嘘つきだと思ったけど
「話あるんだけど」
券売機の前で、メニューを考えていた拓寿の背中を押して振り返らせると、私は開口でそう言った。拓寿は嫌そうな顔をして、「もう俺には文句ないだろ」と言う。「深夏のことまだ好きなくせに」と私が仏頂面で言うと、拓寿は言葉を飲み、「決まったらそっち行く」と券売機に向き直った。
相変わらず無愛想、と私は肩をすくめ、窓際の席に戻ると食べかけだった塩ラーメンをすする。やがてカツ丼に決めた拓寿が正面にやってきて、無言で席に着く。
「深夏に会いにいかないの?」
私がそう問うと、拓寿は割り箸を割って「別れたのに会わねえよ」とたまごがかかった豚カツを口に入れる。
「私、あんたが深夏を振ってから、毎日あの子の様子見に行ってるんだけど」
「あっそ」
「深夏、泣いてるよ」
拓寿は一瞬手を止めたけれど、黙ってごはんも口に押しこむ。
「そんなに里珠に対して申し訳ないと思った?」
「……別に」
「男は無理だって主張で深夏を振ったわけじゃないでしょ」
「どういう意味だよ」
「自分が鈍感だったのが嫌になったんじゃないの」
容赦なく言う私に、拓寿はさもうざったそうな顔をしたけれど、口を開く。
「里珠に告白されて」
「うん」
「断ったんだ。普通に」
「そうなの?」
「俺はみなが好きだからって」
拓寿は表情を陰らせ、いったん水を飲む。
「それに、お前──里珠は男だろってつい言っちまって」
「男」
「そしたら里珠は、当たり前だけど、深夏も男じゃんって言ってきて」
「うん」
「俺はそれに、答えられなくて。確かにみなは男だ。すごくかわいいけど男だよ。そんなの気にしないと思ってつきあってたけど、里珠に告白されて、どっかで男とか無理だって思ってる自分がいて。みなとつきあってるのに」
私は話を聞きながら箸にラーメンを絡みつける。
「そしたら、こんな俺じゃ、みなを傷つけるだけかもって思った。いつか、何かの拍子でお前は男じゃないかって言って、みなを拒絶するかもって。それなら、傷つける前に離れたほうがいいのかと思った」
「……ふうん」
「里珠に申し訳なくなったって、お前が言ったのも多少はあるけど。みなと別れたのは、みなが男だっていうことに俺が改めて気づいたからだ」
「じゃあ、深夏のこともう好きじゃないの? 男だから?」
拓寿はうつむいたままカツ丼を食べていたけれど、私の視線に負けたようにふうっと息をつく。
「自分でもどうしてそうなのか説明できないけど、……好きだよ。決まってるだろ。簡単に忘れられないよ」
「そっか」
「でも、このままみなとつきあうことを、里珠に説明できる自信もない」
私はもやしを食べて、しゃきしゃきした歯ごたえを飲みこむ。
「あのさ」
「ん?」
「私たちは、そもそもうまく説明できない奴が好きなんだよ」
「……え」
「深夏、私が好きだって言ってくれるし、私にそばにいてって言う。でも絶対言わないのは、私がいればそれでいい、みたいなこと」
「………、」
「あんたがいなくなって、私ひとりで満足すれば楽なのに、あんたを想って泣いてるの。あんたを忘れようとしないの」
「……じゃあ、どうしろってんだよ。より戻して、またみなを共有するのか?」
「それは嫌だ」
「だったら、」
「私がいるだけじゃ、深夏は泣いてばっかりなんだって分かったから」
拓寿はやっと私を見た。私は小さく息をついて、ポケットからあのキャラクターがつながった合鍵を取り出し、それをテーブルに置いた。
「深夏に会いにいってあげて」
「……お前、」
「いいから、深夏を笑顔にしてやれホモ」
「ホモ……じゃ、ねえし」
「深夏は、私といると幸せなんだって。で、あんたといると安心だって言ってたよ。幸せは安心があって感じられるものだから、今、深夏は泣いてばっかりなの」
「お前は、いいのかよ」
「良くないけど、しょうがないじゃない。あんたがいないと、どうせ私なんかいないのと同じなんだよ。幸せなんて、安心してないと感じられないんだよ」
「………、」
「深夏に必要なのはあんただよ。だったら、私は深夏から離れることしかできない」
