校門をくぐるときに
「ドア開けたこと、深井たちには黙ってますか」
暖房のきいた部屋を踏み出すと、いっそう廊下の冷えこみが肌に張りついた。振り帰って声をひそめると、ぼさついた前髪から俺を見下ろしていた芽さんは、わずかに眉を寄せて階段を見る。そして、足元に視線を戻すと、ドアノブを握った。
「いいよ、言っても」
「え」
「君は亜里紗と友達だし。嘘をつくのはつらいだろ」
「芽さんが嫌なら、」
「亜里紗と君の関係に、僕は入りこめない」
芽さんはうつむくまま俺を見ない。
「無理しなくても──」
「ただ、そんなふうに僕と君も……関係があってほしい」
顔を上げた芽さんと瞳が出会い、その言葉の意味を解した俺は、口元をやわらげてうなずいた。
「分かりました。芽さんは“俺に”ドアを開けたって言っておきます」
芽さんはやましそうに首を垂れると、「ごめん」と口調を気温差を受けたガラスのように曇らせた。
「君が驕ってるように取られるかもしれないけど」
「いいですよ。というか、深井は分かってくれると思うし」
「……ごめん」
自己嫌悪の煙に澱みかける芽さんに、俺は笑顔を作る。
「俺は嬉しいですよ。芽さんがそうやって、俺に何か言ってくれるの」
芽さんは半開きのカーテンのような前髪の隙間に俺を映す。
「言ってくれたら、分かるし。応えられるし」
俺がにっとして、「ありがとう」と言うと、芽さんも不安を鎮めてぎこちない笑みをほどいてくれた。「じゃあまた」と俺が一歩引くと芽さんはうなずき、いったんこちらを見つめたあと、室内に引っこんで丁寧にドアを閉めた。
低い風音の中、しばらく突っ立って板張りに映った自分の輪郭の影を見つめていた。
話しているあいだは真っ白だった感情が、ようやくじわじわと沸騰のようにこみあげてくる。
やった。ついにこのドアを開けてもらった。芽さんの話を聞いてあげられた──。
いつもは体温が染みついて生暖かい床が、今日は冷たい。本当に部屋の中にいた証拠につい頬をほぐしつつ、俺は肌寒い腕をさすって一階に降りた。
「長かったね」
俺がダイニングに現れると、テーブルで参考書をめくっていた深井は顔を上げた。ここは相変わらず、リビングの暖房が流れこんで暖かい。
「何か飲む?」と訊かれてうなずくと、深井はキッチンからいつもの香りの紅茶と、クリームサンドのビスケットを連れてきた。俺に向かいの席に勧めながら、カップを渡した彼女は、こちらを一瞥してそう言う。
引いた椅子に座ろうとしていた俺は、彼女を見返し、「うん」と熱に浸っていく陶器をうやむやに持ち直す。椅子に腰かけてカップに口をつけると、ほのかな湯気が頬をぼんやり温めた。紅茶のまろやかな砂糖に喉から胃が溶けると、俺はノートと参考書を閉じる深井の華奢な指先を見る。
「あのさ」
「ん」
「報告があるんだけど」
「報告」
「芽さんのことで」
深井はまばたきをした。「え」と声をもらし、少し動揺を見せる彼女に俺ははっきりと伝えた。
「会ったよ」
「え」
「俺、芽さんに会った」
深井は、無造作に自分のカップを引き寄せていた手を止めた。ぽかんとこちらを見つめる。
「会った、って……」
「今日、やっとドアを開けてくれたんだ」
深井はなおも俺を見つめていた。が、停止していた瞳は、音叉が触れた水面のように震えはじめる。
「うそ……」
「嘘じゃないよ。冗談で言うかよ」
「ほんと、に?」
「部屋に入れてもらって、話もしてきた」
茫然とした大きな瞳が、波間のように混乱にわななく。そのとき、何やらカシスの鳴き声がした。それで糸が切れたように、深井は眉をゆがめてとっさに手で顔をおおった。
