ミルク-7

ふたりでごはん

 落ち着いたタイプの音が心地よくて、それ以外は静かで、いつのまにか眠っていた。
 人の出入りが少しあったのはぼんやり感じても、自分で思うより深く眠っているようで、まぶたが重い。やっと目を覚ましたのは、聞き慣れたスマホの着信音が聞こえたときだった。
「え……あ、あれ」
 身を起こして眼鏡を抑え、きょろきょろして安桜さんの事務所にいることを思い出す。
 テーブルに私のスマホがあって、手に取ると『お母さん』と表示されている。時間、と右上の表示を見ると、“23:43”──思いがけない時刻にぎょっとして、これ出たらむしろまずいでしょ、と焦っているうちに着信音がぱたっとやんだ。
「おはよ、優真梨ちゃん」
 涼しい声を目でたどると、安桜さんは相変わらずPCに向かっている。私は手の中のスマホを見て、安桜さんを見て、「あれ」とつぶやいた。
「そういえば、私のスマホ──」
「あの子たちが、車から見つけて持ってきてくれたよ」
「あの子……ああ、あの男の子たちですか」
「そう。悪さもやるけど、お金出せば警備みたいなこともやってくれるんだよねー」
「はあ……」
「今の電話だよね? 出なくてよかった?」
「……こんな時間に帰ってないのに、出たら殺されます」
「親?」
「はい」
「優真梨ちゃんの親、堅そうだよね」
「堅いなんてもんじゃないですよ」
「起こしたほうがよかった? 安眠してたから」
「あ、……まあ。ゆっくり眠れたのは久しぶりです」
「それはよかった」
 私は目をこすって、手の甲についた色に化粧をしてもらったままなのも思い出す。化粧をして。帰宅したとしても深夜で。どうしよう、と思っても、何だか現実感がなくて頭は霞んでいる。
 これはもう今夜は帰らず、友達の家で勉強していて寝てしまっていた、とか言ったほうがいいだろうか。でも、そうなると、どこかに泊まらないといけない。この事務所に泊まるのはさすがにずうずうしいし、でも、制服すがたで街で夜を明かすのは危ないし──
 考えていると、「おーい、来たぞー」と背後のドアが開いて、そんな声がした。振り返った私は、思わずまばたいてしまう。
 芽衣奈さんだ。
「安桜からメール来た。今晩優真梨を預かってほしいって」
 安桜さんを見た。安桜さんはにやっとして「僕とここに泊まるのはちょっと怖いでしょ」と自分のスマホを振って見せる。
 私がほっと息をついていると、「ほら、ごはん食べて帰ろ」と芽衣奈さんは私の手を取る。芽衣奈さんはさっきとは違い、Tシャツにジーンズというボーイッシュな格好をしている。
 私はスマホ以外にかばんも届けられているのに気づいて、それを抱えてソファを立ち上がった。
「じゃあ安桜、また明日ね」
「はーい」
「ありがとうございました」
「またいつでもおいでー」
 安桜さんは私たちに緩く手を振って、「行こ」と歩き出した芽衣奈さんを私は追いかける。エレベーターの前で、「お仕事は」と訊くと、「上がってきた」と芽衣奈さんは金髪の頭をかきむしる。
「よかったんですか」
「客は取ったからね。優真梨は何食べたい?」
「え、と──自分ではらえる範囲のものを」
「あたし出すよ」
「いや、そこはちゃんとしないと」
「そうなの? じゃあ、ファミレスでいいか」
 エレベーターがやってきて、私たちは一緒にそれに乗りこんで、地上に出る。
 零時近いのに、人と光がたくさん行き交って賑わっている。「この街は昼夜反転だからね」と芽衣奈さんは人混みに混ざり、私ははぐれないようにそれを追いかけた。
 私はすれ違い様にぶつかりかけて謝っているのに、芽衣奈さんは慣れた足取りですいすいと混雑を縫っていく。ショートの金髪の毛先がネオンに透けてきらきらしていて、私はそれを目印に、何とか芽衣奈さんについていった。
 ざわめきが飽和して、テイクアウトの店先の匂いがして、帰り道分かるかな、と思いはじめたところで「ここ」と芽衣奈さんが地下に続く階段を示した。急な階段で私は慎重に降りるけど、芽衣奈さんはスニーカーで軽やかに降りていく。
 私も知っているチェーンのファミレスで、ここならはらえるな、と安心してついていくと、すぐガラスの扉があって、中に入ると人数と禁煙か喫煙かを訊かれる。芽衣奈さんは「喫煙」と言いかけたけれど、私を見て「禁煙で」と言い直した。気遣わせたかな、と窺いつつウェイトレスの案内についていき、四人掛けの席で芽衣奈さんと向かい合った。
「煙草よかったんですか?」
「優真梨、苦手そうだから。そんなことない?」
「慣れてはないです」
「でしょ。まあ、部屋に帰ったら吸うけどいいかな」
「芽衣奈さんの部屋ですから」
「ん。ごめんね。よし、何食べようかなー」
 そう言って芽衣奈さんはメニューをぱらぱらめくって、私もメニューを開く。
「肉食いたいなー。あたし、がっつりいっていい?」
「もちろん」
「ハンバーグよりステーキがいいな。ライスも大盛り行こ」
「けっこう食べるんですね」
「食べないときはぜんぜん食べないよ。落差あるんだよね」
「私は、あんまり食欲って感じたことないです」
「ほんとだよ。優真梨、細いもん。ちゃんと肉食いな」
 私は自分の軆を見下ろしてから、「ハンバーグ食べようかな」とつぶやいてみる。
「おう、いいじゃん。あたしリブロースにしよ。デザートはカスタードタルトっと」
「ドリンクバーはどうしますか? 私つけます」
「あたしもつけるよ。優真梨はデザートは?」
「食べれそうだったら追加します」
「よしっ。じゃあ注文だー」
 芽衣奈さんがベルを押して、やってきたウェイトレスに、私たちはひと通り注文する。「かしこまりました」とウェイトレスが頭を下げていくと、芽衣奈さんは先に私をドリンクバーに行かせてくれた。
 私はたくさんのドリンクの前で少し迷ってから、ホットのカプチーノを持って帰る。そのあと芽衣奈さんがドリンクバーに行ってしまい、待つあいだ、私はスマホの音量をオフにしておいた。すごく着信がついているけれど、寝ていたと言い訳するのだから、半端に出ないほうがいいだろう。
 ため息をついて、画面を伏せてテーブルにスマホを置くと、氷をたっぷり入れたアイスティーを持ってきた芽衣奈さんが、咲いながら席に着く。
「彼氏?」
「えっ。いえ、親です」
「出なくていいの?」
「どうせ怒られるなら、明日まとめて怒られます」
「はは。優真梨ってさ、彼氏はいないの?」
「いないですよ」
「じゃ、やっぱ安桜が好きなの?」
「はっ? いや、そんなっ、………」
 何と言えばいいのか口ごもると、芽衣奈さんはくすくすと笑いを噛む。
「あんなのに惚れても、疲れると思うけどねー」
「芽衣奈さんは、安桜さんのこと」
「やだよ、あんなの」
「お仕事サボるときは、事務所に来るんですよね」
「あいつ空気みたいだから、楽なんだよね」
「私も、あの事務所は妙に落ち着きます」
「安桜も、店長にチクらずにサボらせてくれるしね。うーん、安桜かあ。別に嫌いじゃないけど」
「ほかに好きな人がいたりするんですか」
 私の何気ない言葉に、芽衣奈さんは一瞬表情を止めた。そして、「そうかもしれないね」とあやふやに咲う。
 ……あ、立ち入ってしまった。それが分かって、謝りそうになったものの、芽衣奈さんはさっさと話題を変えて表情も切り替えてしまう。
 私はそれに合わせながらも、芽衣奈さんの哀しい笑みの残像に胸騒ぎを覚えた。芽衣奈さんの恋。何となく、つらい恋を抱えているのではないかと思った。
 なのに、好きな人なんて──気軽に振るんじゃなかった。ちゃんと謝りたかったけれど、まもなく料理が一気にやってきて、結局言えなかった。
 普段の私は、お肉どころか食事自体が機械的な行動で気が重い。食べないと死ぬから胃に詰めるだけだ。でも、芽衣奈さんと一緒に取った食事は楽しくておいしかった。
 誰かと一緒に何かを食べること自体、私には初めてなのかもしれない。もちろん、両親と同じ食卓に着いてきたけれど、あのときは会話も笑顔もない。
 いろんな意味でお腹いっぱいになって、ドリンクバーからそれぞれ最後の一杯を持ってきて、おしゃべりが落ち着くと、「あたしの部屋行くか」と芽衣奈さんは立ち上がり、私も続いて席を立った。

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