崩れ落ちるとき
ここ最近の流れを鵺にちゃんと報告できていなかったので、数日後、私はいつもの居酒屋で鵺と落ち合った。メッセのやりとりはしているけれど、細かい話ができていない。先に着いてカウンターにいた鵺に、「結局、男役やることは深夏に言ってないよ」と断っておいたら、「それでいいんじゃね」と鵺は肩をすくめた。
それから、拓寿対策として里珠を後押ししたことも話した。「何かややこしくなってんな」と鵺は梅サワーを飲んで、私もやってきたビールを飲む。暑くなってきてビールがおいしい。おつまみはどれがいいかなとお品書きに目を通しつつ、「鵺が言ってたことは、まだどうしたらいいのか分かんない」と私は言った。
「何か言ったっけ」
「拓寿を追いはらっても、どうせまた男が出てくるって」
「言ったかもしれない」
「どうやったら、深夏にひと筋とか一途というものを教えられるのかなあ」
「いっそ、はとがほかの男──女でもいいけど、遊んでみたら」
「えー」
「みなちゃんって、二股しても、されたことなさそうじゃね」
「……なさそう」
「自分が二股されたら、さすがにその気持ち分かるだろ」
「深夏は『これでお互い様だねー』ってさらっとしそう……てか、もし深夏がポリアモリーなら、四人でつきあえばいいってならない?」
「あー……」
「それはますます嫌だわ」
「よく根気よく好きだよなあ、そんな男」
私は鵺をちらりとしてから、店員を呼び止めてだしまきたまごを注文した。それから、「私も思う」と素直につぶやく。
「え」
「こないだふっと思って、すごく怖くなったけど。私、このままじゃ深夏に愛想尽かすんじゃないかなって」
「………、普通は、もっと早くそう思うだろ。いや、とっくに別れてるレベルだと思うぞ」
「そうなのかな。でも私は深夏のことすごく好きだし、こんなに理想的な子いないし、つきあえることになったときは死ぬほど嬉しかったし。なのに、そんなに好きになった深夏のそばを、離れたいと思うのかあって。自分が怖いよ、そんなの」
「結婚とか言ってたもんな」
「ほんとに、あとちょっと遅かったらおかあさんには深夏のこと話してたな」
鵺は梅サワーのグラスをかたむけ、「こないだは男役がどうとか肉体的な極論で話しちまったけど」と言う。
「単純な話、はとを手離したくないってみなちゃんに思わせることなのかもしれないな」
「……手離したく、ない」
「はとが離れていくくらいなら、二股やめるって思わせる。それが一番真っ当なやり方だよ」
「それができたら苦労しないよ……」
「そう思わない程度だと思うか、みなちゃんの気持ちは」
「どうなんだろ。私のことすごく好きなんだなあとは感じる。もはや、むしろ二股程度で離れていかない安心感」
「その安心感はちょっと壊せよ」
「どうやって」
「どうって──そうだなあ、思い切って『二股やめないと別れる』くらい言ってみたら」
「それは思い切りすぎだろ」
「みなちゃんにはちょうどいいんじゃね」
「『分かった、別れよう』が怖すぎる」
「はとはビビるのに、みなちゃんは安心してるバランスの悪さも問題だよなー」
私はうめいてカウンターに伏せり、ほんとに疲れてきたよ、と思ってしまった。
深夏のことは好きだ。一緒にいられたら幸せだった。けれど、今はこんなに深夏とつきあうために考えて、悩んで、迷って、さすがに私も分からなくなってきた。こういう心労が溜まってやがて深夏に愛想を尽かすのか。
何だかありえそうなほどの澱んだ重みに、深夏にうんざりするとき、私はそれ以上に自分が大嫌いになっているのだろうなと思う。
「私、深夏のこと嫌いになっちゃうのかな」
おろしのかかっただしまきが来て、私は醤油をかけると割り箸を割る。だしまきをひと口大にしながら言うと、「嫌いになって別れるなら、未練もなくていいのかも」と鵺はイカリングフライを口に運ぶ。
「嫌いになりたくないのに、嫌いになったんだとしても?」
「嫌いになりたくないうちは、まだみなちゃんのことが好きってことだろ」
「哀しいなあ」
「哀しい」
「こんなに好きなのに、嫌いになるときってやっぱ来るんだなあ」
「今は好きだろ」
「好きだけど。そのせいで頭痛くて、さすがにつらい」