「深井、」
「ごめ……、ほんとに? おにいちゃんがドアを開けてくれたの?」
「うん。受験でしばらく来れないかもって言ったら、開けてくれた。その……、」
何と、言えばいいのだろう。まず芽さんの何を伝えるべきだろう。深井は唇を噛んで、うつむいて頬に流れた髪と肩を震わせている。数年間のいろんなものがどっとこみあげているのが、空気でひりひり伝わってくる。
「芽さん──元気そうだったよ」
やっと言葉を選ぶと、深井は涙に濡れた目を上げて俺を見た。彼女も何か言おうとしたのだろうけど、言えないまま、ついに泣き出してしまった。俺も、これ以上は何と言ったらいいのか分からなかった。友達として、泣きじゃくるこの子に言葉をかけたかったけど、彼女の降り積もった想いには、とうてい俺は追いつけなかった。
だって、すごく、長かっただろう。ものすごく長いトンネルだっただろう。たった数ヶ月の俺なんか、非ではない。終わらないかもしれなかった後悔の暗闇に、ついに光が射したのだ。芽さんが家族を拒絶した日から、深井はどれほど、この日が来るのをあきらめそうになったか──
「深井、」
「ごめん。何か……すごい、ほっとして。ごめんね、自分が会えたわけでもないのに、こんな」
「いや、いいよ。長かったもんな」
「うん……」
「大丈夫だよ。芽さん、深井たちのこと嫌ったりなんかしてなかった」
「ほんと」
「ああ。ただ、どうやって顔合わせたらいいのか分からないまま、こんなに時間が経っちまったって」
深井は瞳が赤くなるほど泣きながら、「兄貴のバカ」なんて言っている。けれど、ほろほろとあふれる涙は止まらない。それは、深井が今まで背負ってきた呵責の重さなのだろう。
何年も何年も悔やみつづけた。その途方もない日々がやっと報われた。たとえ切っかけが、家族でも何でもない俺であったとしても。
「ありがとう、塩沢」
「いや、俺は話してただけだし」
「塩沢のおかげだよ。ほんとにありがとう。塩沢に頼んでよかった。友達になってよかった」
頬の涙を指ですくう深井を見つめ、よかった、と俺のほうこそ思った。俺なんかでも、役に立てた。いろんな奴に唾棄のように言われてきた。消えちまえ。死んでしまえ。深井は言ってくれた。俺と友達になってよかった。その言葉をもらえただけでも、俺まで泣きそうに嬉しくなる。
そのあとも、芽さんの容姿に昔の面影があったことや、穏やかな口調だったことを語ったりした。白城を想起したことも話し、深井も彼女を見たとき、芽さんをイメージして動揺したことを認めた。「病んだりしてる感じもなかったよ」と伝えるとほっとした深井は、恋愛にはなりそうにないことについては「そうなの?」とちょっと不服そうだった。けれど、「今は芽さんは家族を受け入れたいのが一番なんだよ」と言うと、納得してうなずいていた。
そんなふうに芽さんの話をしていると、あっという間に夕方になった。
「じゃあ、また来てあげてね」
帰り際、涙を止めて笑顔を作った深井は俺を玄関まで見送った。ちなみに、まだやっと俺だけにドアを開けたという芽さんの意向は伝えておいた。
おじさんとおばさんには、深井から話しておいてくれるそうだ。「俺だけごめん」と言ってしまうと、深井は微笑んで、「兄貴が誰かに心開いてくれたんなら、あたしはそれでいいよ」と言ってくれた。
「そのうち、深井たちにも会ってくれると思う」
「うん。だといいな」
「今度は失敗するなよ」
「当たり前じゃん」
いつもの調子で言い返した深井ににっとすると、深井家をあとにした。カシスもしばらく吠えて見送ってくれた。
