ナーシャは夜に舞う-3

言えない気持ち

〈ナーシャ〉は零時を過ぎると、いよいよ盛り上がってくる。僕とママしかいない日、対応が追いつかなくなったら、紗鈴ちゃんがやむなくホールに出ることになっている。黒服のままでなく、貸し衣装を着て。
 でも、紗鈴ちゃんは明らかに表に出るのが苦手だ。ろくに話せないし、ちゃんと咲えないし、ぜんぜん歌えないし。極めつけに水割りを作る手つきも危なっかしくて遅い。
「この子より、あのにいちゃんつけてよ」と客に言い出されたりもする。そして、確かに少なくとも、お酒を作るのは瑞砂くんのほうが手際がいい。最低限の会話、愛想笑い、カラオケはかわすぶん勧めるのがうまい。
 紗鈴ちゃんが隅でぽつんと座ってしまっていると、瑞砂くんはさりげなくカウンターをしめして下がっていいことをしめす。ドレスを引きずって紗鈴ちゃんがおとなしく引き下がろうとすると、「陰気な子は嫌よねえ」とママが笑って、「ママのほうが華があるね」と客も容赦ない。
 僕は紗鈴ちゃんがカウンターの仕事を再開するのを見て、「アイスもらってきますねー」とちょうど氷がなくなっていたアイスペールを手に取って、立ち上がる。
 踊ったりしている客をよけ、「咲羽ちゃんが通りまーす」とか言いながらカウンターの前に出て、スタッフ専用のドアから中を覗きこむ。
 紗鈴ちゃんは、シンクに溜まりまくったグラスを洗っていた。泡まみれの手に、ぽたぽたと涙を落としている。
 やっぱり、そうだと思った。
「紗鈴ちゃん」と僕が優しい声をかけると、紗鈴ちゃんははっとこちらを見て、でも濡れた手で涙をぬぐえなくてまごつく。
「あ、……あの、私、」
「大丈夫、ママには言わないから」
 僕はそう言って、ドアの中に入り、怖がらせないように笑顔を作る。
「……すみま、せん」
「ううん。泣きたかったら泣きなよ。ママ、ほんとに言うこときついからね」
 紗鈴ちゃんはうつむき、唇を噛むものの、ぽろぽろと頬を濡らす。
「紗鈴ちゃんはさ、よく続いてると思うよ? 実はオカマバーでしたなんて、普通、二日目でばっくれるよ」
「………、ほかに、仕事がないので。ほかのお店は、女ってだけで裏方じゃなくて接客させられるんです」
「ホステスやったことあるの?」
「少しだけ」
「昼の仕事はしないの?」
「……面接で、目が死んでるって言われて」
 失礼ながら、噴き出してしまった。昼の仕事の面接って、そんなことを言われるのか。
「僕は、紗鈴ちゃんがカウンターにいると安心するよ」
「……え」
「つらいかもしれないけど、ここにいてほしいな」
 クーラーボックスを開けて、ざくざく混ぜ返してアイスを補充すると、紗鈴ちゃんの隣に行った。
 紗鈴ちゃんはサーモンピンクのビスチェドレスのままだ。柔らかそうな腕や丸っこい肩、胸も意外とある。紗鈴ちゃんも僕を見て、何だか臆面する。
「何?」と紗鈴ちゃんの黒のショートボブを撫でると、「咲羽さんは綺麗ですね」と紗鈴ちゃんは言った。
「そう? ありがと」
「男の人に見えないです」
「それに命かけてますから」
「……うらやましいです」
「うらやましい」
「私は、咲羽さんみたいにかわいくないし」
「かわいいよ」
「………、でも、」
「大丈夫、紗鈴ちゃんはかわいいよ」
 紗鈴ちゃんは濡れた瞳で僕を見上げた。
 かわいい。くそ、ほんとにかわいいな。紗鈴ちゃんは、ぶっちゃけ本当に仕事ができない。それでも僕は、彼女にこの店にいてほしい。だから泣きそうなときはそばにいるし、勇気づける言葉もかける。
 僕はこの、不器用すぎる女の子が好きなのだ。守ってあげたくなる。下手くそなりに、何とか合わない仕事をこなそうとするすがたに、いつのまにか本気で惚れてしまった。
 だけど──
「咲羽さん。テーブル戻れますか」
 ふと、背後にそんな淡々とした声がして、舌打ちしそうになる。
 瑞砂くんだ。僕は紗鈴ちゃんの頭から手を引き、軽く息をついて「うん、もう戻るよー」と笑顔をかたちづくった。
「じゃあね、紗鈴ちゃん」
「あ……、はい」
「お互い頑張ろ」
 そんな僕の声は、届いているのかどうか。「紗鈴ちゃんも着替えてください」と瑞砂くんに声をかけられた紗鈴ちゃんは、見るからに頬を染めてうなずいた。
 こうなのだ。だから紗鈴ちゃんは、僕の気持ちに気づかない。彼女はきっと、瑞砂くんのことを想っている。ちなみに、瑞砂くんは何を考えているのか分からないけども、紗鈴ちゃんの面倒をよく見ているのは確かだ。
 はっきり告らないと伝わらないんだろうなあ、とアイスペールを片手に席に戻る。団体がひとつ帰ったのか、一番奥のテーブルが空いていた。
 残るふたつのテーブルはまだ騒がしく、僕とママがそれぞれについてお酒を作ったり話題を切り出したりする。僕の席の客は常連だけど、その中に知らない男がひとりいた。出張でこちらを訪問している、支店の社員なのだそうだ。
 もてなされているわけで、僕の隣に座っている。彼は僕に向かって「かわいいね」を連発し、「肌もすべすべだ」とやたら軆にも触る。甘えるように肩にもたれてきて、面倒臭いなあ、と思いつつ主賓みたいなのでにこにこしていたら、不意にその男の息が耳元にかかった。
「ねえ、今夜、僕が泊まってるホテル来ない?」
 僕は男を見て、困った笑顔を見せてから、「僕、ちんこありますよ」と率直に答えた。「分かってるけど」とふくらみのない胸をなぜか触ってくる。
「咲羽ちゃんなら、俺、いけるかも……」
 僕は胸元にある男の手をつかみ、優しく握った。その左薬指には指輪がある。
「奥さん、いるんでしょう? それとも彼氏ですか?」
「……彼女だよ。というか、婚約者」
「こんなとこで男と寝たら、彼女さん泣きますよ」
「どうせばれないよ」
「そうかなあ。僕は怨まれたくないなあ」
 そんな押し問答をゆるゆる続けていると、察した連れの常連が「奈美子なみこちゃんにチクるぞーっ」と割りこんできてくれて、何とか僕はねっとりした口説き文句から逃れた。
 水割りを作りながら、酔ってるから仕方ないけどさあ、と思う。僕ならいけるかもなんて言って、朝、本当に男が隣で寝ていたら発狂するのだと思う。
 そのテーブルの客も帰ると、ママがいるテーブルのヘルプに入った。
「誘われてたわねえ」と着物のママがけらけら笑い、「気づいてたなら、瑞砂くん発動させてくださいよ」と僕はむうっとふくれる。「あれくらい自分でどうかなさい」とママはあしらい、「咲羽も一杯いただいていいですか?」と隣の恰幅のいい客に問う。
「おう、飲め飲め」
 ロックを飲むその客の承諾をもらって、ママはぱっと僕の水割りを作ってしまい、コップを受け取った僕は「いただきまーす」と乾杯してひと口飲んだ。
「この子もママも、名前、『ナーシャ』じゃないんですね」
 店内を見まわした三十代くらいの男の客が言って、ボトルの主らしいロックの客が笑う。
「何か意味はあるんだよなあ」
「あら、ノリさん。以前お話したじゃないの」
「そうだったか?」
「ナーシャっていうのはね、女性の名前なの。目覚めるとか復活したって意味がある女の名前なのよ」
「へえ」と連れの客たちがうなずき、「ママは女として復活したわけだ」とロックの客が笑う。
「そう! 本当のすがたに目覚めたら、あたしは女だったのよ。それから、この店でママとして第二の人生を歩んでるの」
 その話で盛り上がっている隙に、僕は烏龍茶と水割りのコップをすりかえておく。
 目覚めた、復活した女。まあ、僕は男だけど。女装にはあのとき目覚めたな、と初めてセーラー服を着たときを思い出す。
「咲羽は胸作ったりしないのか?」
 紫のキャミソールワンピで、明らかに胸がない僕はロックの客に訊かれ、「僕はオカマじゃなくて、男の娘なんで」とにっこりする。ウィッグの長い髪が肩を流れる。
「女装が好きなだけです」
「じゃあ、好きになるのも女か」
「どっちもいけますよ」
「咲羽のそのへんってややこしいわよねえ。しかもリバでしょう」
「そうですね。タチの女の子にバイブで攻めてもらいますし、ムキムキのおにいさんを掘ることもあります」
「すごい世界だな」
 言いながらロックの客は楽しそうで、「その逆もあるってこと?」とほかの客が突っ込んでくる。
「ありますよ。クンニできますし、メスイキもします」
「えー……結局、どれが一番いいの?」
「どれってないですね。全部好きです。セックスが好きです」
「ふふ、一番最近はいつなのよ?」
「………、今は仕事がいそがしいわけでして」
「やあねえ、そこまで言っておいて照れることないでしょうに」
「いや、やりたいですよ? でも、相手探しにいくのがめんどいんです」
「さっき誘われてたじゃないの。わりといい男だったじゃない?」
「浮気相手になるのはちょっと」
「じゃあ咲羽、俺はどうだ? 離婚したから、浮気でも不倫でもないぞ」
「待って、ノリさん! それなら、あたしを持ち帰ってちょうだいよ」
 真剣に「ノリさん」の腕にしがみつくママに、つい咲ってしまう。
 ママはほんとに女だよなあ、と思う。手術もして、心だけでなく軆も女だ。僕とは違う。僕は性器を切り落とすなんてとんでもない。こんなに気持ちいい器官なのに。でも、ママにとってはぶらさがっているなんてひどい屈辱だったのだろう。
 午前三時、酔っぱらった客がみんな帰っていって、僕はカウンターでミネラルウォーターを一杯飲んだ。瑞砂くんと紗鈴ちゃんは、片づけにいそがしそうだ。ママは電卓をたたいている。
 今日も疲れたなあ、なんて照明を上げた天井を見上げたのち、めいめいの三人に挨拶をして、僕は〈ナーシャ〉をあとにした。階段を降りて地上に出ると、スマホをひらく。
 いくつかの着信の中で、泪音からのメッセがあった。
『今夜のショウは、僕がトリだよ~。』
 泪音の勤める〈モイストローズ〉は朝五時までやっているから、トリなら間に合う。たぶんそのあと〈ピーチィミルク〉で飲もうということだろうし、観にいくか。
 そんなわけで、〈ナーシャ〉から駅に向かわず、クラブやライヴハウスが乱立している通りに出た。〈モイストローズ〉は少し路地に入った先にあり、その路地では、男同士が軆を重ねたり手をつないで口づけあっていたりする。
 その中を、女に見える僕が歩いていくのは目立つけれど、「女が来るな」なんて因縁をつけてくるホモはいない。仮にそう言われても、スカートをめくって股間を確認させればいいだけだ。

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