「ま、嫌いになりかけてるときが一番つらいな」
「……うん。自分も嫌いになるしね。深夏を受け入れてあげられない自分もつらい」
「一般的には、その状況を理解しろってほうが無茶振りだから、はとは悪くないぞ」
「ん。ありがと」
私はちょっとだけ鵺に咲い、だしまきを頬張った。おろしはひんやりしていても、たまごは作りたてでまだ温かい。
「ちょっとトイレ借りてくる」とふと鵺が立ち上がり、「はーい」と私は見送ってビールをごくんと飲んだ。そして何となく足元のバッグを見て、スマホのランプが光っていることに気づいた。
誰だろ、と身をかがめてスマホに手を伸ばすと、メッセは何も来ていなくて電話着信だ。履歴を見て、「え」と声をもらしてしまった。深夏から、三回も着信がついている。
何? どうしたのだろう。着信時間も確認すると、三十分前から十分置きだ。これは──鵺戻ってきたら断って折り返したほうがいいな、とスマホをテーブルに置くと、またスマホが着信を受けて震えた。
けれど、通話じゃなくてぱっとポップアップが出る。
『一応報告。
拓に告った。』
深夏じゃなくて、里珠だった。
──って、いうか、告った? マジか、とスマホを手に取るとまたポップアップがつく。
『拓はあいつに会いにいったよ。』
あいつ。……深夏? 深夏と拓寿はさっき会ったということか。けれど、拓寿と一緒にいるとき私に電話をかけるとか、深夏はそういう悪趣味はやらない。と、思う。
私は深夏のトークルームを開いて、『どうしたの?』とひと言送信してみた。すぐに既読がつく。ついで、そうしたらまた電話着信が来て、私は仕方なくその場で電話に出た。
「深夏? あのね、今ちょっと──」
『はと、ちゃん……っく、うえ……わあああん』
「えっ、何、深夏? どうかしたの?」
『い、今さっき、拓が突然、来たの』
「あ、あー、そうなんだ……」
『そしたら、いきなり「別れよう」って言われて』
「はっ?」
『どうしよう……ひっく、ねえ、何でえ……っ? 僕、拓のこと大事にしてたのに、』
「………、」
『やっぱり、拓もおんなじだったの? 僕がおかしいって、離れていったの? ねえ、はとちゃんは僕を置いておかないよね?』
「私……は、」
『はとちゃんに捨てられたら、もうどうやって生きていったらいいのか分かんないよお。怖いよお。はとちゃんに会いたいよお……』
ああ、ああ、もう! きっとここで私は、深夏をこっぴどく振るべきなんだろうな。そうしたら深夏は多少思い知るんだろうな。それだけのことを私はされたし、拓寿だってされたし。私がここで、深夏を戒めないと、深夏はまた次の恋でも──
鵺が戻ってきて、スマホを耳に当てている私に怪訝そうな顔をする。私はため息をつくと、バッグに手を突っ込んで財布を取り出した。「悪い、急用」と鵺に千円札を渡すと、鵺は肩をすくめて「ほどほどにしろよ」と厄介事なのは察したようで、お金を受け取った。
知るか、と思った。そう、知ったことか。深夏の次の恋? そんなもんの心配をしてたまるか。今、私が深夏をつなぎとめれば、深夏に次の恋なんて来ない。
「深夏? 部屋にいるんだよね」
居酒屋を出て店先の明かりが灯る飲み屋の通りをつかつか歩き、すぐそばの駅に向かいながら私はそう問いかける。
『ん、うん』
「ひとり? あいついんの?」
『もう、帰った』
「っそ。じゃあ、私が行っても邪魔じゃないね。そっち向かうから」
『来てくれるの……?』
「会いたいって言ったじゃない」
『う……はとちゃんが優しいよお』
「はいはい。ちゃんとそこ行くから、ひとりぼっちじゃないから、死のうとか考えないでよ」
『う、っく……うん。はとちゃん待ってる』
「じゃあ、電車乗るからいったん切るよ。ちゃんと行くからね」
『ん。ごめんね、……はとちゃんがいて、よかった』
私は耳から話したスマホの通話を切り、すぐに着いた改札をICカードで抜けて電車に乗った。
そのあいだ、里珠のトークルームを開いてから、少し迷ったものの『もしかして、うまくいった?』と訊いてみた。しばらく無反応だったけど、ふっと既読がついたら返信は早かった。
『振られたっぽい。』
……え。振られた? 里珠とつきあうために、拓寿は深夏を振ったんじゃないの?
