午後の授業のあいだも、何だか軆がふわふわとほてっていた。ホームルームが終わると、「結菜」と佳月くんが席にやってくる。「あ、うん」と私がうつむくまま立ち上がると、佳月くんは少し考えて、「昼休み、ごめんね」と言った。
「えっ」
「あの人たちに結菜が嫌われるみたいにして、ダメだったよね」
「うっ、ううん。それは平気」
「けど……」
「私こそ、ぜんぜん助けてあげられなくて」
「来てくれただけで嬉しかった」
「そっ、か」
「結菜にあんなの言う人だから、僕も好きじゃないって言えたし。結菜のおかげだよ」
「うん」
「嫌な思いさせてごめんね」
「私は、大丈夫」
私は、フックにかけていたかばんを持つ。佳月くんと共に教室を出て、雨の降りそうな暗い空の下、学校をあとにした。
雨の気配の匂いがただよって、湿った空気が肌に絡みついてくる。目を刺すように緑が鮮やかな葉桜の道を抜け、海沿いを道を歩いていくと下校する制服すがたも減ってくる。
私は隣の佳月くんを見てから、「あのね」と心を決めて口火を切った。
「私ね、小学生のときイジメられてたの」
佳月くんは私を見た。
「クラスで一番えらかった女の子の、好きな男の子の好きな子が、私だったんだ。私はその男の子、何とも想ってなかったけど、それでも女の子にすごく嫉妬されて。いろいろ、あんまり思い出したくないことされた」
「そう、なんだ」
「だから、こんなふうに、髪とかも陰気にしてるの。男の子に好かれたくないし、女の子に嫉妬されたくないし、静かに過ごしてたいし。こうするしか、自分の守り方が分からなくて」
「……うん」
「今日もあの子たちにはっきり言えたらよかったのに、割りこんだだけで、何も言ってあげられなくてごめんね」
「いいよ。怖かったよね」
「うん──。情けないね。小学生のときのことなのに」
「そんなことないよ。傷ついたことは、消えないよ」
「……それでも、佳月くんのこと、ちゃんと守りたかった」
佳月くんは私と手をつないだ。とくんと心が跳ねる。「大丈夫だよ」と佳月くんは言った。
「結菜は、いつも僕のそばにいてくれる。それが嬉しい」
私は佳月くんを見つめた。長い睫毛も、透けるような肌も、華奢な軆も、綺麗だなあ、と思った。何より、とても心優しい。
こんなの、どうしようもない。好きにならないわけがない。ゆっくり、心の中で花が咲いていく。
佳月くんが好き。この男の子と一緒にいたい──
気持ちをはっきり自覚しても、伝える勇気は出なかった。織衣はああ言っていたけれど、佳月くんの気持ちは決めつけられない。私のことは家族として頼りにしているだけかもしれない。
男の子好きになったの初めてだなあ、なんてそわそわしてしても、気取られないように佳月くんの前では平静を装う。それでも、日にちが進むほど、佳月くんの隣にいられるだけで幸せになっていった。
梅雨が始まって、毎日が雨音に包まれた。水に濡れて緑が鮮明になって、生温く土の匂いが立ちこめる。佳月くんは、相変わらず私にしか心を開いていなかったけど、あの日以来、織衣にも気を許したようだった。登校中とか、佳月くんと織衣が話しはじめると、後方でふたりに続く私と律樹は憮然としてしまう。
雨粒が傘を跳ねる中、「何だよあれ」と律樹に言われて、「友達になったんでしょ」と私は返す。「友達って……」と言葉を続けあぐねる律樹に、私だってちょっと不安だよと心で続ける。織衣は明るいし、かわいいし──私と律樹がもやもやしていると、振り返った織衣はそれに気づいて楽しげに笑う。
「思い知ったか。りっちゃんと結菜がしゃべってるあいだは、あたし、そんな気持ち」
う、と私は言葉につまっても、「分からん」と律樹はむすっとしている。織衣は傘を持ち直して律樹に並び、「りっちゃんはにぶいねえ」と肩をすくめる。「結菜」と私は佳月くんに呼ばれてそちらを向き、その隣に並ぶ。
「織衣とは話せるんだね」
私がそう言うと、「結菜の友達だから」と佳月くんは答える。「そっか」と私はうなずくけど、複雑な心の中に口ごもってしまう。
佳月くんは雨越しに私を見つめて、「結菜が嫌だったら、」と言いかけたので私は慌てて首を横に振る。
「違うの、嫌とかじゃなくて。何か……織衣はかわいいから。佳月くんも、私より織衣のほうがいいのかなとか」
