ミルク-5

かわいくなんてない

『何かあったら、そこに電話してくれていいよ』
 私はマットに取り落としていたかばんを取り上げ、スマホを取り出した。
 この状況で頼るなら、安桜さんしかいない。どうやってこの車を突き止めてもらうかは分からないけれど、とにかく助けを求めないと。私は安桜さんの番号を画面に呼び出して、通話ボタンをタップした。
『はい、こちら安桜の電話です』
 ワンコールでそんな声が聞こえた。でも、声出していいのかな。いや、ビビって躊躇っている場合じゃない。
「安桜さん、私、香春ですけ──」
「てめえっ」
 すぐに男が怒号を上げて振り返ってきた。
「どこに電話してる! とっとと切らねえと、犯すだけじゃ済まねえぞっ」
「あ、……わ、私──」
『うむ。優真梨ちゃん、何かだいたい分かったから、電話切りなさい』
「えっ? でも……」
『早く。すぐ行くから』
「スマホよこせっ。くそっ」
 私は終話へとボタンをスワイプしてから、スマホを男に渡した。「ナメやがってっ」と男は私の携帯を助手席に投げつけ、アクセルをさらに踏みこむ。
 すぐ行く、って。どうやって車にいるのが分かるのだろう。行き先は私だって分からない。
 ほんとに来る、よね。いや、もし来なかったら? 来たとしても、間に合わなかったら?
 犯すだけじゃ済まないって言った。どうしよう、と震えそうになる軆を自分で抱きしめて抑える。恐怖がじりじりと神経を焦がし、感覚が冷たく蒼ざめていく。息遣いが痙攣して、舌が渇いて口の中がからからになってくる。思考能力も落ちて、増えるまばたきが湿りそうな視界をはらう。
 怖い。何でもっとちゃんと学校の前で暴れなかったのだろう。気をつけろって、安桜さんにも言われていたのに──。
 車はあのときと同じく、大通りを抜けてからホテル街のそばの脇道に停まった。駐車場には入らず、そのまま乗り捨てるように男は車を降りて、私を引きずりおろした。
 抵抗しなきゃ、と思っても、力が空回りして振りほどけない。日がかたむいて、ピンクやオレンジのネオンが泳ぎ始めているものの、ホテル街はまだ人気がない。ただでさえ男の骨ばった手は、腕にぎりぎりと食いこんでいて、拒否したら変な方向に捻じりあげられそうだ。
 もうダメなのかな、と思いかけたときだった。
「おじさん、楽しそうじゃん」
 そんな声がして男が立ち止まったので、私も足を止める。いつのまにか、周りにはたぶん私と同世代だけど、柄の悪そうな男の子たちが群がっていた。
「眼鏡女子を調教ですかー?」
「俺たちも混ぜてよ」
「女けっこうかわいいじゃん」
 男の子のひとりが手を伸ばして顎をつかんできて、私は顔を背ける。すると、男の子たちは笑って、男は息をついて「この子は今から仕事なんだよ」と面倒そうに説明する。
「だから、この子と遊びたいなら、そのあと自由に──」
「仕事? 仕事って何?」
「こんな優等生が売りかよ」
「えー、じゃあ、俺たちがもっと高く買えばいいよな」
「いくらでこのおっさんに買われた?」
「俺たち、意外と金あるよー?」
 そう言った男の子が、私の肩に馴れ馴れしく腕をまわしてきて、嫌がろうとしたら耳元でささやかれた。
「安桜さんに雇われたから」
 私ははっと、その髪を赤く染めている男の子を見た。男の子は小さくうなずいてみせて、それをほかの男の子たちも見ていて、「ほら、俺たちとおいでよっ」と私の腕を引っ張る。
 その拍子に、男の手から私の腕が引き抜けて、「お前らっ」と男は私を捕まえなおそうとしたけど、その前に男の子ふたりが私の手を引いて駆け出す。私はもつれた脚で、前のめりながらもそれについていく。
 そんな私を追いかけようとした男を「おっさん未練がましいし」と残った男の子たちはげらげらと笑い、笑いながら容赦なく顔面を殴りつける。それをもろに食らった男は、がくんと膝を落とし、後頭部を地面に打ちつけられ、めちゃくちゃに首も背骨も脇腹も蹴られはじめる。
 うわ、と目をそらしたのと同時に、私は男の子たちに引かれるまま角を曲がり、そのとき、「優真梨ちゃん」と聴きたかった声がした。
 私は顔を上げた。
「安桜さんっ──」