『ほんとに振られたの?
ごめんなさいって?』
『うん、「ごめん」って言われた。
で、「今から深夏のとこ行く」って。
振ったその足で本命に行くって、我ながらむごい奴好きになったな。』
違、う。たぶん、違う。
そういう「ごめん」じゃない。何となくだけど。拓寿が謝りたかったのは、もしかしてだけど──
『ガチっぽいから伝えておくけど。
深夏が拓寿に振られた。』
何かしていたのが既読にややかかったけど、それでも三分くらいで反応があった。
『は?
嘘?』
『私、今深夏に呼び出されるしマジっぽい。
だから、里珠ももう一度拓寿に会って、深夏も振った理由を聞いておいたほうがいいかも。』
既読がついて、しばらく間があった。かたんことん、と空いた電車の揺れる音が響く。それから、ぽんとメッセが表示された。
『ちょっと拓と電話する。
またあとで連絡するね。』
私は緊迫していた心臓に息をつき、入りこんでいたスマホの画面から顔を上げた。里珠とやりとりしているうちに、深夏の最寄りが近いことを電子案内板で知る。
何だよ。ビビった。拓寿の奴、本当にすごい反応した。本音では、あいつなら里珠を想いすら受け流すかもしれないとも思っていた。まさか、里珠に対して償うみたいに、深夏を振ってしまうなんて。ここまでの反応があるなら、もっと早く里珠をけしかけていればよかったのだろうか。
そう、たぶん拓寿の「ごめん」は里珠を振ったわけではない。受け入れるのかは分からなくても、「ごめん」はきっとその言葉通り、謝罪だと思う。気持ちに気づけなかったこと。さしおいて男とつきあったこと。いろいろあるとは思うけど。そして、里珠に対してできる贖罪が深夏を捨てることだったのだろう。
深夏の最寄り駅に着いて、私は夜道を駆け足で抜けていって、二階建てのいつものアパートにたどりついた。深夏の部屋に明かりはついていない。ほんとに大丈夫かな、と案じながら二階にのぼり、ドアの前で立ち止まった。チャイムを鳴らしてから、合鍵あるじゃん、と気づいて取り出そうとすると、かちゃっと音がしてドアが開いた。
「はとちゃんっ──」
壊れそうな深夏の声がした。ドアが大きく開いて、部屋の中は暗くても廊下は電燈で明るいから、深夏の泣き顔がはっきり見て取れた。アイメイクもファンデも涙で落ちて、髪もウェーヴが取れてばさばさで、かわいい服にも皺が寄っていて。そのすがたに突っ立ってしまった私に、深夏はしがみついてきて泣き出した。
……あ、れ。何。何これ。
私が望んだのって、こうだっけ?
私は、深夏がこんなに傷つくことを望んだのだっけ?
「はとちゃん……ねえ、はとちゃんは僕のこと捨てないで」
「……あ、」
「はとちゃんはそばにいて。はとちゃんのこと大好きだから。嘘じゃないから。拓は僕の気持ち信じてくれなかったけど、はとちゃんは僕を信じて」
「深夏……」
「はとちゃんのこと好きだよ。お願い、僕のこと……」
私は唇を噛んで、深夏の背中に腕をまわして抱きしめた。本当に、もろすぎる細い軆だ。こんなに華奢な軆を持った子に、私は何てことをしてしまったのだろう。こんなに純粋に、私のことも拓寿のことも愛していた子に、私は──
私はひとまず、深夏を抱いて一緒に部屋に入った。深夏は私に取りついて離れず、息苦しそうなほどしゃくりあげている。私はバッグを床に投げて、その拍子にスマホが転がり落ちた。
ちょうどポップアップがついて画面が点燈していて、暗い部屋の中で、こんな文章が浮かび上がっていた。
『拓と話した。
「俺はやっぱりストレートだから」ってさ。
んなこと分かってんだけど。
深夏を振ってでもストレートアピールして、俺のこと振りたかった感じ?
逆にきついや。』
【第十一章へ】