何言ってるの、と恥ずかしくなってうつむくと、佳月くんはきゅっと傘の柄を握って、「織衣さんは」と雨音にかすれそうな声で言う。
「僕が結菜の隣にいたいのを、分かってくれるから」
「えっ」
「結菜と仲良くなりたいのを、話せる……というか」
「……仲良く」
「鬱陶しいかもしれないけど、僕には結菜しかいないから」
「佳月くん……」
「結菜に嫌われたりしたら、どうしたらいいか分からないし」
「嫌いになんて、ならないよ」
「でも……」
「私は佳月くんの味方だから」
佳月くんは私を見つめて、ほのかに咲うと「ありがとう」と言った。
佳月くんが咲うのは私だけだなあ、なんて思って、ついそれでほっとしてしまう。恋愛感情絡むって何か醜いな、と反省しつつも、やっぱり佳月くんが私にだけ笑顔を見せてくれるのは嬉しかった。
七月に入って、期末考査が終わると、梅雨の終わりと入れ替わりに蝉が鳴きはじめた。
狂ったような猛暑で気温が一気に高まって、外を歩くだけで皮膚を圧するような熱気で汗を絞り取られるようになる。水筒がまどろっこしくて、みんな凍らせたペットボトルを持ってきて水分を補給する。青空では太陽がぎらぎら白光して、地面を火傷しそうなほど焼きつける。
やがて夏休みが始まって、潮風が気持ちいい砂浜でも人が海水浴をするようになった。
佳月くんはこの町に来て、ほとんど私と一緒に行動していたけれど、それでは頼りないと思いはじめたらしい。私は別にそれを気にしなかったものの、どのみち、いつかは佳月くんがひとりでも動けるようになる応援はしなくてはならない。佳月くんは、ひとりで昼間の海まで散歩に行ける練習を始めた。
それだけでも、佳月くんにはかなり負担があるようだった。背後を誰か通ったり、急に音がしたり、ましてや突然話しかけられたりしたら、パニックに近くなってしまう。海に行って戻ってくるまで十五分くらいだから、時間を過ぎたら私は様子を見に行った。
たいてい佳月くんはゆっくり帰ってきているところだったけど、たまに道の隅でうずくまって耳を塞いだりしているときがあった。そういうときはまず手をつないで、涼しい家の中に戻り、リビングで佳月くんの震えが落ち着くのを見守る。「ごめんね」とかぼそく言われると、私はかぶりを振り、「明日の散歩は一緒に行こう」と約束する。佳月くんは私の手を握りなおし、「うん」と静かに深呼吸した。
八月に入って数日が過ぎたある日の夕方、私は夕食を作るおかあさんに買い物を頼まれた。クリームシチューを作っていたら、牛乳がなくなってしまったらしい。佳月くんに「行ってくるね」と声をかけると、家で待つよりついていきたいと言われた。午前中に散歩には行っていたから、「大丈夫?」と玄関で訊くと、「行ったことない道も知りたい」と佳月くんはスニーカーを履いた。
私たちは一緒に家を出ると、学校と同じ並びで、通学路の先にあるスーパーに向かった。海で遊んだ人たちがちらほら帰途についている。
時刻は十八時になる頃だけど、まだ空は明るかった。
スーパーに着くと、「牛乳買ってくるだけだから」とセールも始まって人があふれる売り場にも連れていくより、佳月くんには入口で待っていてもらうことにした。冷房のきいた店内には入っておき、「すぐ買ってくるね」と言い置いて私は乳製品売り場に急ぐ。いつものメーカーの牛乳パックをつかむと、やや混んでいたレジを抜けて、五分くらいで入口に戻った。
だけど、そこに佳月くんのすがたがなくなっていたので、「あれ」ときょろきょろしてしまう。
「佳月くん?」
返事はない。もしかして冷房寒くて外に出たかな、と実際強すぎるクーラーに思ったので外に出てみた。でも、ガチャガチャの前で小学生の男の子が汗を流しながら溜まっているくらいで、佳月くんはいない。
胸の中が、黒くざわめいてくる。どうしたのだろう。トイレ、と思ったものの、位置を知らないと思うし、すぐ戻る私に断らずに行くかな。でも、それぐらいしか思い当たらない。見に行くか、と店内に引き返そうとしたとき、「おいっ」と背後に声がかかった。
ぱっと振り返ったけど、そこにいたのは自転車にまたがった律樹だった。何だ、とがっくり肩を落とすと、「何だよ」と言いながら律樹は自転車を降りる。
「佳月くんは、一緒じゃねえの」