 男の子が手を放してくれて、私は安桜さんの胸に飛びこんでいた。煙草の匂いがするスーツを思わずぎゅっと握りしめたけど、男の子たちが口笛なんか吹いたから、う、と恥ずかしくなって離れようとする。でも、安桜さんは私の肩を抱いて、頭をぽんぽんとしてくれた。
「よしよし。ちゃんと僕に電話くれたね」
「……電話して、よかったですか」
「心配だったから、また会えてよかった」
「……すごく、怖くて。犯すとか言ってたし」
「うん」
「安桜さんがいなかったら、私──」
「大丈夫だよ。もう大丈夫」
 私は息を吐いて、うなずいて、再び安桜さんの胸に顔を埋めた。「あの男どうしますかー?」と男の子に問われた安桜さんは、「優真梨ちゃんに手出ししたらこうなるってことをよく伝えておいて」と私に歩き出すのをうながす。
「了解でーす」と男の子たちが去るのを見送ってから、私は素直に安桜さんと並んで歩きはじめ、頬を濡らす水分を手ではらう。「僕の事務所で落ち着いていくよね」と言われてこくんとすると、私は安桜さんの事務所に向かうことになった。
「よく、私の居場所が分かりましたね」
「ふふふ、すごいでしょう」
「……すごいです」
「種は簡単だけどね。失明させた奴のスマホに入ってた連絡先、洗い終わってたから。指令クラスに電話して、あの場所を吐かせた」
「簡単に吐くものなんですか」
「金は偉大だね」
「………、私、返せるお金ないですよ」
「優真梨ちゃんを保護するのは、僕が勝手に決めてたことだから、いいんだよ」
 私は安桜さんを見上げて、安桜さんは屈託なく微笑む。私は熱を感じて、また顔を伏せたものの、「ありがとうございます」はちゃんと言った。「うん」と安桜さんは私の頭を撫でて、「着いたよ」と例の風俗店ばっかり入ったビルに私を連れて入っていった。
 安桜さんの事務所には電気がついていて、ドアを開けた安桜さんは「芽衣奈ちゃん、ただいまー」と声をかけた。
 芽衣奈さん。あの人か、と金髪の美女を思い出していると、やはりあの美人がソファで背もたれに沈み、テーブルに脚を投げ出していた。今日は黒のキャミソールワンピで、危うい露出度に、女の私が見てもどきっとする。
 芽衣奈さんは目を閉じたまま「おかえりー」と答えて、「よくサボりますねー」と安桜さんに額を小突かれる。「そうですねー」と言ってから、芽衣奈さんは長い睫毛を動かして目を開き、私を見て「あー」と声を出した。
「何だっけ。名前、何だっけ」
「……香春優真梨です」
「そう、優真梨だ。何だ、安桜が急いで出ていったと思ったらあんたか」
「芽衣奈ちゃん、留守中に誰か来た?」
「知らない。寝てた」
「そ。スマホには何も来てないから大丈夫か。優真梨ちゃん、こっちのソファに座ってていいよ」
 安桜さんはドアから見て手前のソファをしめし、「はい」と私はおとなしくそこに座らせてもらう。思わずため息をついてしまうと、「大丈夫?」と安桜さんは私を覗きこむ。
 どきんとしつつ、私がうなずくと、「ゆっくりしていっていいよ」と安桜さんは奥のデスクへと歩いていった。それを見守っているのを、芽衣奈さんに眺められているのに気づくと、私は何だか引き攣った笑みで首をかしげてしまう。すると芽衣奈さんは笑みを返してきて、けれど、何も言わずにまた背もたれに寄りかかってまぶたをおろす。
 私はその綺麗な顔立ちを見つめて、ほんとに美人だな、と改めて思った。二十歳くらいに見えるけれど、実際いくつなのだろう。そう思って、そういえば年齢といえば、とPCをいじる安桜さんを見る。
「安桜さん」
「んー?」
「安桜さんって、おいくつなんですか」
「僕? 二十七だよ」
「……何か普通ですね」
「普通って」
「二十代後半くらいかなとは思ってたので」
「若く見えても、老けて見えても、面倒だしねえ」
「芽衣奈さんは二十歳くらいですか」
「今年十八じゃなかったかなあ。芽衣奈ちゃんっていくつ?」
 安桜さんに訊かれても、芽衣奈さんは答えない。目を閉じて、規則的に息をしていて──
「寝てますよ」
「寝てるね」
「……びっくりするくらい美人ですよね。芽衣奈さん」
「優真梨ちゃんもじゅうぶんかわいいよ」
「………、でも」
「でも」
「みんな、私のことブスって言いますよ?」
 安桜さんは、PCから顔を上げる。私があやふやに咲ってうつむくと、安桜さんはデスクをまわって、こちらに近づいてくる。

第六章へ

error: