「すげー考えたけど、分かんねえから訊いていい?」
大学二年生の夏休みが、ほとんど終わりかけた八月末。いつも通り、聖輝とは遠くないけど来たこともない町を訪れ、そこに名残る自然を楽しむ。
街路樹を追いかけ、公園を散策し、水の音に気づいて今日は湖を見つけた。湖沿いをゆっくり歩き、水鳥が飛び立つのを見上げたり、すれちがう老夫婦と会釈しあったりする。日射しはまだまだ夏で素肌を焼いてくるけれど、葉擦れの音と共に風は流れている。
私がその緑の匂いになびいた髪を指先で梳いていると、隣を歩く聖輝が、突然そんなことを言ってきた。
「何?」
私が首をかしげると、聖輝はふーっと息を吐いた。
「世の中の男が、こういうとき、どうやってるのか俺は分からん」
「……はあ」
「ほんとはすっと用意して、渡したいんだけど──」
聖輝は立ち止まって、私を見つめる。私も足を止め、聖輝を見上げる。
魚でも跳ねたのか、水際でぱちゃんと音がした。
「澄澪」
「はい」
「……かっこ悪いことを言うぞ」
「うん」
「その……ゆ、指輪のサイズを教えてくださいっ」
私は、きょとんと聖輝を見た。聖輝は言ったそばから、耐えがたいようにうめいて、天を仰いでいる。
「え、と……」
指輪のサイズ。分かんないな。測ったことがない。
というか、そんなことで聖輝はどうして羞恥心をたぎらせているのだろう。
「分からない……から」
「分からない!?」
「いや、指輪つけたことないし」
「つけてるの見たことない」
「うん。どうやって測るのかな。まあ、調べておくね」
「……左薬指だぞ」
聖輝がぼそっとつけたし、「え」と私はまばたきをした。
左薬指。左薬指っていうと──
「えっ、それは、」
「来月、お前二十歳の誕生日だしっ。つきあって七年だし、それに、あれからも──七年だ」
「……七年」
「七年だよ」
「………、あおこは、元気?」
「おう」
「そっか、七年か」
風がすりぬけて、また髪が空中をすべる。
七年も、経ったのか。あの不思議な残暑の夜から。
「おばあちゃん、幸せにしてるかな」
「そりゃあ、してるだろ」
聖輝の即答に私は微笑み、きっと彼は、青い宝石の指輪を用意してくれるのだろうと思った。
「サイズ調べておくね」と約束すると、「世の彼氏は、どうやって彼女の指輪サイズを知るんだろうな」と聖輝は心底の疑問のように言う。それは私も分からないけど、だから私に訊いてしまうのは聖輝らしいなと思う。
ちょっとかっこ悪くてもまっすぐで、あの頃から、そういうところが変わってない。
あれから七年。七年前にもらった贈り物は、今でも私の大切な毎日を支えている。
それまで私は、ひとりで、そのことに疑問もなくて、この先ずっとそうなんだろうと思っていた。今、当たり前のように隣にいる聖輝の視線にさえ、気づいていなくて──あの青い輝きだけ眺めて、乾燥した日々に退屈していた。
◆
夢を見ながら、いつのまにかこれは夢だなあと気づいて、それから目が覚める。
カーテンは朝陽を受け止めきれずにうっすら光り、部屋の中は光景が見取れるくらいに明るい。天井をぼんやり見つめて、朝か、と思ったところから私の一日は始まる。
九月に入って数日、夏休みは終わって二学期が始まった。べつだん嫌でもなければ、嬉しいわけでもない。面倒ではあるけれど、だからって、学校に行かずにやりたいこともない。
ベッドから身を起こすと、寝ているあいだは両肩にまとめる長い髪を背中にやり、両脚を床に下ろす。まだ毎日寝苦しい暑さで、クーラーをかけて寝るから、軆がちょっとだるい。
眠気がまとわりついて頭は働いていなくても、その状態で部屋を出て階段を降りていくことは、この家に住んで長いからできる。洗面所にまず顔を洗いにいって、目が覚めると、キッチンに通じるダイニングに向かう。
「おはよう、澄澪」
おとうさんとおかあさんは、すでに朝食も済まし、せわしなく出勤の支度をしている。そんなふたりと特に目も合わせることもなく、「おはよう」という言葉だけ返して、私はテーブルに用意された朝食の前に座る。
窓のレースカーテンは燦々と日射しを通し、一瞬、めまいがしそうなほどテーブルはまばゆい。今朝も朝食のメニューは同じだ。トースト、目玉焼き、ベーコン、ヨーグルトのかかった果物。
