるのかな、とドアノブに手を伸ばしかけると、ドアが引かれた。そうして、隙間から顔を出したのが佳月くんだったから、つい言葉を飲んでしまう。
 長い睫毛。白い肌。紅の唇。瞳の色合いは暗いけど、それでも、すごい美少年だ。
「おかえり」と佳月くんが消え入りそうな声で言ったから、「あ──ただいま」と私は慌てて答える。
「えと、どうかした?」
 私がそう尋ねると、佳月くんは一度まばたきをして首をかたむける。
「あ、部屋にいなくて大丈夫……というか」
 継ぎ足した私に、佳月くんは小さくこくりとする。「そ、そっか」と私はドアをもう少し開くと家に入る。佳月くんはパジャマのまま、どこか眠たそうにしている。私よりずっと華奢で、折れそうな軆だ。
「おかあさんは、まだパートから帰ってない?」
「……うん」
 私は靴を脱ぎながら、もしかして寂しかったのかなと佳月くんを窺う。表情はほとんどないけれど、かたくなに閉ざしている感じもない。
 今なら話せるかもと思った私は、家に上がって佳月くんの隣に並ぶ。身長は変わらない。
「佳月くん、って」
 つぶやくように切り出した私に、佳月くんは気だるい瞳でこちらをちらりとする。
「学校は、やっぱり行きたくない?」
「……え」
「無理しないほうがいいと、私は思うんだけど。担任が家庭訪問するかもとか言ってたから」
「僕、は──」
「うん」
「……行って、いいのかな」
「えっ、まあ、来たいなら来たほうが」
 佳月くんは首を垂らし、服の裾を握る。「一応、」と私は言ってみる。
「私が同じクラスにはいるから」
 佳月くんは私を見て、「そっか」とつぶやいた。「来れるならおいでよ」とぎこちなく言い添えると、佳月くんは小さくうなずいた。
 それでも、あんまり期待していなかったのだけど。翌朝、セーラー服で朝ごはんを食べていると、佳月くんが学ランを着てダイニングに現れたからびっくりした。
「学校行くの?」とキッチンのおかあさんも驚いて、佳月くんはこくんとすると私の隣の椅子に座る。「大丈夫?」と私が心配すると、「家にひとりなのも苦しいから」と佳月くんは小さな声で答えた。やっぱひとりぼっちもきついのか、と思っていると、「結菜、ちゃんと気にかけてあげるんだぞ」とスーツを着て目玉焼きを食べていたおとうさんに言われて、私はうなずいた。
 別に陰湿な教室ではないものの、いきなり来て平気かなと本音では案じてしまったけれど。
「いってきます」
 いつも通り、七時五十分に家を出る。
 ほとばしるような朝陽に佳月くんはまばゆそうにして、私について道路に出る。並んで歩きながら、何か話したほうがいいのかなと思っても、話題が思いつかない。佳月くんもうつむいて、特に何も言わない。
 住宅地の坂道を降りると、海に面した通りに出る。そこで佳月くんが立ち止まったので、私も足を止める。
「海……ここに来て初めて見た」
 佳月くんがそう言って、「ここは海しかないから」と私は潮風になびく髪を抑えて苦笑した。のぼっていく太陽の光が、波間で輝いている。そのきらめきを瞳に映して、佳月くんは「朝は好き」とぽつりと言った。
「え」
「朝は、終わるから」
「……終わる」
「朝になったら、何もなかったみたいに終わる」
 佳月くんの横顔を見た。艶やかな髪や睫毛が、陽射しに透けてきらきらしている。肌もなめらかで、唇の色はいちごみたいだ。
「佳月くんは」と彼が家に来る前に、私は両親に言われた。
「両親にひどいことをされて育ったんだ。だから、むずかしいところもあるかもしれないけど、結菜も一緒に受け入れてやってほしい」
 ひどいこと。それが、朝になればいったん収まったということだろうか。
 もううちに来たんだから、夜も大丈夫だよ。そう言おうとしたときだった。背後にばたばたと駆け足が近づいてきて──
「おい、結菜っ」
 ついで、どんっと背中に体当たりされて私は前のめりになる。この声は、と振り返ると、やっぱり律樹だった。
 佳月くんが驚いてまばたきをしていて、「男と一緒とか」と律樹は笑いかけたけど、佳月くんの綺麗な顔立ちを認めて、声を引っ込める。
「……え、誰?」
 律樹はまじめな顔になって私に訊いてきて、「うちに来た親戚の」と私が眉を顰めてぶつかられたところを抑えて言うと、「ああ!」と律樹は納得を見せる。佳月くんは、ちょっと律樹に怯えている。
「そっか。確かに、お前がこんな陰気に髪伸ばしてなきゃ似てるかもしれん」
「似てないよ、別に……。佳月くん、行こう」
「う、うん」
「えっ、俺のこと紹介しねえの?」
「律樹、がさつだから」
「何だよそれ。えっと、カヅキくん? 俺、結菜の幼なじみの律樹。よろしく」
「……よ、よろしく」
「佳月くん、こいつには無理しなくていいよ」
「んだよ、ほんとにかわいくねえなあ」
 そんなことを言いながらも、律樹は私と佳月くんの歩調と共に歩き出す。先に行って、織衣と登校すればいいのに。そう思っても、それをいちいち言うことはできない。
 佳月くんが少し畏縮していて、「大丈夫だよ」と私は声をかける。
「律樹はクラスも違うし、仲良くしなきゃとか心配しなくていいから」
 佳月くんはあやふやにうなずき、そのまま顔を伏せる。「何だよ、それー」とか言っている律樹は無視し、「ね」と私が言うと、佳月くんはこちらを向いて、それから律樹を見た。
「ゆ、……結菜さん、は、優しいと思う」
 つっかえながらそう言った佳月くんを、律樹はきょとんと見た。私は思わずどきりとして、佳月くんの律樹を見つめる視線にとまどう。律樹はめずらしく言葉につまっていたけど、「君にはそうなのかもな」と言って目をそらすと前方を歩き出した。

第二話へ

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