アイオライトの夜-4

「……でも」
「行かなくていいなら行かないけど」
「いや、行く──けど、ほんとに……一緒に来てくれんの?」
「確かに、黒猫ぜんぜん見かけないから、また見にいってもいい頃だと思う」
「そ、そうだよな。あおこ、マジでどこ行ったんだ」
「それに、本当に願いごとが叶うなら」
「それは、ほんと何かあるって。帰れないように道が変わるくらいだぞ」
「また青い光が来てくれるといいけど。来なかったら……帰れないかもしれないよ?」
「そこは、俺は木淵を信じるわ」
 私は園村くんと視線を重ね、うなずくと「じゃあ行こう」と森のある方角へと歩き出した。
 公園にたどりつく短いあいだに、日は落ちてしまった。それでもいつもより時間が早いから、周りに人がいないか確かめながら、森に侵入した。
 わさわさした雑草を抜けて、看板のそばでもう一度園村くんと顔を合わせると、小道に入る。
 ある程度踏みこんでしまったら、たぶん、また帰り道が分からなくなる。それでも、がさっと音がするたび、びくりとしつつそこを覗いてみた。「いた?」と私が訊くと、園村くんは首を横に振る。
 そんなやりとりを繰り返しながら、小道を進んでいって──急に、その道が細くなって、吸いこまれるように雑草の中に消えてしまっていた。木が生い茂っていて、前方は望めない。
「反対側に抜けちゃったかな」
 園村くんは、首をかしげながら雑草の上を進み、木立のあいだを器用にすりぬけていく。私もそれについていって、急に園村くんが立ち止まったので、背中にぶつかる前に慌てて足を止めた。どうしたの、と言おうとしてはっと息を飲む。
 並んだ木を抜けた先は、月明かりが鮮やかに射しこむほど開けていて、しかも、古い木の家が建っていた。
「え……家?」
「……誰か住んでんのかな」
「こんなところに?」
「管理してるおっさんの別荘か?」
「あ──そうかな。今、人いるかな?」
「分かんねーけど、行ってみるか」
 園村くんは踏み出し、私も続く。家の周りはわりと手入れされている感じで、雑草もさほどぼさぼさしていない。
 用心深く家に近づき、煤けた窓から中を覗くと、がらんとして家具もないのが窺えた。だいぶホコリも溜まって、人が住んでいる様子はない。
「中、入れるかな」
「えっ、それはダメでしょ」
「ここが一番奥のゴールだったら」
「ダンジョンじゃないんだし……」
「ダンジョンみたいなもんだろうが。願いごと叶うぞ」
「……でも、鍵閉まってるでしょ」
 玄関らしきドアを見やると、「どうかなあ」と園村くんはちょっと楽しそうにそちらに向かう。私はだいぶ老朽化したその平屋を見て、何となく壁に触れてみた。
 一応、触れる。幻覚ではないのか。
 当たり前か、なんて思っていると、がちゃっと音がして「鍵開いてるぞ」と園村くんの声がしたので、そこに駆け寄る。
「入ってみるか」
「いいのかな」
「どうせ廃墟っぽいし、いいだろ。行くぜ」
 遠慮しないなあと思いつつ、私も本音では気になったので家の中に入った。「靴脱ぐのかな」と玄関で止まると、「そりゃあ、それはさすがに──」と園村くんは言いかけて、はたとした。
「何で、靴脱がなきゃいけないんだ」
「え、だって──」
「いや、そうじゃなくて。廊下、綺麗すぎね? 外から見たとき、こんな綺麗だったか?」
 私もはっとして足元を見た。無意識に靴を脱ごうと思えるくらいには小綺麗で、溜まっていたはずのホコリもない。
「靴脱がなくていいくらい、ぼろぼろに見えたよな?」
「家具とかもなかった」
「だよな。……逃げられるように靴は履いとこう。土は落としとくか」
 そう言って、園村くんは爪先を地面にとんとんと打ちつけて、土を落とす。私もそうすると、ぎしっときしむ廊下に上がった。
 家の中を見てまわって、ふたりして茫然としてしまった。外からは、本当に、がらんどうの廃屋に見えたのに。台所には白い食器がおさまった棚があり、居間には急須と湯呑みがある座卓が置かれ、浴室は綺麗に磨かれるどころか石鹸の香りさえしたのだ。
「え、もっかい外から、見える感じ確認する?」
 園村くんはとまどって言ったけれど、私は居間に踏みこんで、座卓に置かれていた本を手に取った。本、というか──それぐらい造りはしっかりしてぶあついけれど、めくってみると直筆の文字が並んでいる。
 日記だろうか。ページが進むにつれ筆圧が弱くなり、隔離されて何日目、という書き出しが増えてきた。
『無事、戦争から生きて帰ってこれたと思ったのに。
 どうして結核なんて患ったんだろう、僕は。
 これでは香陽を幸せにするどころか、そばにいることもできない。』
 そんな一節が目に留まって、私は眉を寄せた。
 香陽。
 ……え?