拓寿は私を正視したのち、ゆっくり合鍵に手を伸ばし、指先に絡め取った。じっとそれを見つめている拓寿に、私は左薬指の指輪も外して「これも深夏に返しておいて」とさしだした。まばたきをする拓寿に、「私は女だから」と私は笑ってみせる。
「あんたとか深夏みたいに……男みたいに、めそめそ引きずるなんてしないの」
そう言って拓寿に指輪を握らせると、私はラーメンを食べた。えらそうなことを言ったけど、味が分からないくらいには心が痛い。
あーあ、深夏のこと手放しちゃった。こんなに好きになって、こんなに幸せにしてくれて、こんなにかけがえのない人なのに──
やっぱり、別れって来るもんなんだなあ、と泣き笑いしそうなのを我慢して、ラーメンを食べ終えると「じゃあねっ」と拓寿に言い残して私はトレイを持って席を立った。
『ごめん、里珠。
私、深夏と別れるよ。
拓寿に返す。』
昼休みが終わる前に里珠にそんなメッセを飛ばしておくと、眼鏡をかけて午後の仕事に集中した。定時になってチャイムが鳴ると、目から肩の疲れに背伸びをしてから、引き出しを開ける。スマホのランプが明滅していて、画面を起こすと里珠からメッセが来ていた。タップでそれを開く。
『それでいいのかもね。
結局、あのふたりは俺と葉鳥で引っかきまわしただけだもんな。
それに、こないだ拓と話したんだけど、どっちみち拓は俺とはつきあわないみたいだし。
俺もいい加減、拓をあきらめて新しい男に目を向けなきゃ。
ただ、葉鳥とはこれからも友達でいられたらいいな。』
私はちょっと咲って、『友達は何人いてもいいから、仲良くしよ。』と答えておいた。それから制服を私服に着替えて、鵺をいつもの居酒屋に呼び出すメッセを送っておく。もし鵺が来れなくても、まあひとりで飲むからいいや。
化粧を直して会社をあとにして、雨が上がった空の下を歩いていく。駅に着いてスマホをチェックすると、『今仕事上がったから、少し遅くなるけど行くよ。』と鵺の返信が来ていた。
先に着いた居酒屋のカウンターで、ビールを飲んで厚揚げのチーズ焼きを食べながら、いつも通りSNSを眺めていた。店内はいつも通り常連客で賑わい、クーラーがしっかりと効いている。TLをなぞって適当にいいねとかしていると、「はと」と声がかかって顔を上げた。
今日もパンツスーツの鵺が歩み寄ってきていて、「よう」と私は手を掲げる。鵺は隣の席に腰かけると、ひとまずチューハイを注文して「何かあったのか」とこちらを向いた。「んー」と私はスマホをバッグに入れながらうなずく。
「深夏とね、別れた」
私の言葉に、鵺はぎょっとして目を通そうとしていたメニューを置いた。
「は?」
「深夏さんとお別れすることにしました」
「え……はっ? マジかよ」
「マジだよ」
「何で? けっこうゲスいことやって男から引き離したのでは」
「うるさいなあ。ゲスだから反省して、あいつに深夏を返したんじゃない」
「三人で話し合ったのか?」
「三人ではないけど。男のほうと話した」
「みなちゃんは?」
「直接別れるとは伝えてないけど、男に伝言と指輪託したから」
鵺は私の左薬指を見て、「ない」と言った。「深夏に返してっつっといた」と私は肩をすくめる。
「何で。いや、一応、そういうことはみなちゃんと直接話し合ったほうがよくないか」
「直接話し合っても、深夏は私と別れるとか言えないと思うんだ」
「別れたくなきゃそうだろ」
「うん。深夏は私と別れたくないと思うの」
「じゃあ、」
「でも、私と拓寿だったら、深夏には拓寿なんじゃないかって思ったから」
「本気かよ」
「本気。だから、身を引くのは私かなって。深夏は納得しないだろうけど、それはもう、拓寿にそばにいてもらってなだめてもらうしか」
「はとはそれでいいのか」
「だって深夏、私がそばにいても泣いてばっかだし。拓寿なら、咲わせてあげられるんじゃないかな」
鵺は笑う私を見つめて、何だか不満そうに眉間に皺を寄せたあと、「みなちゃん、『絶対別れない』って言ってたんじゃないのか」と頬杖をつく。
「拓寿から私の伝言聞いたら、多少はごねるだろうね」
「それは男任せかよ」
「そうするしかないじゃない。私、深夏に甘えられたら、甘やかしてまだつきあっちゃいそうだし」
「っそ……。で、はとの気持ちは?」
「え」