すでに空には薄い橙々色の雲が流れ、夕暮れが忍び寄っている。道路を歩いていると、どこからか夕飯の匂いもする。吹く風は凍りついて、吐く息はうっすらと白く染まる。けれど、心は達成感で温まっていた。
もちろん、五年間という深井たちの比ではない。しかし、俺にも長かった。何度途中で、引きこもりの人のドアを開かせようなんて、やめてしまったほうがいいかと考えたか分からない。
だが、芽さんはドアを開けてくれた。ずっと心を閉ざしていた人が、俺と話をしてくれた。自分が同性愛者であることで、誰かに必要とされることなんてないと思っていた。でも、芽さんは俺だからドアを開けたと言ってくれた。
深井も喜んでくれた。ようやく、彼女に応えることができた。彼女も、もう俺に期待していなかったかもしれない。でも、俺は何とか深井に希望を与えてあげられた。
深井家はこれからだ。芽さんも家族とまた打ち解けたい意志があるようだったし、きっと前進していけるだろう。あとは俺はそれを見守るだけだ。
空気はひやりとしてもよく晴れた月曜日、挨拶と雑談が騒がしい登校中、智也と落ち合った。俺は智也にも芽さんのことを話した。端々を揶揄いつつも、「すごいじゃん」と手提げを肩に引っかける智也はにやっとしてくれる。
「しかし、もう来ないかもで顔出すって素直だな。寂しかったのかね」
「俺のこと待ってくれるようにはなってたんだよな」
「どうでもよかったら、来ないって言われてもむしろせいせいするからなあ。そこはやっぱ、時間かけたぶんの信頼だよな」
「そ、かな」
「うん」
「時間、かけすぎじゃなかったかな」
「ここは芽さんのペースだろ」
「そっか。そうだな」
俺はうなずき、きらめく朝陽に目を細めながら「何か今でも心臓どきどきするかも」とつぶやく。
「あらあら、恋の予感かしら」
「バカ。そういうんじゃなくて、感慨深いっていうか」
「こもってたのは何年だっけ」
「五年くらいだな」
「五年かあ。長いよなー」
智也が仰ぐ空は穏やかな青で、風は冷たくても陽射しは暖かい。
「信じられないや。結果出るのは、あきらめかけてたしな」
「家族でもできなかったことをやったんだもんな。で、謝礼は出たのか? いくら?」
「何でだよ」と俺は智也を後頭部をはたき、「夜におばさんから電話かかってきたよ」と深井以上に嗚咽をこらえていた電話を思い返す。
「やっぱ、すごく泣いてた」
「そっかー。ふっ、これで深井には貸しができたわけだな」
「そういうもんじゃないだろ」
「ゴリラが襲ってきたとき代わりに戦ってもらえるぜー」
「本人に伝えていい?」
「やめろ」
あきれたため息をつくと、智也はもちろん冗談めいて咲う。
「まっ、芽さんのことはさ、継続は力なりですね」
「うん」
「あ、それで。マジな話、あっちのほうはどうなんだよ」
「え、あっち」
「芽さんと二ノ宮だろうが」
変な顔をして智也を向いた。智也はそんな俺の頬をつねって、にやにやとする。その手をはらうと、「芽さんは」と本人に言われた通り恋愛には発展しそうにないことを伝える。「ほお」と智也は悪戯が楽しくてたまらない子供のように、笑ってこまねく。
「つーことは、年下にいくか」
「あのなあ」
「コンドーム分けてやってもいいぜ」
俺は顔を真っ赤にして、また智也をはたくと、つかつかと制服の群れに進んでいった。「冗談だろー」と智也は生徒を縫って追いかけてくる。校門が見えてきて、今朝も数人の教師が登校生徒たちを見守っている。
そういえば俺は、あんなに忌まわしかった校門を、いつからこうして咲いながら抜けられるようになったのだろう。
【第百十九章へ】