 カヨ、だろうか。だとしたら、何でこんなところに、おばあちゃんの名前が──
「お前たち、ここで何をしている」
 私は顔を上げた。本気でダンジョンと思っているのか、勝手に引き出しを開けていた園村くんも慌ててそちらを見た。
 そこには、蒼白い顔をした袴すがたの若い男の人がいた。
「指輪を見つけたのか?」
 男の人は唐突にそう言って、でも、もちろん私も園村くんもわけが分からない。というか、勝手に家に上がって、引き出し開けるわ日記読むわって、よく考えたらとんでもないことをやってしまった。
 やばい、と焦っていると、男の人は咳をしてから、私と園村くんをぎろりとする。
「指輪はどこにあった?」
「ゆ、指輪って……え、園村くん、意味分かる?」
「はっ? いや、分からん」
「え? じゃあ──どうするの?」
 そのときだ。私と園村くんを睨みつけていた男の人の顔が、蝋だったみたいにどろりと腐り落ちた。肌が溶けて肉がはがれ、骨が覗く。そして半分頭蓋骨になった状態で、男の人はがらがらに濁った声で叫んだ。
「帰れ!!」
 へたりこみながら、耐えきれずに悲鳴を上げた──のと同時に、頭の中にフラッシュが起きた。真っ白な感覚に包まれ、すぐに、ふっと周りに闇が戻る。
 澄んだ虫の声。
 息切れする胸を抑えてきょときょとすると、いつもの公園だった。すぐそばで園村くんが尻餅をついていて、それにはほっとする。当惑してあたりを見まわしている園村くんは、私と目が合うと「え、夢?」と麻痺したような半笑いをこぼした。
 何、だったのだろう。指輪? 日記にあった、おばあちゃんの名前がよぎる。戦争や結核というワード。
 そういえば、おばあちゃんの好きだった人は、病気で──
「指輪って、まさか……」
 ベッドスタンドの陶器の箱の中の指輪がよみがえった。まさかとは思うけど、あの青い宝石の指輪のこと?
「何か……まあ、帰れたのはよかったのかな」
 園村くんがそう言い、私はぎこちなくうなずく。
 指輪のことを言おうかと思ったけど、言ってどうするの? またあの廃屋に行くの? それは、怖い──
「ごめんな、さすがに怖かったな」
「うん……」
「顔面溶けなくていいだろ……ホラーかよ」
「………、」
「木淵?」
「あ……うん、平気。怖かったけど」
「マジでやべーな、あの森。てか、あの男、何だろ。まさか幽霊?」
「服装とか、古かったよね」
「だな。てか、家も外からと中からじゃ見た目違ったし……何なんだよ」
 私は唇を噛んでうつむいた。
 あの人、おばあちゃんの好きだった人? そんな偶然ある? いや、でも私をあの森に呼んだのは青い光で、あれがおばあちゃんだったとしたら……?