「はとの気持ち。みなちゃんが泣くとか泣かないとか、男のほうがいいんじゃないかとか、そんなことより。はとの気持ちはどうなんだよ」
「……私、は」
「みなちゃんのこと、あきらめられるのか? 嫌いになった?」
「嫌いでは──」
「好きじゃなくなるのが怖いとか言ってたくせに、別れられるのかよ」
私は何だか言葉に詰まって、うつむいた。厚揚げからチーズの香りがふわふわと立ちのぼってくる。
ざわざわしたものがみぞおちに生まれる感じがして、振りはらおうとしてもそれは息苦しさになってくる。
「私、は」
「うん」
「……女、だもん」
「え」
「バカみたいに、泣いて、すがったりしない」
「………、」
「別れるって決めたら、……あっさりしたもんなの」
「はと……」
「深夏のことなんて、すぐに、……すぐ、忘れ……っ」
こみあげていた息苦しさが突然あふれ、視界が滲んで、涙が急にぼろぼろとこぼれてきた。
あれ。何で。泣いたりしないと思ったのに。泣きかけるけどわりと大泣きせずに大丈夫だな、なんて思っていたのに。どうして今頃、こんなに胸がちぎられそうに苦しく感じるのだろう。喉が締めつけられ、指先が震え、深夏との想い出がひりひりするくらい鮮明に頭の中いっぱいに散らばる。でも、その記憶に触れようとしても指が透けて──
「ほんとにいいのかよ」
鵺が私を覗きこんでくる。
「みなちゃんは、はとが好きなんだから。はとがみなちゃんのこと好きなみたいに、ほんとに好きなんだと思うぞ」
「……っ、」
「だから、はとが別れるのを決めたって知ったら、それがはとの望みだって思ったら、ほんとにもう会えないんじゃないか?」
「でも……もう、そうするしか」
「ゲスでよかったのに。男なんかはらいのけて、自分だけ見てほしいってみなちゃんに言っててよかったんだよ」
「でも、そんなの深夏には苦痛なんでしょ。男とも女ともつきあいたいのが本音でしょ」
「その本音がはとにとっての苦痛だって、何でもっとわがままに行かないんだよ」
「わがまま……なんて」
「言ってよかったと思う」
「そんなの、……できないよ。私、深夏に嫌われたくないもん。私だけでいてほしいって、そんなの、深夏に嫌われるんだよ」
「何だよ。じゃあはとは、嫌われたくないくらい、みなちゃんが好きなんじゃないか」
私は涙をあとからあとから落としながら、鵺を見た。鵺も私を見て、「ほんとバカだな」と言った。
バカ。ほんとに、バカだ。深夏のこと好きなのに。大好きなのに。別れるなんて、ほんとは嫌なのに。嫌われる前に別れる、なんて、私はどれだけバカで、ずるくて、弱いのだろう。
はとちゃん。
拓がそばにいなくて気づいたよ。
僕に必要なのははとちゃんじゃなくて──
まだ、言われてもいない。深夏が本当にそう言うかも分からない。なのにそんな言葉に怯えて、深夏を突き放してしまった。指輪も合鍵も投げ返してしまった。
深夏に面と向かって「別れよう」と言わなかったのが、何よりもの証拠だ。深夏と本当は別れたくなんてなかった本心の証拠だ。
別れよう。たやすく言われるのが怖くて。別れない。強く引き止められるのも怖くて。私は、深夏から逃げてしまった。
それは深夏を傷つけるのだろうか。だとしたら、本当に私はバカだな。拓寿は深夏を傷つけないように身を引こうとしたっていうのに、私の場合は自分が傷つきたくないだけで、さらにその身勝手で深夏を傷つけるなんて。それこそ、本当に深夏に嫌われても仕方がない。
鵺はずっと私の背中をさすっていて、私は長いこと顔をおおって泣いていた。深夏が好き。別れたくない。でも、いまさらどんな顔でそれを伝えにいくの?
ああ、本当に最低だ。私は自分で自分の心に傷をつけて、しかも醜い傷痕にしてしまう。きっと長いこと引きずる傷痕。世界でゆいいつ、それを癒せる人の体温には、きっともう触れられない。自分で手を離してしまった。
深夏、ごめんね。
強くならなきゃいけないのは私だった。
私を信じてると言ったあなたを嘘つきだと思ったけど、もっとひどいのは、あなたを信じなかった私のほうだったんだ。
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