「休日は病院があるって言ったらどうかな」
「病院」
「みんな、佳月くんがたまに保健室に行ったのするの、軆に病気があるって思ってるから」
「……そっ、か。そうだね」
言い訳が見つかってほっとしたのか、佳月くんの表情がやわらぐ。
「佳月くんに近づきたい女子は、たくさんいるんだろうね」
「えっ、な、何で」
「それは──まあ、綺麗だし」
「綺麗……」
「そのへんの男子とは違うよ」
佳月くんは目線を下げて、「違うかな」とぽつりと言ってからあげをかじる。「悪い意味じゃなくて」と慌てて付け足すと、佳月くんは私を上目で見て、黙ってこくんとした。
そのあと、午後の授業を眠たくなりながら受けて、ホームルームのあと終業になった。
待っているとまた女の子が近づいてくると思ったのか、「結菜」と佳月くんは自分から私の席に歩み寄ってくる。「うん」と私はフックにかけていたかばんを手にして立ち上がりながらも、「ちょっと、帰る前に」と椅子をつくえにしまう。
「織衣に、数学の教科書返してもらわなきゃ」
「律樹くんの、彼女さん?」
「そう。今日、忘れたからって借りに来たままで」
「教室、行ってみる?」
「佳月くんはここで待っててもいいけど」
「ううん。一緒に行く」
「そっか。じゃあ、三組の教室行こうか」
佳月くんはこっくりとして、私たちはつくえの合間を歩いて、ドアに向かった。そして廊下に出て、三組の教室がある奥への歩き出そうとしたとき、「結菜っ」という声がして私は振り返る。
下校する制服の波を縫って、律樹と織衣が駆け寄ってきている。織衣の手には数学の教科書がある。
「どっち行くの? 帰るんじゃないの?」
「帰るから、教科書返してもらおうと」
「ちゃんと返すよ。一組のホームルーム終わるの待ってた」
「なんだ。宿題、紙に書いたので何とかなった?」
「当たらなかったから何とか。帰るんでしょ? 一緒に帰ろ」
「え、あ──いい、かな?」
私は、佳月くんを見た。佳月くんはかすかに瞳を陰らせたけど、小さくうなずく。
表出はかすかでも、けっこう嫌がっているのが何となく分かった。ちなみに、佳月くんと律樹の仲は微妙なままだ。だから嫌なのだと思うけれど。「別に一緒じゃなくてよくね」と律樹も言って、「そういうこと言わない」と織衣にたしなめられている。
四人で一階に降りて、靴箱で靴を履き替えると、気の遠くなりそうな青空の下に出る。植木のつつじがピンクや白に咲いている。桜はすっかり新緑の葉桜で、木漏れ日の影が地面で揺れている。
「もう完全に夏じゃん」と言う律樹に、「夏はこんなもんじゃないってことでしょ」と織衣は返している。実際、頭がぼんやりしそうな暑さだけど、梅雨のあとはもっと日射しが強くなるのか。寒いより暑いほうが嫌だなあとか思いながら、律樹と織衣のあとを佳月くんと並んで歩く。
日の当たる皮膚がほてってくるのを感じていると、「結菜さー」と突然律樹が振り返ってきて、はたと少し顔を上げてしまう。それでも、前髪にさえぎられて目が合うことはないけれど。
「佳月くんとどうなんだよ」
「……は?」
「朝いつも一緒だし。帰りも一緒だし。べったりじゃん」
「それが、何か」
「何かって、俺は応援したらいいのか、そういうつもりじゃないからほっとけばいいのか、分かんねえんだけど」
「……どっちでもほっといていいよ」
「つきあうなら応援するんだぜ」
「別に、律樹に応援されてもされなくても……」
「何だよっ。じゃあ佳月くん、君は結菜とどうなんだよ」
「えっ……」
「結菜とつきあいたいのか? だからべたべたしてんの?」
「ちょっと、律樹──」
「はっきりしねえと、気持ち悪いままだろうがっ」
私は佳月くんを見た。佳月くんはうなだれていたけれど、「そういうのは」とゆっくり吐き出した。
「考えて、ないし」
私は、苦しそうな佳月くんの横顔を見つめる。
「僕は、つきあうとか……無理だから」
私は視線を下げて、そう言われると分かっていたような、そう言われるとは思わなかったような、絡みあったコードみたいなぐちゃぐちゃした気持ちになった。「ふうん」と前を向いた律樹は、「りっちゃん、結菜取られたくないんでしょ」と織衣にふくれっ面で言われて「俺も結菜は無理だわ」と吐き捨てる。
無理。無理、かあ。そうだよね。こんな陰気で、幽霊みたいな女──
「僕……は、」
私は佳月くんを見る。律樹と織衣はもう聞いていなくて、私の耳にしか届いていない。
「結菜を汚したくない……」
佳月くんの唇が、浅い息遣いでわなないているのに気づいた。「大丈夫?」と窺うと、佳月くんも私を見て「ごめんね」と言った。何で謝られるのか分からなかった。それでも、「早く帰ってゆっくりしよう」と私は言った。佳月くんはこくんとして、蒼ざめていく頬を顔を伏せて隠した。
その夜、佳月くんは晩ごはんにすがたを見せなかった。部屋に様子を見に行ったおかあさんによると、ベッドに閉じこもって、この家に来たばかりの頃みたいになってしまっているという。
「学校で何かあったのか?」とおとうさんに訊かれたけど、私は口ごもって何とも言えなかった。クラスの女子に休日を誘われていたこと? そういう女子が絶えないだろうと私が言ったこと? あるいは、律樹に乱暴に私との仲を問いただされたこと?
「あとで私が話しに行っていいかな」と言うと、おとうさんとおかあさんは顔を見合わせ、「結菜には心を開いてるみたいだから」「そうしてくれるなら」と言ってくれた。私は柔らかい匂いのロールキャベツの夕食を早めに食べた。
おかあさんがおにぎりをふたつ作り、二階に上がる私にそれを載せたお皿を持たせる。私はそれを抱えて階段をのぼり、佳月くんの部屋のドアをノックして、返事はなかったけど「入るね」とドアを開けた。
「佳月くん……?」
部屋に電気はついていなくて、カーテンで月明かりも閉ざされていた。でも、ごそっとふとんが動く音はした。
ドアの隙間のほの暗い光に目を凝らしてベッドサイドにたどりつくと、手探りで床に膝をついて座りこむ。おにぎりのお皿を床に置いていると、「結菜……?」とかぼそく名前を呼ばれて、「うん」と私は応じる。
「大丈夫? つらい?」
「……ごめんね」
「ううん。というか、私がごめんね。気に障ることした?」
「結菜のせいじゃ、ないから」
「ほんと?」
「ん……手、つないでいい?」
「あっ、うん」
ふとんから白い手がそっと出てきて、私はその手に手を重ねた。佳月くんは私の手を握って、つながった手を心臓の音にあてた。私の手の甲に、佳月くんの体温が流れこんでくる。
「夢を……」
「うん?」
「夢を、見るんだ」
「夢」
「両親と暮らしてたときのことを」
佳月くんの声が怯えてかすかに揺らめく。つなぐ手に力がこもり、「僕なんか」と佳月くんは絞り出す。
「保護されずに、死ねばよかったんだ」
「えっ」
「生きてたって、自分の汚さが重い……」
「佳月くんは、汚くなんてないよ」
「結菜は、僕のこと知らないから」
「知らないけど、佳月くんが汚れてるなんて思わない」
佳月くんが、私の手をもっときつくつかんだ。爪が食いこんだけど、何も言わずに握り返した。すると急に佳月くんは息を震わせ、嗚咽をこぼしはじめた。
「つらい……」
「うん」
「何で、こんな気持ち……こんな気持ちになりながら、生きていくのが怖い」
「……うん」
「死にたい……死ぬのが鬱陶しいぐらい消えたい……」
「佳月くん……」
「僕なんか、あのとき死んでおけばよかった」
「……あのとき」
「あれで死ねなかったから、病院に運ばれたから、全部ばれてここに来たんだ」
「ばれた、って──」
佳月くんは鼻をすすって、答えずに私の手をすがるように両手でつかむ。あんまり言いたくないなら言わせないほうがいいかと思って、ただ佳月くんがわななきながらしゃくりあげるのを聞いていた。
佳月くんが両親にされていたこと。私は知らない。知らないけど、殴られたりしてたのかなとかぼんやり考えた。でもやっぱり、私は知らない。佳月くんがどうやら自殺を図ったことも、今、何となく知った。それが未遂に終わり、恐らく通報されて、家の中のことが明るみに出た。
私も死にたいと考えたことはある。あの頃。しかし、その勇気がなくて、こんな容姿に逃げることにした。佳月くんは、一度は向こう側に飛び越えようとしたのだ。自分はどうしてもできなかったから、佳月くんはその決断をさせる感情を知っているのだと、恐ろしかった。
私は唇をぎゅっと噛んで、指先に触れる佳月くんの痙攣する息遣いを受け止めていた。ずいぶんそうしていて、不意に佳月くんが「少し」とぽつんとつぶやいた。私ははっとして「うん」と答える。
「少し、外の空気が吸いたい」
「あ……じゃあ、散歩行く?」
「海まで、行ってもいい?」
「おとうさんとおかあさんに訊いてみる。私も一緒にいい?」
「結菜と、行きたい」
「そっか。起きれる?」
「ん……ごめんね、僕、わけが分からないよね」
「いいんだよ。佳月くんが楽になるなら」
佳月くんはゆっくり起き上がり、頭にかぶっていたふとんをおろした。「手、つないだままでいい?」と訊かれて私はうなずく。佳月くんはベッドも降りて、開襟シャツとスラックスの制服のままなのがどうしようかなと思ったものの、何も触れずに部屋を出た。
一階に降りて、ダイニングを覗いておとうさんとおかあさんに海まで散歩に行っていいか尋ねてみた。二十一時をまわった時計を見て、わずかに難色をしめされたものの、「気をつけるんだぞ」とおとうさんが言ってくれたことで、おかあさんもうなずいた。
昼間は夏が訪れたように暑いけど、夜になるとまだ涼しい。風がふわりと流れて、海までの道が住宅街だから、家の明かりが道路にもれて月も輝いている。どこかの家が窓を開けているのか、テレビの音がやけに通って聞こえた。
緩い坂道を下っていくと、潮の香りがただよってきて、満ちた波音が押し寄せてくる。潮が引く昼間より狭い砂浜に出ると、波間が銀色に光って綺麗だった。それを見つめる佳月くんの長い睫毛も、湿り気が残っていて月の光にきらきらしている。
佳月くんは静かにしゃがみこんで、足元の波打ち際に触れた。寄せた波が佳月の右手を包んで、白く泡立って、引いていく。私も佳月くんの隣にしゃがみ、しばらくそれを見ていた。
そうしていると、不意に佳月くんが私を振り向いて口を開いた。
「僕の両親、ぜんぜん働かなくて」
私は、佳月くんを見返した。前髪越しにも、佳月くんが私の瞳を捕らえているのが分かって、少し狼狽える。
「僕が稼いでくるお金が全部だったんだ」
「……佳月くん、働いてたの?」
「うん。何も分からない頃からずっと」
「何も分からない──」
「赤ん坊に興奮する人に、軆を触られてたんだって」
「えっ」
「幼稚園になっても、子供が好きなおじさんと一時間でいくらとかで会って。服を脱がされて、撫でられて、……優しいんだけどね、やっぱり、子供でもおかしいって分かる。気持ち悪いし、怖いし、恥ずかしいし」
私が何も言えずにいると、佳月くんは視線をおろして、すすぐように揺り返す波にさらしている白い手を見つめる。
「小学生になったら、そういう店まであるんだ。そしたら、ただの売り物で、乱暴な人もいた。痛くて泣いたら、客には殴られるし、罰金で店に売り上げを取られる。それで、予約されてたぶんより少ないじゃないかって、親にもぶたれる。そのうち、最初は店で知り合って、親の手引きで店抜きで会って、直接売られるようにもなった。でも、それは店にとってルール違反だったから。結局、僕が罰金を稼ぐために撮影とかに使われて、DVDになったそれを知らない人が買って、僕の住所を突き止めてストーカーになって。学校の帰りとか、抱きついてきたりしてたのが、結局、公園のトイレでされて」
私は佳月くんの横顔を見つめる。何も言わず泣いていたさっきより、思い出して言葉にしている今のほうが苦しいはずなのに、なぜか乾いている。
「中学生になったら、同級生とかがうわさで全部知ってて。『DVD観たぞ』って、『お前は便所なんだろ』って、毎日無理やりされて。誰も止めてくれなくて。息が苦しくて、いつも過呼吸で息切れしてて、それを塞がれて射精されて。死にたかった。死ねば終わるなら早く死にたかった。ずっとこのままなんて耐えられない。生身で軆をすりおろされていくみたいだった。その痛みが心ではもう分からなくて、だから手首を切った。でも、手首も切りすぎて麻痺しちゃって、何が何なのか分からなくて、ベランダから飛び降りた」
だんだん早口に吐き出していたのがそこで止まって、佳月くんは少し咳きこむ。
私は、佳月くんとつながったままの手を強く握った。それに気づいた佳月くんは、急に表情を崩して、「汚いから」とつぶやいて手を引っこめようとした。私はそれに抵抗するように、佳月くんの手を両手で包んだ。
【第四話へ】