言いながら、律樹は前かごに入れていたペットボトルのお茶を手に取る。
「一緒、なんだけど。買い物してるあいだに、いなくなっちゃって」
「ガキかよ」
私はむっと口ごもって、「……探さなきゃいけないから」ときびすを返そうとした。
「はぐれたなら、ここで待ってたほうが早いだろ」
お茶を飲む律樹に、私は「そうじゃなくて」と説明する。
「佳月くん、ここで待ってたはずなの。それがいなくなってて」
「………、どこ探すんだよ」
「とりあえず、トイレ行ってみる」
「お前、男子便所入れねえだろ」
「……声だけでもかけたら、」
律樹は腰で支えていた自転車を立てて、「しゃあねえなあ」とか言いながら、私の脇をすりぬけた。「律樹」と私が追いかけると、「男子便所だけは代わりに見てやるよ」と律樹は自動ドアを抜けた。
思いがけなくて、ありがとう、とも言い損ねていると、入って右手の廊下にあるトイレの前で律樹は立ち止まった。そこには『清掃中』の看板が置かれていた。何だ、と私はがっかりしてしまったものの、律樹は私にペットボトルを押しつけて、看板を退かしはじめる。
「ちょっと、律樹──」
「俺、見たんだわ」
「え?」
「佳月くんが、そこで誰かに話しかけられてるの」
「えっ」
「どうせ、お前がすぐ来て追いはらうだろと思って通り過ぎたけど、気になって戻ってきた」
「へ、変な人だったの? どんな人? 男の人?」
「分かんねえよ、チャリで通り過ぎながら一瞬見ただけ──」
男子トイレの中から、ごとっとこもった音が響いた。「律樹」と私が泣きそうな声を出すと、「やばかったら大人呼んでこいよ」と看板を押しやった律樹は、男子トイレの中に入っていった。
「おーい、いるかー?」
律樹の声がして、一瞬、沈黙が流れた。ついで、激しくどんどんとドアをたたく音が響いた。え、ととまどっていると、「そこか」「開けろ」と律樹の声が鋭く続く。何やら騒がしい音がして、大人の人呼んでこなきゃ、と思うのに、バカみたいに足がすくむ。
そのとき、「トイレ清掃中?」と後ろで声がした。私ははっと振り返り、引き返そうとしている主婦っぽい女の人ふたりに、「助けて!」と急いで叫んだ。
「と、友達がっ、何か、トイレの中で、」
うまく言葉にできない自分がもどかしくて、でも涙が出てきてしまって、それでその人たちも異変を察してくれた。「どうしたの!?」とひとりが駆け寄ってきて、もうひとりは「誰か呼んでくる!」と店内に駆け出していく。
がたんっという音に次いで、トイレの中で「待てっ」と律樹の叫び声がした。慌てた足音と共に、意外と若い大学生くらいの男の人が出てきた。私たちが悲鳴を上げたことにその人は一瞬すくみ、その一瞬のうちに、スーパー店内から男の人も含めた大人が駆けこんできた。
男の人がおじさんふたりに抑えこまれたとき、トイレから佳月くんの肩を担いで、律樹が現れた。佳月くんは真っ青になって呼吸を引き攣らせ、足元をわななかせていた。主婦の人に肩を抱かれて泣いている私を見つけると、「結菜」と凍えているような声をこぼす。
私は佳月くんに駆け寄って、その軆にぎゅっと抱きつき、佳月くんも涙を落としながら私を抱きしめる。
「佳月くん、ごめんね、私が離れたから。変なことされた? 大丈夫?」
「大丈……夫。僕も、突き飛ばせなくて、」
「私のせいだ。ごめん。ほんとにごめんね」
「結菜、のせいじゃ、な……」
「佳月くんのこと、ちゃんと話してもらってたのに、」
「結菜……泣かないで」
「私、ほんとに……何て謝れば、」
佳月くんは私の頭を撫でて、それから「律樹くん、ありがとう」と言った。その言葉に私もはたと気づいて、律樹のほうを向く。律樹は仏頂面だったものの、私が「ありがとう、律樹」と言うとふうっと息をついた。
「俺は事情知らねえけど、とりあえずお前らは、まだしばらくくっついて過ごせ」
「……うん」
「俺はもう知らねえぞっ。結菜のことは佳月くんに任せるし、佳月くんのことは結菜が守れ」
「律樹……」
「で、今度から佳月くんが言ってやれよな、なんだ……その、髪は切れと!」
照れ隠しのように言った律樹は、私が牛乳と共に取り落としていたペットボトルを拾い、その場の騒ぎが大きくなる前に立ち去ってしまった。
【第六話へ】