ミルク-13

踏み躙られた痕

 夕方に事務所に戻ってきた安桜さんはPCに向かっていて、私は洗濯物をしたり食器を洗ったり、夕食を作ったりする。
 料理なんて本格的にやったことはなかったけれど、ここではなるべく手料理を心がけている。スマホでレシピサイトを見て、それを見ながら買い物をして慎重に料理する。今日は牛肉の甘辛炒めと洋風茶碗蒸し、あとはごはんを炊いてお味噌汁も作った。
 それを奥のワンルームでテーブルを出して、作業にキリをつけた安桜さんと食べる。「手料理なんて、家を出て以来食べなかったなー」と安桜さんは茶碗蒸しのベーコンを噛みしめる。
「安桜さんって、いつから探偵やってるんですか」
「高校時代かな」
「私のときくらい?」
「だね。高校は行ってたし、勉強もできたよ」
「何かそんな感じします」
「でも、高校は息苦しかったな。だから、この街で生きていくための下準備をしてた。大学進むように見せてたけど、ばっくれてこの街で生活していくようになったんだ」
「そうなんですか」
「僕さ、姉がいたんだよ」
「おねえさん」
「うん。仲良し姉弟ってわけでもなかったけど、気心は知れてた。その姉がね、僕が高校生のときに死んだんだよ」
「えっ……」
「就職先がすごいブラックでね。ノルマが異常。期限内に終わらせるために、残業で家に三日以上家に帰れなかったり。しかも残業代は出ない。仕事以外も、研修に強制参加で休みもない。さすがに体調を崩してね、一日でもいいから休ませてくださいって言ったら、上司は人手不足も理解できないのかって怒鳴って」
 安桜さんは油揚げのお味噌汁をすすって、かすかに視線を暗くさせる。
「『死なないと休憩時間もないよ』、ってねえさんがSNSでつぶやいてたのを、自殺のあとに見つけた。とうさんもかあさんも泣いてた。意外かもしれないけど、僕、両親とは今も連絡取りあってるんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「ねえさんのことがあったから、好きにやって、せめて生きてくれるならそれでいいって。大学ばっくれたときはもちろん怒られたけど、この仕事が僕のベストの仕事なら、やっていいよって」
「いいご両親なんですね」
「うん。きっと優真梨ちゃんのことも気に入ってくれるよ」
「こんな子供、びっくりするんじゃないですか」
「優真梨ちゃん、僕よりしっかりしてるからなー」
 安桜さんは笑って、お味噌汁のお椀を空にする。
 でも──そうなんだ。安桜さんも、この街に暮らすのだから過去に何かあるのかなと思ったことはあったけど、そんなおねえさんがいたのか。
「ブラック企業って入らないと分からないから怖いですよね」と言うと、「まあ優真梨ちゃんは」は牛肉とごはんを口に入れて飲みこむ。
「僕に永久就職するから大丈夫でしょ」
「は……はっ? えっ、あ──そう、なんですかね」
「してくれないの?」
「いや、ナチュラルにそういう話に持っていかれると、まだ慣れないというか」
「えー、つきあうなら僕はどんどん攻めるよ」
「嬉しいんですけど、しばらくは緩めでお願いします……」
 安桜さんは私を見つめて、くすりと咲うと「じゃああんまり変わりなく」と言った。「すみません」と私が茶碗蒸しをスプーンですくうと、「でも、ときどきイジメるね」と言われて、何だか負けたため息をついてしまった。
 それから安桜さんは事務所に戻り、私も片づけた食器を洗うと事務所のソファに座り、明日は何作ろうかなあなんてスマホで無料閲覧できるレシピサイトを指でなぞっていた。
 がちゃっ、と背後で音がして、かえりみてしばたく。ミニのチャイナドレスすがたの芽衣奈さんだった。「疲れたー」と言いながら、芽衣奈さんは私の正面のソファにどさっと座る。