昔はおかあさん、オムライスとか作ってくれたのになあ。そんなことを考え、すぐに打ち消すと、トーストにマーガリンをがりがり塗る。
「澄澪、今日も帰ってきてからでいいから洗い物しておいて」
おかあさんが声をかけてきて、私がうなずくと、それだけ言いたかったかのように両親はさっさと仕事に行ってしまう。
ばたん、とドアの閉まる音のあと、すぐに車のエンジン音が聞こえる。おとうさんは車出勤だし、おかあさんはそのついでに駅まで送ってもらう。
時計を見ると、まだ七時を少しまわったくらいだ。でも、郊外のこの町から職場まで、おとうさんは渋滞も考えたら出ておかないと間に合わないし、おかあさんも電車一本の通勤ではないから同じく間に合わない。そして、帰りはふたりともずいぶん遅いことが多い。
ひとりで、もそもそと朝食を食べる。それでも、春までは私にも感情や表情があった。確かに両親は私を放置気味でも、ひとりぼっちではなかったから。母方のおばあちゃんがこの家に暮らしていて、朝食も一緒に食べてくれていた。
小学校を卒業して、セーラー服が届くまでのほんのわずかな期間に、おばあちゃんは持病を悪化させて亡くなった。
ちょっと具合が悪いから、病院に行くね。少し苦しそうな笑顔でそう言ったまま、入院して数日経った夜、危篤だと連絡が入った。おかあさんは職場から直接病院に駆けつけ、おとうさんは家までいったん私を迎えに来た。けれど、ぎりぎりおかあさんが看取れただけで、私とおとうさんはその死に間に合わなかった。
おばあちゃんのお葬式で、私はわざとらしいほど泣いてしまって、感情の切り替えがうまくいっていないまま中学の入学式を迎えた。気を抜くと、すぐに泣いてしまいそうだった。必死に感情も表情もこらえて過ごした。そしたら、いつのまにか無表情とか機械とか言われて、仲間外れにされていた。
おばあちゃんが今の私の状態を知ったら、きっとすごく心配するのは分かっている。なのに、私は友達を作る気力をそのまま失ってしまった。
私の口数が減っても、両親は何も声をかけてこない。誰からも関心を寄せられていないことが、きりきり胃を絞る。かすかに眉を顰めるのが、癖になってしまった。
朝食を食べ終わると、食器はシンクの水に浸けておいて、歯磨きして髪をとき、自分の部屋に戻る。カーテンを開け、夏服の白と紺のセーラー服に着替える。昨夜、寝る前にも確認した時間割をチェックして、宿題も確認する。授業のために持ってこいと言われていたものも特にないけど、体育の授業があるから体操服は持っていかなきゃ。
身支度が整った七時五十分頃、電気やエアコンを全部消して、私も家を出る。玄関に鍵をかけ、徒歩二十分かけて登校する。
すでに空気に熱がある通学路では、同じく学校に向かう制服すがたの人が、学校に近づくほど増えていく。笑ったり、騒いだり、あくびをしたり、朝陽の中にふさわしく、みんなきらきらしている。
もともと私は活発なほうではなかったけれど、暗いというわけではなかった。なのに、すっかり感情の表し方が分からなくなってしまった。あんなに我慢していた泣くことさえ、うまくできなくなって、涙が出るという感覚がつかめない。
何だかすごく、毎日がぱさぱさに乾いているように思えた。
学校に到着して、教室に入るときもおはようは言わない。いまさら言っても、誰も返さないだろう。
「うちの猫がかわいくてさー」とか「宿題うつさせてー!」とか、たわいない会話がざわめいている。それに混じることもなく、席に着くと荷物をフックにかけて、居眠りするみたいにつくえに伏せる。
ホームルームまでそのまま。もはや、それをつらいとも感じなくなり、当たり前になってしまった私は、このままずっと友達ができないのかもしれない。
淡々とした目つきのまま、今日も六時間授業を受けて一日が終わった。汗ばんだ軆をわずらわしく感じながら帰宅しても、相変わらず誰もいない。
私服に着替えて、おかあさんに言われていた通り食器を洗うと、億劫なことはさっさと済まそうと宿題も片づける。夕方になって日がかたむいても、まだ空気は蒸し暑いから、ベッドに横たわって、ただクーラーに当たる。
毎日が空白だ。何もせず、楽しいと思うこともなく、空っぽに過ぎていく。ずうっと、私の人生がこんなふうなら。そう考えると、じわりとした恐怖の中で、逃げ出したいと思う。
でも、逃げるってどこからどこへ? 私の人生はどこに行ったって私の人生だ。
ふと腹這いになった私は、ベッドスタンドに手を伸ばして、そこに置いている小さな箱を手に取った。陶器製で、花模様があしらわれた箱だ。
蓋を爪を引っかけて開くと、中には青い宝石がはまった銀の指輪がある。そっと手のひらに転がすと、夕射しにきらりと青い宝石が光った。
おばあちゃんにもらった指輪だ。小学四年生のとき、私が勝手におばあちゃんの鏡台から見つけると、「ああ、ここにあったのね」とおばあちゃんは目を細めて微笑んだ。
「おじいちゃんにもらったの?」
私が幼い頃に亡くなって、よく知らないおじいちゃんの話が聞けるかとわくわくすると、おばあちゃんは私から指輪を受け取って、「……懐かしいわねえ」とつぶやいた。
「ねえ、澄澪。この話はおかあさんには内緒よ」
「え、うん」
「この指輪はね、おばあちゃんが、昔、大好きだった人にもらったの」
「やっぱり、おじいちゃんだ」
「ふふ、その人と結婚できていたら、おかあさんにも澄澪にも出逢えていなかったのかしら」
私がきょとんとまばたきをすると、「この指輪をくれた人とは、結婚できなかったの」とおばあちゃんは噛みしめるように言った。
「えっ、じゃあ──」
「病気で早くに亡くなってしまったの。そのことで落ちこんでいたおばあちゃんを気にかけてくれたのが、おじいちゃんだったのよ」
「そう……なの?」
「だから、もちろんおじいちゃんのことは愛していたし、おかあさんのことも澄澪のことも大好きよ。だけど、この指輪の人は──そうね、おばあちゃんの青春よ」
「……その人と結婚したかった?」
「できていたら、どうなっていたのかしらね。もう想像もつかないわね」
そう言って、おばあちゃんは私の頭を撫でた。そして私に指輪を握らせると、「おかあさんに見つかる前に、澄澪に渡しておくわね」と言った。
「澄澪もいつか好きな人ができれば、おばあちゃんの気持ちが分かるわ」
好きな人。
ごろんとベッドに仰向けになった私は、射しこむ夕陽にきらめく指輪を見つめ、そんな人できるか分からないと思った。友達さえ作れなくなってしまったのに。恋愛なんて、私にできる日が来るのかな。
だいぶ陽が落ちるのが早くなった。部屋もすぐ暗くなって、私は指輪を箱にしまうと、お腹が空くまでベッドで意識を揺蕩わせていた。
空腹の時間になっても、おとうさんもおかあさんもたいてい帰ってこない。そういうときは、ダイニングの食器棚の引き出しにあるお金で、コンビニのお弁当を買っていいことになっている。もちろん、スーパーの食材を買って料理してもいいのだけど、いつも面倒でコンビニのお弁当にしてしまう。
その日も近くのコンビニでお弁当を買って、ひとりで食べた。お金を使った証拠として、レシートを冷蔵庫に貼り出すと、時刻は二十時が近づいていた。
今日は何もやることがないし、お風呂の前に、いつも通り散歩に行こうかな。そう思って、防犯ブザーを持つと、私はしばし夜の空気を吸いに外に出かける。
夕方は気持ちがひどく濁って憂鬱になるけれど、すっかり闇に包まれて夜になると、やっと喉が通って呼吸が楽になる。窓を開けて感じる夜の匂いが心地よくて、夏休みから、たまに夜の散歩に出るようになった。危ないのは分かっているから、そんなに時間をかけて歩くわけではないけれど、近場の公園まで行って深呼吸をしたら、道を引き返す。
晴れた夜の空には、月も星も明るく輝き、夜風はほんのり涼しさを持って肌を撫でていく。住宅街だから静かだし、昼間は息苦しいような空気が、夜はなぜか胸に透き通った。
どこまでも真っ暗な空を見上げていると、たぶん宇宙から見たら、私も私の悩みもちっぽけだなあなんて感じる。その宇宙の向こう側にはおばあちゃんもいるはずで、今夜だけでも乗り越えようと思える。明日は分からないけど、今日はまだ頑張って生きようと。
その日も公園まで行って、星月夜を見上げて軆の中を入れ替えるみたいに深呼吸していた。もやもやしていた心臓から、泡みたいに霧がすべりおちていく。
胸をさすってその感覚を確かめ、今日はもう大丈夫だ、と家へと引き返そうとしたときだった。
【第二話へ】