アイオライトの夜-5

 一階で、話し声が聞こえた。ひとり言ではなさそうなので、おかあさんも帰ってきたのか。
 何で。ほんとに何で。締めつけるようにそう思いながらも、私の心は静かに決まりはじめていた。
 両親が家にいる。
 だから今夜は行けない。
 そんな選択肢、私にはない。
 立ち上がると、指輪を箱ごと上着のポケットに入れた。部屋の中を夕闇が侵蝕しはじめている。ふうっと息を吐くと、表情をきゅっと締めて部屋を出た。
 ゆっくり階段を降りると、やっぱりおとうさんとおかあさんが帰ってきたところだった。現れた私のすがたを見て、「澄澪、よかった」とおかあさんがめずらしく微笑む。
「呼びにいこうと思ってたのよ」
 私は不信感をたっぷりこめた目を両親に向け、それから、あえて無言でふたりのそばをすりぬけると玄関で靴を履こうとした。
「え、ちょっと澄澪っ。どこに行くの? 何か用事があるの?」
「……やっぱり、友達との約束があるんじゃないか」
 思いがけず、おとうさんがそんな穿ったことを言うので、驚いて振り返ってしまった。そんな私に、おかあさんも引き留めようとした手を引っこめる。
「そう……なの? そうね、もう中学生だものね……」
「だが、こんな時間からなのか? 少し遅い気もするが」
「もし夕食をご一緒するなら、この時間でしょう」
「……そうか。残念だな」
「でも夜道は危ないわね。澄澪、車で送ってあげるから、少し待ちなさい」
 何? 何だろう、このもやもやした感じ。
 このまま、うん友達の家に行くね、そこで夕飯もいただくねと言えば、難なく家は抜け出せそうな感じだ。
 けど、それって何なの? そんなにおとうさんもおかあさんも、私との時間がどうでもいいの? 久しぶりに早く帰ってきたんだから、夕飯ぐらい一緒に食べようとか、ちょっと強引にもしてくれないの?
 そんなに、私に興味がないの……?
 唇を噛んだ。ついで正面に向き直り、玄関のドアを開けた。名前を呼ばれたけど、無視して家を飛び出した。夜は始まったばかりで、日中の熱気がまだ名残る道を走りながら、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてくる。
 私って、何でこんな虚しいんだろう。
 誰にも愛してもらえてない。
 おばあちゃんがいなくなって、私のことを考えてくれる人なんかいなくなってしまった。
 なのにどうして、こんなにも息苦しいのにどうして、私はまだ生きているの?
 公園に着くと、「木淵!」と呼ばれ、私は息切れをはずませながら顔を上げた。そこには私服になった園村くんがいて、「お前のほうが遅かったなー」とか言いながら駆け寄ってくる。
 私は目を腕でこすり、その所作で「えっ」と園村くんは初めて目をしばたいた。
「何、泣いてる? 何かあったのか?」
「……早く行こう」
「え、」
「親にがっかりしただけ。何でもない」
「親、って──帰ってきたのか?」
「いいの、あんな人たち。早く森に行こう」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
「もし何かあったなら、明日にしても……」
「いいの、気にしないで。大丈夫だから」
 そう言って、私は園村くんの手をつかんだ。園村くんはどきっとしたようにその手を見てから、「……そうか」と小さくうなずき、手を握り返してきた。
 手の熱が、同化していく。そうして私たちは、並んで帰らずの森の中へと踏みこんだ。
 あおこちゃんがいるかどうかは、もう気にしなくてよかったから、脇目も触れず、ずんずんと小道を歩いていった。たまに園村くんが物言いたげに私を見てくるけど、何も言わない。私は感情をこらえるために、園村くんの手をただ強く握っていた。
 葉陰で心もとない月明かりの下で、あの家にたどりつくまで足を動かした。やがて小道が途切れ、前方をふさぐ木立の隙間も抜ける。
 木造の家は、今夜も月の光を浴びながら、ささやかな野原の中に建っていた。
「指輪は、持ってきたのか?」
 立ち止まると、やっと園村くんが口を開いた。私はこくんとして、ポケットにある箱と中身を園村くんの手に渡した。「青い光だ」と月光に輝いた宝石に、園村くんがつぶやく。
「あおこの眼みたいだ」
 園村くんの顔を見た。園村くんはやはり少しつらそうに微笑んだ。そして私に指輪を握らせると、「木淵にはおばあちゃんが必要だよ」と言った。
 私は黙って目を伏せ、指輪をポケットに入れると、「あの人に渡そう」と玄関へと踏み出した。園村くんも隣を歩いてくれる。
 家の中に入ると、やっぱりそこには、ホコリっぽい空気さえただよっていなかった。居間に向かい、ふたりしてきょろきょろするけど、あの人のすがたはない。現れそうな気配もない。
「ねえ、指輪持ってきたよ!」
 私が声を上げても、男の人は出てこない。「何か出てくるスイッチあるんじゃね」と園村くんが相変わらずゲーム脳なことを言う。
 でも、確かにそうかもしれない。昨日私は、男の人が現れたとき、日記を読んでいた。園村くんは引き出しを開けていた。どちらが“スイッチ”かは分からないから、どちらも試すことにした。
 私たちはつないでいた手を離すと、私は今日も食卓に置かれている日記帳を手に取った。園村くんは「どの引き出しだったかな」とか言いながら適当に引き出しを開ける。それでも何も起こらず、私は何気なく日記帳をぱらぱらとめくってみた。
 香陽。
 おばあちゃんの名前が、私の瞳に映ったそのときだ。確かにポケットの中で、静電気が起きたようなぱちぱちっという音がした。日記帳を座卓に置いて、慌てて取り出すと、箱の中からふわりと指輪だけ空中に浮かび上がる。
「香陽の指輪……! やっと見つけた……!!」
 そんな声がしたかと思うと、目の前に昨日の袴すがたの男の人がふっと浮かび上がった。私が目をみはってかたまっていると、男の人は指輪に手を伸ばし、泣きそうな声をこぼす。
「これで、やっと、香陽との約束が果たせる……」
 そして、男の人の蒼白い手が優しく指輪をつかむ。指輪がまとっていた青い光も、ふわりとその手の中に収束した。
「約束……って」
 男の人はゆっくりまばたきをして、私をその瞳に映した。昨日の怒りに満ちた瞳とは違い、落ち着いた色合いをしていた。
「おば……香陽さんと、何か約束をしていたの?」
「……出征する前に、帰ってきたら結婚しようと約束していた」
「結婚……」
「戦争を生き残ったのに、僕はすぐ結核を患って、ほどなくして死んでしまった」
 結核。確かに日記にも書いてあったし、おばあちゃんも言っていた。好きな人は病気で亡くなったと。
「残された香陽は、僕の弟と結ばれた」
「えっ」
「香陽が僕の家に嫁ぐことは、もう変えられなかった。だから、弟が香陽を受け入れた」
 じゃあ、この男の人は私の親戚でもあるの? おじいちゃんの顔も知らないから、面影では判断できない。
「え……と、じゃあ、香陽さんと弟さんは、愛し合ってなかったの?」
「僕を失った哀しみを、お互いで埋めていた。立派な伴侶だったと思うし、僕も弟を怨んでいない。ただ──」
「ただ……?」
「今いる世界では、今度こそ、僕が香陽と結婚したい」
「結婚できるの?」
「そのために、この指輪が必要だった。僕が香陽に愛を誓った証だ。これが見つからなくて、僕も香陽も弟も困り果てていた」
 ああ、そうか。だから、ずっと探していたのか。おばあちゃんも、そのために私をこの森に呼んだのだ。
 ようやくすべてに納得していると、男の人は私をまっすぐに見つめてきた。
「僕は一度死んだのに、指輪を探すためにこの世に戻った。その代償をはらわないといけない」
「代償?」
「指輪を見つけてくれた人の願いを叶えることだ。もちろん僕自身に何も力はないが、責任をもってその願いを預かろう。きっと叶えてもらえる」
 息を飲みこんだ。願いごと。本当に、叶えてもらえるの? 何でも? だとしたら──
 私は、引き出しを開ける手を止めたままぽかんとしている、園村くんをしめした。
「彼の家で飼ってる猫……あおこちゃんを生き返らせてあげて」
 私の言葉に、ぱちんと意識がはじけたように、園村くんが変な声を出す。
「は……はっ? 何言ってんだよっ。お前はおばあちゃんを……」
「何も聞いてなかったの? おばあちゃんがこっちに帰ってきたら、またふたりの結婚が先になるじゃない」
「そう──だけど、でもっ、」
「願いはそれでいいのか?」
「はい!」
「分かった。迎えにきた者に必ず伝えよう。きっと受け入れてもらえるはずだ──」
 そう言いながら、男の人のすがたはすうっと霧のように薄く溶けはじめた。そして、その霧は開きっぱなしの日記帳に吸いこまれていき、すべてそこに飲まれると、ぱたんと日記帳は勝手に閉じてしまった。
 ついで、綺麗に見えていた家の中が、一瞬にして老朽化していってぼろぼろの廃屋になる。「うおっ、蜘蛛の巣!」と園村くんも慌ててその場を飛び退き、「出たほうがいいかも」と私の手をつかんで引っ張ってきた。
 私は園村くんとその家を抜け出して、野原を少し行ってから振り返った。家そのものまで消えてたりはしていなかったけど、もしかしたら、あの家は私と園村くんにしか見えていないのかもしれないなんて思った。
 帰り道は、行きと同じく小道が一本で、迷うこともなかった。帰れない魔法だか呪いだかも、解けてしまったのだろうか。雑草をかきわけて道路に出ると、公園まで戻って街燈の元で立ち止まる。
 園村くんと一緒に、大きな息を吐いた。
「あおこちゃん、生き返るかな」
「大丈夫っぽい気がするけど。あの人を信じようぜ」
「……そうだね」
 私がうなずくと、不意に園村くんはつないだ手をきゅっと握りしめてきて、「えっと」と何やら言葉をつっかえさせた。
「ん、何?」
「いや、その……」
「うん」
「お礼、というか」
「えっ? いいよ、そん──」
 なの、と言い終わる前に、園村くんは私の手を引っ張って前のめりにさせると、そのまま頬に素早くキスをしてきた。
「……はっ?」
 思わずそんな声が出る。
 え……。え? 何?
 混乱する私に向かって、園村くんは頬を染めながら言う。
「ずっと、その……木淵が、好きでした」
「は……あ!? ずっ……と、って、え、こないだ初めて話したのに、」
「入学式に一目惚れでした」
「え? え……えええ……」
「もちろん、今回のことはあおこのためでもあったけど、俺は木淵と毎晩一緒に過ごせるのも嬉しくて、だから──」
 ばつが悪そうな園村くんを、茫然と見つめる。だんだん頬も軆も熱くなってくる。
 好き。一目惚れ。園村くんが、私に──何だかくらくらしてきた、そのときだった。

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