 結局、園村くんには何も説明しなかった。ただ、園村くんはその日は私を家まで送ってくれた。「マジで家に電気ついてないじゃん」と彼は驚いて、「帰ってきてたら面倒だからいいよ」と私は門扉を抜けた。「いつでも俺んちに飯食いに来ていいからな」と園村くんは言って、私は曖昧に咲っておいた。
 その翌日に、事件は起きた。
 教室に登校するなり園村くんが近づいてきて、私の腕をつかんで廊下に引っ張り出した。「どうしたの」と訊きながら、園村くんの真っ青な顔に気づく。今まで見たことがない顔色で、思わず不安になっていると、園村くんは消え入りそうにつぶやいた。
「あおこ……」
「猫?」
「見つかった」
「ほんとに!?」
「……死んでた」
「えっ」
「隣町で車に轢かれてた」
「───」
「保健所に迷子届は出してたからさ……連絡があって。両親が確認してきた」
「そんな……」
「……隣町って、そんなとこまで行けたのかよあいつ。何だよ……家猫のくせに」
「い、妹さんは……?」
「まだ、言ってない」
 私は園村くんを見つめた。消沈なんてものでなく、ショックで表情が故障している。
 私は一度顔を伏せ、覚悟を決めると、園村くんの肩をつかんだ。
「もう一度、あの森に行こう」
「は……?」
「私も一緒に行く」
「で、も──あおこはもう……」
「私、あの人が言ってた指輪を持ってると思う」
「えっ」
 私は、日記の中にあったおばあちゃんの名前と、おばあちゃんと指輪にまつわる好きな人の話をした。
「だから、あの人、もしかしたら、おばあちゃんの昔の好きな人かもしれない」
「そんな──」
「私には光が見えたのも、おばあちゃんが誘導してたのかも」
「でも、あいつ、指輪を手に入れてどうするんだ? 木淵にも大切なものなんだろ」
「そうだけど……。園村くんが行かなくても、私ひとりで行くから」
「何でそこまで」
「願いごとを叶えてくれるのは、あの男の人なのかもしれない」
 園村くんは私をじっと見つめて、それから息を吐くと「お前ひとりで行かせられねーよ」と観念したように言った。私はうなずき、「今日の放課後、公園で待ち合わせよう」と約束する。
「俺、いつもより遅くなるかも。もうあおこ探すっつって、何も手伝わずに外出るとかできないし」
「じゃあ、私も遅めに家出るね」
「悪いな、巻きこんじまって」
「ううん。妹さん、あおこちゃんがいなくなって寂しい想いしてるって、分かるから」
「……そっか。ありがとう」
 そのとき予鈴のチャイムが鳴り、私たちは急いで教室に入った。朝陽がまぶしい教室に、本鈴のあと、担任の先生が「おはようございます」と入ってくる。
 私はやけにざわめく心臓に息を飲みこんで、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。うまくいく。男の人の無念も。おばあちゃんの想いも。あおこちゃんの命も。
 全部、うまくいけば──もう、誰も泣かなくていい。
 終礼して学校での一日が終わると、園村くんと一瞬目を合わせて約束を確認してから、家に急いだ。
 スカートがひるがえる小走りで下校して、相変わらず誰もいない自宅に到着すると、部屋のベッドに飛び乗ってベッドスタンドを覗く。陶器の白い箱はちゃんとそこにあって、中に青い宝石の指輪も入っていた。
 おばあちゃん。あの人と結婚したかったんだよね。何であの人がこの指輪を欲しがるのかは分からない。けど、たぶん、渡してもいいよね。だから、私をあの森にいざなったんでしょう?
 すぐにでも森に向かいたかったけど、園村くんは今日は遅くなるようなことを言っていた。そわそわして落ち着かないものの、かといって、公園でぼーっと待っているのは焦れったい。屋外で待ちぼうけるには、まだまだ残暑だって厳しいし。
 仕方なく私は、クーラーをかけた部屋で私服に着替えて宿題に取りかかった。けれど、なかなか集中できずにシャーペンを無意識にもてあそび、同じ問題をぼんやり見つめてしまう。結局そんなふうに無為に過ごしていると、ノートの白いページがほのかに赤みがかって染まりはじめた。
 顔を上げると、レースカーテンも夕暮れの茜色になって柔らかく光っていた。時刻は十七時半をまわったくらいだ。日が落ちるのも早くなったから、十八時には暗くなってしまうだろう。
 そのくらいに公園には向かっておこうかな。そう思いつつ、宿題をあきらめてノートを閉じたときだった。
 聞き憶えのある、車のエンジンの音がした。心臓がどくんと揺れて、まさかとつくえを離れて部屋を出る。階段の下にある玄関を、用心深く窺う。
 ……嘘。嘘でしょ。今日に限って──。
 かちゃっと鍵を開ける音が響いて、私は息を殺して部屋に飛びこんだ。
 最悪だ! 車だし、おとうさん? 何でこんな日に限って早く帰ってくるの。今日が一番大切な日なのに。わざとじゃないにしたって、邪魔してくるなんてひどいよ。
 もくもくと胸に不穏な雲があふれてくる。いつだって私の思惑を無視する親へのかすかないらだちと、急に眼前を遮断した壁への不安が綯い混ぜになる。
 でも──私は行かなきゃいけない。園村くんと約束した。それに、きっとおばあちゃんのためでもある。おばあちゃんは、この大事な指輪を、おかあさんでなく私に預けた。それは、いずれこうして、あの男の人に受け渡すのを私に託してくれたということなのだ。

第五話へ

error: