砂糖づけの人形-4

「結菜──」
「汚くない」
「でも」
「大丈夫だから」
「汚れてるんだ」
「それでも私は平気」
「結菜のことは、」
「私も汚れてるからいいの」
「えっ」
「そ、そういう──経験は、それは、ないけど。死にたい、って気持ちなら……もう知ってるから」
「………、」
「佳月くんほど強烈に思ったわけでも、ないんだけど。それでも、あんまり生きてて楽しくはないかな」
「け……ど、」
「分かってる。佳月くんほどじゃないっていうのは分かってるよ」
 佳月くんの瞳からぽろぽろと涙が落ちる。頬をすべる雫が瞳孔が痛むくらい光る。佳月くんは強くなっていた呼吸をゆっくり落ち着けて、私の手をぎゅっとつかむと、「僕のほうが、とか」とつぶやく。
「思いたくないのに。僕よりつらい人なんていないとか、やっぱり、思っちゃって」
「思っていいよ」
「汚いから思っちゃうんだ」
「自分のこと考えるのは、汚いことじゃない」
「結菜も、きっとつらくて」
「自分のこと考えていいんだよ。気にしなくていいの」
「僕は──」
「佳月くんは汚れてないし、自分に優しくなっていいんだよ」
 佳月くんの涙が、透明な血のようにどくどくとあふれて、私はつながっている佳月くんの左手を胸に押し当てた。佳月くんは噎せ返しながら泣いて、ただ私の鼓動に触れた。右手は海の波に、左手は私の心臓に置いて、佳月くんは時間をかけて肩の震えを抑えて泣きやんでいった。
「ごめんね」とふと私の胸から手を下ろした佳月くんに、私はかぶりを振る。
「波のそばで話したら、少しは綺麗に話せるかなって」
「……うん」
「ダメだった。ごめんね」
「ううん」
「結菜に、嫌われたくなくて」
「うん」
「でも、話しておきたくて」
「うん」
「どうしようって、いっぱい考えて、それで、おばさんも部屋に来てくれたのに、ふとんから出れなくて」
「おかあさんは気にしてないよ。何か食べてほしいからって、おにぎりは作ってたけど」
「……おにぎり」
「あ、部屋に置いたままだ。あとで、食べたらおかあさんほっとしてくれるよ」
「うん……食べる」
「少し、ここで落ち着いていこうか」
「うん」
「ちゃんとそばにいるから」
 佳月くんは私をじっと見つめて、こくんとすると、波に触れていた手を引き上げてシャツの裾でぬぐった。その細い手首とか、また濡れてしまった睫毛とか、ずきずきする言葉を吐いた唇とかを見て、綺麗だからだよね、と思った。
 精緻な人形みたいに綺麗だから、そこまで大人の欲望に巻きこまれてしまったのだ。砂糖づけにされて、虫がたかったみたいに。佳月くんは汚れてなんてない。汚いのは欲望をぶつけてきた周りの人で、佳月くん自身はこんなにも純粋だ。
「結菜」
「うん?」
「結菜は、綺麗だね」
「えっ」
 思い設けない言葉に私がぽかんとすると、佳月くんはわずかに頬に色を差して海を見やった。
 綺麗。私が。
 ……こんな、陰気にしているのに。「もっとかわいくしないの?」と親も言うくらいなのに。私は──
 何となく、「私はブスだよ」とは言えななかった。佳月くんの言葉だと否定できなかった。だから、小さく「ありがとう」と言うと、佳月くんは私をもう一度見てわずかに微笑んだ。
 そのほのかな微笑を見て、急に頬が熱くなるのを感じた。
 ……あれ。
 え、あれ?
