息ができる場所
少し顔を上げると、安桜さんは腰をかがめて私から眼鏡を取り上げた。急に視界がぼやけて、安桜さんの表情も分からなくなる。それでも視線は感じて伏し目がちになると、「ブスかなー?」と不思議そうに言われて、「ブスですよ」と私は眼鏡を取り返した。
「その『みんな』って学校とか?」
「そう、ですね」
「千美繭香ちゃんは『かわいい』って言って優真梨ちゃんをアイドルに誘ったんでしょ」
「千美さんは、……よく事情を知らないみたいで。私が撮影できなかったことだけ聞いて、『ブスだから』って」
「何にも分かってないだけでしょ、その子」
「……千美さんじゃなくても、みんなそう言うし。ブスのくせにアイドルのオーディションとかバカみたいとか。別に、千美さんに誘われてもアイドルになりたいなんて思わなかったけど、いちいち言われると……その、」
「傷つく?」
私は安桜さんを見上げてから、一瞬泣きそうになって小さくうなずいた。「そうだよね」と安桜さんは私の頬に触れて、そっと撫でてくれる。
「優真梨ちゃんのこと、守ってあげたいと思ったけど」
「……はい」
「さすがに、学校の中には入っていけないもんなあ」
私は少しだけ咲って、「その気持ちで嬉しいです」と言った。「つらくなったときはいつでもここに来ていいからね」と安桜さんは言ってくれて、私はうなずく。
「よしよし」と安桜さんが私の頭をなぐさめていると、「優真梨って化粧してるの?」と突然芽衣奈さんの声が割って入ってきて、どきりと肩を揺らす。
「え……えっ?」
「化粧。してなくない?」
「見た感じしてないね」
安桜さんは、特に動揺を見せずに答える。
「素顔でそれだから、化粧したらじゅうぶん美少女じゃない」
「優真梨ちゃん、化粧しないの?」
「え……と、知らないので。教えてくれる人もいないし」
「じゃあ、芽衣奈ちゃんに教えてもらいなよ」
「え、いえっ。そんな、芽衣奈さんが面倒だろうし」
「いや、あんたをブスって言う奴がムカつくから教えるわ。待ってて、ポーチ持ってくる」
そう言った芽衣奈さんは、テーブルに乗せた脚をおろし、ソファを立ち上がると、事務所を出ていってしまった。私は安桜さんと顔を合わせ、「人気風俗嬢直伝だね」と言われて、それを喜んでいいのか首をかたむける。
「芽衣奈ちゃんのこと、美人だって思うんでしょ」
「まあ、はい」
「そう思う人にお化粧を教えてもらえるのは、ラッキーだよ」
そうなのかな、と思っていると、すぐに芽衣奈さんがポーチ片手に事務所に戻ってきた。「安桜は仕事でもやってて」と言われて、「はいはい」と安桜さんはデスクに戻っていく。
芽衣奈さんは、テーブルにポーチの中身を引っくり返して、並べていく。そして、「眼鏡取るよ」と言われてから眼鏡を外され、ぼんやりになった視界に目を細めていると、「早めにコンタクト買いなよね」と芽衣奈さんは手にしたボトルからの液体を手になじませる。
「まず下地、化粧水と乳液ね。肌に合うといいけど」
頬にひやりと湿り気が触れて、顔全体になじませる。「肌痛くない?」と訊かれて「はい」と答える。
「よし。それからファンデ。自分の買うときは肌の色を合わせるんだよ。スポンジよりブラシのほうが綺麗に仕上がる」
コンパクトから肌色をブラシにまぶして、それをさっきの湿り気でしっとりしている肌に染みこませていく。
「チークももちろんブラシ。色はピンクにしとくね」
「……ピンク似合いますか」
「かわいくなるよ。まぶたにもチーク軽く入れて。目閉じて」
おとなしくまぶたを伏せると、ブラシが目の上を動く。「そのままで」と言われたので目を開かずにいると、「アイラインとアイシャドウ、軽く入れるよ」とまぶたの縁をなぞられて、眼球を撫でるように触れられ、「よし」と言われてから目を開ける。
「ビューラー使うのはいいけど、使い過ぎたら睫毛切れるから気をつけて。カールがついたら、マスカラで仕上げる」
