アイオライトの夜-2

「あれ、木淵きぶちじゃん」
 そんな声が背後に聞こえて、私はびくりと振り返った。そこには、見憶えがあるような、ぜんぜん知らないような、かなり印象が曖昧な男の子がいた。
「何してんの? てか、猫見なかった?」
「は……?」
「猫だよ。黒猫」
「……見てない、けど」
「そっかー。やっぱ暗いから見つけるの無理かなあ」
 やけに馴れ馴れしく話しかけてくるけれど、この人、誰?
 黒目がちの瞳にきりっと太い眉、日焼けした肌、まだごつごつしていない軆に私と変わらないぐらいの身長。怪訝に突っ立っていると、同い年くらいのその男の子は、公園の植え込みの中を覗きはじめる。
「探してんだけどさー」
「はっ?」
「いや、猫をさ。学校終わってから、ずっと探してんの」
「学校……」
 男の子は私を振り向いてきた。眉を寄せて警戒している私に、「えっ」と彼は初めてびっくりした表情を浮かべた。
「もしかして、俺のこと知らない、とかない……よな?」
「え、……と、知らないです」
「待てよ! 同じクラスだろうが。園村そのむらだよ」
 私がクラスメイト、まして男子を把握しているわけがない。というのは、彼には心外だったようだ。
 でも、見憶えがあるような気がするってことは確かにクラスメイトで、なのにぜんぜん見知らぬ人に見えるのは──私服のせいだろうか。
「え、ちょ……マジで、じゃあ今憶えて? 園村聖輝な?」
「……はあ」
「マジで憶えろよ? あー、っていうか……やっぱいねえなあ。どこ行ったんだろ」
「猫……」
「うん、うちの猫を探してんの。家猫なのに、いつのまにかするっとどっか行っちゃったみたいでさ。朝はいたんだけどなー」
 うっすらした記憶の中に、うちの猫がどうとか話をしているクラスメイトの会話もあったような気がする。だとしたら、本当にこの人は同じクラスなのか。
 ざわっと葉擦れが聞こえて、私はその音のしたほうを向いた。この公園の裏手はまだ開拓されていなくて、森になっている。いつか住宅地を広げるとき、拓かれてしまう森なのだろうけど、今のところけっこう鬱蒼としていて不気味だ。
「まさか、あの森で迷子になってねーよなあ……」
 私の視線の先に気づいた園村くんがそうつぶやいて、「猫なんて帰ってくるでしょ、勝手に」と私が言うと、「いや、うちのは家猫だから」と彼はかたくなに言った。
「外のことなんてぜんぜん知らないし、絶対迷ってんだよ。ひとりで帰ってくるなんてできないよ、あいつ」
 かといって、じゃあ私も探すね、なんて無責任なことは言えない。むしろ、そろそろ帰らないといけない。
「あの森って変なうわさあるし、猫一匹で入ってたら詰みじゃん」
「変なうわさ」
「それも知らないのかよ。あの森、帰らずの森って言われてんだぞ」
「何それ……」
「入っていった奴が、戻ってこないんだよ」
「……ゲームのしすぎじゃない?」
「ゲームは脱出アイテム使えるからマシだろうが。あの森は踏みこんだらマジで戻れないんだぜ」
「バカらしい……」
 ため息混じりにそう言って森のほうを見たときだ。
 一瞬、青い光が森の闇の中に現れ、すうっと消えた。私は目を開いて、もう一度目を凝らしたけど──もう、光は見つからない。
「猫って」
「ん?」
「目の色、青いの?」
「え、何で知ってんの」
 私は眉を寄せ、いやまさかね、とひとりで取り下げた。なのに、園村くんは「何だよ」と駆け寄ってきて食い下がる。
「何でもない」
「何? 何か知ってんの?」
「知らない」
「でも、目の色」
 しつこそうだったので、「今、森のほうで青い光が見えた気がしたから」と言ってしまう。街燈のもと、園村くんはぱっと表情を明るくさせて、「マジか!」と息巻く。
「じゃあ、やっぱあの森に行っちゃったのかな。そうか、うん……怖いな!」
「あきらめたら?」
「それは飼い主失格だわ」
「でも、帰らずの森なんでしょ……」
 胡散臭く思いつつもそう言うと、「そうなんだよなあ」と園村くんはこまねいて唸る。
「でもあの森って、帰らずの森なのに、入っていく人が昔から絶えないんだよ」
「何で?」
「一番奥にたどりついて、光を見つけたら、どんな願いも叶えてもらえるんだと」
 私は男の子の頭の中なんて知らないけれど、それでもこの人はだいぶゲーム脳だなと思った。
「ん、待てよ? 願い叶えてもらえるなら、あおこも見つけてもらえるんじゃね?」
「あおこ」
「あ、猫の名前」
「……ああ」
「木淵、光は見たんだよな?」
「ちらっとだよ。見間違いかもしれないし」
「それが、あおこの眼かもしれねーし。あおこじゃなくても、攻略して願いを叶えてもらえればオッケーじゃん。おお!」
 何でそんな非現実な手段を、活路のように語っているのだろう、この人。小学校の低学年でもあるまいし。
 さすがにあきれてしまったので、「私もう帰るね」と言うと、「いやいやいや」と園村くんは私の腕をつかんだ。けっこう強い力だった。
「一緒に行こうぜ」
「は……? 何で?」
「いや、まあ……これも縁だろ」
 何の? と思ったけれど、そろそろ両親の帰宅とかちあってしまいそうだから、ちょっと家に帰れない。
 時間つぶしに、つきあってみるか。ひとりじゃないし、仮にも園村くんは男の子だし。
「いいよ、分かったから」と言うと「やったっ」と園村くんは腕は離して万歳して、すくむこともなく公園を横切り、森への道に面した出口に向かった。小さく息をつくと、私もそれを追いかける。
 風が抜けて、立ち並ぶ木立のざわめきがまた大きく響いた。
“帰らずの森”には、入口という入口もないようで、腰より高く伸びた雑草をかきわけて侵入するしかなかった。
 むせかえる雑多な草の匂いに、少し吐き気がする。園村くんは、一応私が進みやすいように草を踏みつけてから進んでいった。すぐに腕に蚊が留まろうとして、私はそれを神経質にはらいおとす。
 蚊ならまだいいけど、こんなの、進んでいったら蜘蛛とかいろいろ出てきそう。早くもついてきたことを後悔していると、「ん」と園村くんが急に立ち止まった。
「道ができた」
 私は園村くんの後ろから前方を覗いた。確かに、木立の合間に荒削りな小道が伸びている。だけど、目に入ったのはそれよりも、『入ルナ危険』と赤いペンキでおどろおどろしく書かれた、錆びついた看板だった。
「ふ、ふーん。脅しとしてはいいんじゃね。なっ」
「……やっぱり、やめておいたほうが」
「あおこに何かあったら、どうすんだよ」
 知らないよ。と思ったけど、口に出すと冷淡すぎるから、ぐっとこらえる。
「行くぞ」と園村くんは看板の脇をすりぬけて小道を行き、私も雑草の中を抜け出してあとを追う。
「あおこー? いるなら出てこーい」
 そんな声を暗闇に投げかけながら、園村くんはきょろきょろしつつ歩いていく。
 かろうじて翠蓋の隙間から月明かりが射しこみ、それだけが足元の頼りだ。ざわざわと葉がすれあい、気味悪くさざめく。雑草も丈は低くなっても生い茂っていて、踏むとちょっと柔らかい土の匂いと混ざりあっていた。ただ、空気がずいぶん澄んでいるのは確かで、暑さもそれほどではなかった。
「あーおこー。あーおちゃん」
 少し余裕になってきたのか、園村くんが砕けた呼びかけをしたときだ。
 がさっとけっこう大きな音がして、私だけでなく園村くんも声を上げた。がさがさがさっと音は近づいてきたかと思うと、一瞬で小道を何かが横切る。
「えっ、今の──」
「た、たぬき? 今のたぬきじゃね?」
「猫じゃなかったの?」
「あおこは、あんなぼさぼさしてねーよ」
「……たぬきいるんだ、ここ」
「いろいろいるなー。あおこが食われたらやばいぞ」
「熊とかいないよね?」
「熊はいねーだろ。猪はいたりして」
「え、何か、もう嫌なんだけど」
「大丈夫だって。ほら、行くぞ」
 ひとりでは行かないんだよなあ、とため息をつき、仕方なく、園村くんとさらに森の奥へと進もうとしたときだ。
「君たち」といきなり呼び止めてくる声がして、またしてもふたりで声を出してしまった。その声が反響する中、おそるおそる振り返ると、いつのまにかそこには、ジャージを着たおじさんが立っていた。
「何やってるんだ、こんな時間にこんなところで」
「え、ええと……」
「さっき声を上げたのも、君たちか?」
「声は上げてないです」
 やけにきりっと園村くんが言ったので、「たぬきに声出したじゃない」と私が訂正すると、「すみません、上げてました」と園村くんは首をすくめた。
「まったく。ここで何してるんだい?」
「いや、おじさんこそ」
「おじさんは、この森の管理を任されてる者だよ」
 やばい。ということは、私たち、不法侵入だ。
「また探検とか冒険とか言う子かな? 困るんだよ、危険って看板は見なかったのかい?」
「あれ、おじさんが書いたんですか? なかなかホラーでした」
「見たのに入ったんだね」
「……いや、俺んちの猫が、この森で迷子になったかもしれなくて」
「猫?」
「見なかったっすか。黒猫なんですけど」
「見てないなあ。それに、迷いこんでもこんな奥には来ないよ。明日の昼間に、ほかを探しなさい」
 園村くんは納得いかないようでも、正直、私はほっとした。
「帰ろう」と園村くんの服を引っ張ると、園村くんは残念そうなため息をついて、「ここって、たぬきいるんすね……」と腑抜けた口調で言う。
「たぬきはいるかなあ。いたちはよく見かけるね」
「いたちかよ……」
 なぜかそこにもがっかりした様子で、園村くんはやっと黙りこんだ。小道を引き返しながら、「あの、勝手に入ってすみません」と私は念のため謝っておく。
「この──ええと、友達も、猫が大事だから気になったみたいで」
「いいよ、さっきも言ったけど、探検やら冒険やら言って入ってくる子供も、肝試しをやる子供もいるからね。君たちは、見た感じ、もう子供ではないとは思うけど」
「すみません……」
「もう懲りて入らなければいいさ。今日のところは見逃すから」
 その言葉に安堵していると、小道が途切れて、また雑草をまたかきわける。「草を踏みつけて入った跡があったからね、すぐ気づいて引き止めにいけたけど」と私たちを公園まで送り届けたおじさんは言った。
「ほんとに、こんな夜中にあの森に入るとか危ないから。もう来ちゃいけないよ」
「ごめんなさい。もうしないです」
 私ばかりがそう言って、園村くんはへこんだのかいじけたのか何も言わない。それがおじさんも気になったようだけど、「早く帰りなさい」と諭して去っていった。
 私が吐息をついていると、「何かごめん」とやっと園村くんが口を開く。
「私じゃなくて、あの人にそう言わなきゃいけなかったのに」
「………、あおこ、どこ行ったんだろう」
「明日探せばいいよ。お腹が空けば帰ってくるかも」
「そうか……。それはあるかもしれん」
「じゃあ、私、帰るね」
「おう。また明日な」
「明日……?」
「いや、だから、同じクラスなんだよ!」
「あ、そうか。うん。また明日」
 私がうなずくと、園村くんはいったん吹っ切るように息を吐き、公園を出ていった。
 だいぶ時間食っちゃったなと思いつつ、私も帰路につく。たどりついた家はまだ暗く、親は帰宅していないのが窺えた。それにはほっとして、私は門扉を抜けると玄関の前で鍵を取り出した。
 翌日、昨夜のお風呂上がりにケアはしておいたけど、やっぱりかゆくなった腕の虫刺されを引っかきながら登校した。いつもと変わらず無言で教室に入ると、席に着いて荷物をフックにかける。
 しかし、つくえに伏せる前に「木淵」と呼ばれて顔を上げた。心当たりの通り、そこには白い開襟シャツに黒いスラックス、夏の制服を着た男子生徒がいる。
「ダメだわ。あおこ帰ってこない」
 私のつくえの前で、前置きもなく、ぶすっとそう言った園村くんを見つめた。昨日の夜はそんなにはっきり面差しが見えたわけではなかったので、今、その顔をちゃんと認識した。
 黒目がちの瞳や太い眉だけでなく、無造作な髪型や輪郭、とがらせた口元も子供っぽい。軆つきもまだまだ筋骨が現れていない感じだ。声は──もうそこまで、高くないかもしれない。
「やっぱ、あの森が怪しいよなー。俺の勘がそう言っている」
 まだ言っているのかとあきれていると、「木淵は光を見たんだよな?」と園村くんはつくえに身を乗り出す。
「寝ぼけてたのかも」
「今日の放課後、まだあおこ帰ってきてなかったら、もっかい森行こうぜ」
「友達と行けば」
 言いながら、この教室で私に話しかけて、園村くん大丈夫かなと思った。特に訝っている視線は来ていないけど──
「いや、猫にこんな必死になってんの、だせーだろうが」
 眉を寄せる。じゃあ、私に対してはださくていいのか。確かに、格好つける相手ではないだろうけど。

第三話へ

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