「お疲れ様です」と私が言うと、「んー」と芽衣奈さんはソファを座り直した。
「あー、仕事やってると、現実に引き戻されるなあ。せっかく絃音に会ったのにー」
「昨日はどうでしたか」
「いつも通り。朝まで一緒にいて、あの子ぜんぜん咲わなくて、別れたあと無力だなあってひとりで泣いた」
「……そうですか」
「でもね、別れ際に絃音に『好きだよ』って言われた」
「えっ」
「前はちょくちょく言われてたけど、久しぶりだったなあ」
「何て答えたんですか?」
「答えるというか……『そっか』って」
「芽衣奈さんも『好き』って答えなかったんですか」
「そういう『好き』じゃないでしょ」
「分かんないじゃないですか」
「分かるよ。あたしの『好き』は違うんだよなーって、哀しくなるんだよね。こっちだけ惚れてて申し訳ないし」
「………、絃音さん、芽衣奈さんがいるから生きてられるって言ってましたよ」
「え」
「自分がどんな汚くなっても、芽衣奈さんはそばにいてくれて、だから生きられるって」
 芽衣奈さんは私を見つめて、あやふやに咲うと、「あたしに言えよなあ……」と天井を仰ぐ。「すみません」と言うと、芽衣奈さんは首を横に振り、煙草を取り出して火をつける。
「絃音さんは、好きだって言うと芽衣奈さんが哀しそうだから、迷惑と思われたくなくて『好き』って言うのは我慢するようになったって」
「……そっか」
「昨日話してて、私は、絃音さんにはすごく芽衣奈さんが支えなんだなって感じました」
 芽衣奈さんは少し照れるように咲って、「ありがと」と煙草をふかした。
「でも、あたしは相変わらず絃音をあんな仕事から助けられそうにないし。今度はSMされるとか言ってた。乱暴にされるのかな……つらいな」
 芽衣奈さんは膝を抱え上げ、白い脚を抱きしめる。
「優真梨、今夜うちに泊まりにおいでよ」
「え」
「ひとりで泣くと、頭の中がぐちゃぐちゃで死にたくなるから」
 私は安桜さんを見た。安桜さんはうなずいてくれて、「じゃあ、今夜は一緒に寝ましょう」と芽衣奈さんに言った。煙草を燻らす芽衣奈さんは、まだちょっと陰が差した表情だったものの、うなずいて緩やかに微笑んだ。
「──安桜さんって、この街で顔役って聞いたんですけど」
 芽衣奈さんが予約の時間が近いと言って事務所を出ていくと、私はコーヒーを淹れて安桜さんのデスクに持っていった。安桜さんはそれを受け取り、ひと口すすって「うまい」と言ってくれる。私はそれに微笑してから、改まってそう言った。
「え? そうなの?」
「芽衣奈さんはそう言ってましたよ」
「しがない戦う探偵です」
「もし、絃音さんを助ける方法を見つけてほしいって依頼されたら、どうにかすることはできますか?」
「えー……、まあ、依頼されたら手は尽くすけど、絃音くんを縛ってる事務所の弱みでも握らないとなあ」
「弱み」
「でも、AVの事務所ってガード堅いんだよね。優真梨ちゃんのときも、ひとり失明したくらいでは何も明るみに出なかったでしょ? なかなかむずかしい」
 そうなのか、と私は息をつく。「僕も助けてあげたいけどね」と安桜さんは言って、私もこくんとする。
 せめて、絃音さんをあんな仕事から救ってあげたい。本人の意思で出演するAVはともかく、あんなの性的搾取だ。みんなを楽しませるために自分を殺して、事務所に甘い汁だけ吸われて。そんな、心を蹂躙する侵害はない。
 深夜、仕事を終えた芽衣奈さんがまた事務所に来て、私は着替えなどを準備していたリュックを持って、再び芽衣奈さんの部屋を訪ねた。
 傘は持ってきたものの、ちょうど雨はやんでいた。

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