睫毛をぎゅっと挟んで、くるんとあとをつける。それを黒い液体がついた螺旋のブラシでたどって、「コームで手抜きするより、針で一本ずつ睫毛を梳いてダマを取ってくの」と伸ばすように睫毛に針を通す。
「眉は綺麗にしてるね」
「さすがに、何となく」
「はは。アイブロウで描けばいいね。一本ずつ描く感じだよ」
眉を整えると、「うん」といったん離れて芽衣奈さんは私を眺めて、「仕上げは唇」とまずはリップラインを引く。そしてリップクリームを塗り、何色か重ねてルージュを作り、最後にグロスで彩る。
「よし、これなら眼鏡かけてもかけなくても、美少女でしょ」
芽衣奈さんは私に眼鏡を渡して、私は恐る恐る眼鏡をかける。芽衣奈さんがコンパクトミラーをさしだして、私はそれを覗きこんだ。
思わずまばたきをしていた。睫毛が巻いているおかげか、瞳が大きくきらきらしていて、ピンクのチークで顔色も良く、潤んだ唇も鮮やかだ。
「すごい」と思わず笑みをこぼして芽衣奈さんを見上げると、「ぜんぜんブスじゃないでしょ?」と芽衣奈さんはにやりとする。
「安桜、ほら、あんたも優真梨のこと買いたくなるでしょ」
「買いたくなるのはどうかと思うけど」
安桜さんはそう言いながら作業の手を止め、「どれどれ」とこちらにやってくる。何か恥ずかしいな、と思ったものの、芽衣奈さんが自信満々に背中をはたいてきたので、何だか顔を伏せられない。
安桜さんは私を見つめて、「ふむ」と腕を組んでから、優しくにっこりとした。
「で、いくらって?」
安桜さんはスーツの内側から財布を取り出して見せて、「優真梨やるじゃん」と芽衣奈さんは楽しげに笑う。私はどう反応したらいいのか分からなくて、首をかしげる。そんな私に「冗談だよ」と安桜さんは私の頭をぽんとして、「髪もブローしたらほんとに売り物になるね」と芽衣奈さんを見る。
「ヘアアイロンは部屋だしなー」
「今度やってあげなよ」
「そうだね。あは、無垢な子に化粧仕込むって楽しいなあ」
芽衣奈さんは無邪気に咲ってから、散らかした化粧品をポーチにしまっていく。
私は自分の顔に触れる。嬉しい、けど。このままじゃ帰れないよな、と哀しくなる。両親の渋い顔を思い出して、帰りたくないな、なんて思うけれど、そういうわけにもいかない。
「そろそろ仕事するか」といっぱいになったポーチのファスナーを閉めた芽衣奈さんは言う。「いってらっしゃい」と安桜さんは笑って、「ありがとうございました」と私も慌てて言う。「んー」と答えた芽衣奈さんは、裾ぎりぎりのキャミソールワンピをひるがえして、事務所を出ていった。
私も帰ったほうがいいかな、と思って安桜さんを見ると、「帰らなくて大丈夫?」とやっぱり言われる。
大丈夫、じゃない。早く帰らないと怒られる。なのに、何も言えない。まだもう少し、ここにいたい。安桜さんは言いよどむ私を見つめて、「どうせここは、いかがわしいところだから」とくすりと咲う。
「思いっきりいかがわしく、気が済むまでここにいてもいいからね」
「いいん、ですか」
「僕は構わないからいいんじゃない?」
私は一度視線を落としたものの、再度安桜さんを見上げて「あとちょっといさせてください」と頼んだ。安桜さんは微笑むと「どうぞ」と私の肩をとんとたたき、デスクに戻ってPCのキーボードを打ちはじめる。
私はソファに力を抜いて、家なんかよりずっと息ができる、と天井を見上げた。家にいると息が止まる。学校にいると息が詰まる。
私には、ほっとする居場所がずっとなかった。こんな柔らかな空間は初めてだ。風俗ビルの中の戦う探偵の事務所なんて、本当にいかがわしくて笑えるけれど。
私はここで、やっと安らいで呼吸ができている。
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