 動揺しながら、私は急速に心に芽生える気持ちに気づいてしまった。そしたら何だか全部恥ずかしいような気がしたけど、それでも手はつないだまま──深く脈打つ胸の音は、はちきれないように抑えこんだ。
「いってきます」
 翌日、もしかして疲れて今日は休むかなと思ったけど、佳月くんは制服すがたで朝食のテーブルに現れた。おとうさんとおかあさんもほっとした様子で、今日は休んでおくかとはあえて訊いていなかった。
 朝の支度を終えると、いつも通り七時五十分に、私は佳月くんとそう言って家を出た。
 今日も快晴で、雲のない青空が広がっている。朝のテレビでは熱中症という言葉が出ていた。海辺沿いの道まで坂道を降りて、まばゆく煌めく海を見やる。
 昨夜、佳月くんの過去をすすいでくれた波が、変わらず潤いを奏でている。塩辛い海風の匂いが流れて、髪とスカートがふわっと揺れる。
「よっ! 結菜っ」
 佳月くんと並んで歩いていたら、駆け足と共にそんな声がして背中をばしっとはたかれた。眉を寄せて振り返ると、やっぱり律樹だった。
「はよっ」
「……おはよう」
「ちっ、今日も陰気くせえなあ。髪切れよ髪ー」
「別にいいでしょ」
「今年の夏もそんなぼさぼさ頭かよ。暑苦しいぜ」
「知らないよ……」
「昔はかわいかったのになあ。佳月くんは知らないだろ、こいつ、昔はけっこう──」
 佳月くんが、私の手をつかんだ。「え、」と私が声をもらし、律樹が話を続ける前に、佳月くんは歩調を速めた。ずんずん進んで、前のめりになりながら私は佳月くんについていく。「何だよ、おーい」と律樹は立ち止まって言っているけど、佳月くんはそれは無視して私を引っ張っていく。
「佳月くん」
「結菜が」
「う、うん」
「結菜が、髪を切りたくないなら、それでいい」
 私は歩きながら佳月くんを見つめて、思わず笑ってしまう。「ありがとう」と言うと、「でも」と佳月くんも私を見る。
「律樹くんが、僕の知らない結菜を知ってるのも悔しい」
 佳月くんの頬に、少し桜が差す。私は咲って、つながった手をきゅっとつかむと、「今度、小学校の卒業アルバム見せようか」と言った。「いいの?」とまばたきされて、「佳月くんなら」と私が答えると、佳月くんも微笑んだ。その笑みにどきっとして、佳月くんが咲ったら私ダメだな、とこちらまで頬を染めてしまう。
 五月末に中間考査があって、六月に入った。梅雨が近づき、続いていた青空も灰色にぐずついて、重そうな雲がうごめくようになった。空気がいっそうむしむしと肌にまとわりつく。
 そんな昼休み、今日はクラスの仲良しの子が休みだとかで、織衣が私とお弁当を食べにきた。佳月くんと食べていた私は、「いい?」と佳月くんに訊く。佳月くんは無言だけどこくんとして、「よしっ」と織衣はそのへんの席の椅子を借りて座ると、つくえにお弁当を広げる。
「律樹とじゃなくていいの?」
「りっちゃんは男子の友達と食べるし」
「ふうん」
「結菜と佳月くんは一緒に食べてるんだね。仲いいなあ」
「ん、まあ、ほかに一緒に食べる人いないし」
「佳月くんは? 男子の友達いないの?」
「えっ、あ……はい」
「男子とも適当につきあっておかないと、イジメられない?」
「……別に、あんまり仲良くしたくないので」
「仲良くしたくない」
「はい……」
 織衣は腑に落ちない感じで首をかしげても、それ以上突っ込まずにたまご焼きを口につめこむ。まあ男にあんなことされてきたんだもんな、と私は秘かに納得する。
「りっちゃんとも仲良くならないよね。めずらしい」
「めずらしい、ですか」
「りっちゃん、人懐っこいし、わりとすぐ人と仲良くなるんだけど」
「……あの人、結菜に乱暴なので」
「幼なじみだから、そんなもんなんでしょ?」
 織衣は私を向き、「そうだけど」と私は口の中のものを飲みこむ。
「佳月くんは、人が人に荒っぽく接してるの見ても、楽しくないんでしょ」
「じゃあ、りっちゃんが結菜に優しかったら仲良かったんだ」
 佳月くんは箸を止め、私を見た。昨日の残りのかぼちゃの煮つけを食べた私は、それを見返す。佳月くんは首をかたむけて、「たぶん」とぼそっと言った。
「そっか。けど、りっちゃんなりに結菜を想ってはいるんだよ? 髪切れっていうのもさ、明るくしてればハブかれたりしないだろって考えてるんだと思うから」
 この中学校で知り合った織衣は、あのイジメのことをもちろん知らない。律樹も別のクラスだったので、原因まで把握していない。佳月くんにも話していないけど、佳月くんには話したいなとは思っている。改まって話そうとすると何だかうまく話せそうになくて、タイミングを待っているところだけど。
 織衣の言葉を聞いた佳月くんは、「僕には」とつぶやく。
「そういうのは分からない、です。嫌な言い方するなら、嫌がらせなんだって、それしか分からない」
 織衣は佳月くんを見つめて、「じゃあ、そのうち分かってやってほしいな」と言った。佳月くんが言葉に詰まって、うつむいていると、「あのー」と不意に眼鏡をかけたクラスメイトの女子が私たちに近づいてきた。
「君に何か来てるんだけど。話したいって」
 彼女は佳月くんにそう言って、ドアのところにいる女子三人をしめした。佳月くんは寄せた眉でとまどいを表し、私を見る。「無理?」と私が察すると、佳月くんは口をつぐんで目線を落とした。けれど、「ちゃんと話してあげなよ」と眼鏡の彼女が言って、佳月くんは気が進まない様子だったものの、椅子を立ち上がった。
「やっぱモテるんだね、佳月くん」
 佳月くんが三人組のところに行ってしまい、眼鏡のクラスメイトも立ち去ると、織衣が興味深そうに言った。私は佳月くんを見守りながら、「あんまり、それ喜んではないけど」とひと口大ちぎったおにぎりを食べる。米粒がほんのり甘い。
 織衣は私を向いて、「結菜は?」と訊いてくる。
「私」
「結菜は佳月くんのこと、何とも想ってないの?」
「えっ」
「ただのいとこ?」
「はとこ、だけど。私は──」
 お弁当に目を落とし、認めていいのか躊躇ってしまう。分かっているけど。気づいているけど。でも誰かにこの気持ちを口をしたら、歯止めが利かなくなって始まってしまう。
 織衣は小さいエビフライをもぐもぐとして、「佳月くんは、結菜のこと好きだよねえ」なんて言う。
「えっ? な、何で。そんなわけないよ」
「いや、明らかでしょ。りっちゃんと仲良くしないのも、要するに嫉妬じゃん」
「嫉妬……」
「あと、結菜をりっちゃんの意地悪からかばいたいんだろうし」
「そう、なの……?」
「鈍感か。まあ、それを恋心と佳月くんが自覚してるかは分かんないけど」
「……はあ」
「佳月くんに想われるのはどう? それは嬉しい?」
「嬉しい、というか」
「というか」
「……佳月くんなら、私じゃなくても」
「佳月くんが心開いてるの、結菜だけじゃん。女子に呼び出されても、むしろ怯えてるよ」
 織衣はドアのほうをかえりみて、私も佳月くんを見た。熱心にあれこれ言われているものの、佳月くんは口を開かず当惑した顔で、ぽんと肩に触れられるとびくっと後退っている。その反応をどっと笑われると、泣きそうな張りつめた瞳になっている。
 心配になっていると、「行ってあげれば?」と織衣はポテトサラダを口に放る。
「佳月くん、自分で拒否できなさそうだし」
 私は織衣を見てから、視線を下げた。女子。複数。囲み。記憶がずきっとして、怖くなった。
 けれど、やっぱり、佳月くんを放っておけない。
 私は深呼吸して席を立つと、搏動をこらえて佳月くんの元に歩み寄った。「今日からうちらと一緒に帰ってほしくて──」という言葉に、「佳月くん」と私は声をかぶせた。佳月くんははっと私を見て、女の子たちは、案の定険悪な顔で私を振り向く。
「結菜──」
「何だよ、お前」
 真ん中の女子がねじりこむように覗きこんできて、私はわずかに肩をこわばらせる。
「こいつ、いつも佳月についてまわってる奴だよ」
「うわっ、根暗臭すごいんですけどー」
「ねえ、こんなのとつるむのもやめたほうがいいよー?」
「似合ってないしね」
「お前も、何勘違いしてつきまとってんだよ。うぜえし」
 頭が、くらくらする。こういうことを避けたくて、いつもひっそりとしてきたのに。何で、こういう女子ってそんな言葉を平然と吐けるのだろう。
 雑巾を顔面にぶつけるみたいに、まだ何か言っている。めまいで分からなくなってくる。ちゃんと、佳月くんを、助けないと──かろうじて思っても、どんどんすくみあがってしまっていると、ぱっと手首をつかまれた。
「君たちのこと、……好きじゃ、ない」
 佳月くんだった。そう言った佳月くんは、女の子たちを押し退けて私を引っ張って、織衣の元に連れていった。クラスが一瞬しんとしてこちらに注目しているのが分かって、頬が真っ赤になるのが分かった。
 織衣はにやにやしてから、「守ったねえ」と佳月くんを揶揄う。佳月くんは私を椅子に座らせて、「大丈夫?」とひざまずいて訊いてきた。私は軆が熱くて瞳が濡れて、ぎこちなくこくりとする。
 佳月くんは微笑み、その笑みに、私はこの男の子が好きなんだと思ってしまう。
 佳月くんは椅子に座ると、箸を取り上げた。
「ねえ、佳月くん」
 織衣にそう言われて、佳月くんはそちらを見る。
「あたしは、佳月くんのこと応援してるからね」
 佳月くんはまばたいて、その意味に気づくとやや狼狽えたものの、小さくうなずいた。私はそれに何も言えず、箸を取るとミニハンバーグに口に含む。織衣はくすくすと咲っていて、お弁当箱を空にすると、「お邪魔しましたっ」と自分の教室に帰っていった。

第五話へ

error: