馴染めない彼女
僕も〈ナーシャ〉に来る前に、ボーイをやったりしたから分かるけれど、黒服ってけっこう厳しい。
店の底辺だし、仕事量は多いし、そのわりにキャストに較べて時給も低い。騒がしい中での聞き取り、ボトルの種類を憶える記憶力、電話での対応力も必要だ。
中でも、客の名前とボトルを一致させるのが、重要な上に大変だ。もちろんボトルにはネームプレートがかかっていても、何十本もあるキープボトル中から瞬時に探し出すのに、ネームプレートで探していたらキリがない。
瑞砂くんは、例によってそれをさらりとこなしていても、紗鈴ちゃんは、何とかさんのボトルと指名されると、棚の前でおろおろしている。
そして、今日はミスをしてしまった。よりによって、僕でなくママのテーブルに、違う客のボトルを持っていってしまった。「松本さん、このボトル入れてくれてたかしら」とメイドコスのママがすかさず気づいて、客は自分が入れているボトルの銘柄と年代を伝えた。ぜんぜん違う酒で、ネームプレートを確認すると、「松本」でなく「町本」という名前があった。
ママはうんざりしたため息をつき、「ごめんなさいねえ」とまずは松本さんのボトルを持ってきて、お酒を作った。そして、僕にアイコンタクトをよこして、「何だか消火活動してきますね」なんて笑いを取りながら、僕は立ち上がった。
ママは僕に事情を説明すると、松本さんの席を任せ、パニエでふくらんだスカートから伸びる長い脚で、ずんずんとスタッフ専用のドアの中に入っていった。カウンターにいた瑞砂くんがちらりと振り返り、小さな息をついている。ママが紗鈴ちゃんに、カミナリを落としているのだろう。
客の注意がそちらに向かって気まずくならないよう、僕は努めて明るい声と笑顔で、「これで咲羽と勝負したい人!」とテーブルにあったポッキーを一本取った。
「ポッキーで勝負って言ったらあれ?」
そう言われて、「うまくいけば、僕の唇がもらえるあれです」とにやりとする。「でも、君も男なわけだし……」とヒイてしまう人もいたけど、「咲羽ちゃんなら俺オッケー!」と挙手してくれる客もいる。
そういう人と僕がポッキーゲームをして、テーブルがにぎやかに盛り上がってくると、「あら、楽しそうね」とママがにこやかに戻ってきた。僕は負けて変な命令をされるよりは、遠慮なくかじっていって、ぱくりと客に口づける。泪音みたいに、ディープキスまではできないけれど。
「何か目覚めそう……」と言う客にくすくす咲っていると、「ありがとう、咲羽」とママがささやいてきたので、「はあい」と僕は立ち上がった。「ごちそうさまですー。咲羽でしたー」と飲みかけの水割りと共にその席をあとにして、コップをカウンターに持っていった。
「はい、これ」
奥にいた瑞砂くんがこちらに顔を向け、「ありがとうございます」と相変わらず淡々と応じる。
瑞砂くんの向こうには紗鈴ちゃんがいて、目を真っ赤にして泣いている。
「紗鈴ちゃん──」
「大丈夫です。咲羽さんはテーブルについてください」
僕と紗鈴ちゃんをさえぎるように、瑞砂くんは言った。僕はむっとしたけれど、確かに今は、紗鈴ちゃんを励ましているヒマはない。
僕は深いスリットの入ったムーンイエローのドレスをひるがえし、「消火しましたー」とか言いながら元のテーブルに戻った。
そのテーブルの客が、午前二時過ぎに帰ってしまうと、僕は五分だけ休もうとスタッフ専用のドアの中に入った。
僕に会釈した紗鈴ちゃんと瑞砂くんは、帰った客たちのグラスを洗っている。食器洗いひとつにしても、瑞砂くんのほうが手際がいい。
「すみません、遅くて」
自覚があるのか、紗鈴ちゃんが小さく震える鈴のような声で言うと、「気にしないでください」と瑞砂くんは答える。
「そのぶん、俺が洗えばいいんで」
「……はい」
「グラス割らないようにしてくれたらいいです」
「ありがとう、ございます」
「いえ」
優しい言葉だけれど、瑞砂くんの口調はそっけない。その気がないというか。紗鈴ちゃん、そこそこかわいいのに。やっぱ彼女でもいるのかなあ、と僕は冷蔵庫のミネラルウォーターをコップで拝借する。
その後、一時間働くと、客がいなくなった店内で「今日は迷惑かけたわね」とスーツに着替えたママが僕をねぎらった。「いえいえ」と僕がにっこりすると、「このあと一緒に、ラーメンでも行かない?」とママがウインクしてくる。
僕のことは気に入ってくれてるんだよなあ、とか思いつつ、「ママのおごりですか?」と訊くと「もちろんよ」とママは笑う。「じゃあ、ご馳走になろうかな」と僕は立ち上がり、ママはカウンターから瑞砂くんに戸締まりを頼んだりすると、「行きましょ」と僕を連れて〈ナーシャ〉をあとにした。
「ねえ、咲羽」
「はい?」
「あんたは、紗鈴のことどう思う?」
「紗鈴ちゃん……ですか」
「なあんか、ねえ。雇ったの失敗だったかしら」
夜の街の喧騒の中で、ママは憂鬱そうにため息をつく。
名残るイルミネーションが、暗い空にふわふわ浮かんでいる。空気は蒸していても、夜風はこの時間帯なので少し涼しかった。
「どうも使えないのよね。結局、裏方は瑞砂がいないと成り立たないし」
「まあ、今はそうかもですけど」
「成長するかしら?」
「彼女なりに頑張ってるとは思いますよ」
「そうかしらね。せめて、お客様に迷惑をかけるミスはやめてほしいわ」
「今日のあれはまずかったと僕も思いますけど」
「でしょう? いつになったら、ボトルぐらい憶えるのかしら」
「紗鈴ちゃんは自分では飲まないみたいだから、余計区別がつかないみたいですね」
「一度、べろべろになるまで飲ませたらいいかしら」
僕は笑ってしまい、「それはどうせ記憶飛びますよ」とやんわり止めておいた。「それもそうね」とママも笑ったあと、「あたしはオカマだから」と少し哀しそうに言った。
「紗鈴のことをこんなふうに言うと、女のあの子に嫉妬してるみたいよね。嫌だわ」
「僕はそう思いませんよ」
「だから、あんたに愚痴ってるんじゃない」
「はは」
「あたしはママとして意見してるつもりだけど、はたから見たらやっかんでるみたいなのかしら」
「そんなふうに感じた人は、また飲みにきたりしてくれませんよ。大丈夫です」
「ふふ、ありがとう。咲羽がいると心強いわ」
「男ですからね。女のママは僕を頼っていいんですよ」
ママが僕の肩に頭を乗せて微笑んだとき、ふわりとラーメンの匂いがただよった。
ママはここの常連だ。僕もたまにママとやってくるので、「おっ、今日は連れてきたのかい」と大将がラーメンを湯がく湯気の中でにかっと笑う。
カウンターに座った僕もママも白湯を注文して、周りの男からちらちら来る視線に「いい気分ねえ」なんて笑いあう。
ママも悩んでるんだよなあ、と僕は氷がからんと響くお冷やを飲む。紗鈴ちゃんばっかり目の敵にしやがって、と思うときもあるけれど、僕はそれを性別への嫉妬だとは感じない。上司として小うるさいなあとは思うけど。
残念ながら、紗鈴ちゃんがそれだけできないのも事実なのだ。頑張っていると思う。だけど、いつまで経っても実りにならない。
結果が出なくても努力している、なんて甘い言葉は夜の世界にはない。すべては結果だ。どれだけボトルを空けたかだし、どれだけ速やかに片づけたかなのだ。
それは僕だって分かっているから、ママが紗鈴ちゃんの処置に悩むのも分からなくはない。
僕は紗鈴ちゃんには辞めてほしくない。辞めたら僕たちに接点はなくなる。連絡先は、一応同僚として登録しているけれど、一度もメッセをやりとりしたことはない。辞めた途端に、メッセを送りつけるようになるのも変だろう。
瑞砂くんとはメッセしたりするのかな、と考えると胸が焦げてもやもやした。ママみたいに、紗鈴ちゃんも僕に愚痴ってくれたらいいのに。けれど、紗鈴ちゃんが話を聞いてほしいのは、きっと瑞砂くんなのだ。
僕としては、瑞砂くんがめちゃくちゃ邪魔なのだけど、キャストとしてはやはり彼を頼りにしてしまう。紗鈴ちゃんに任せるのは、心許ない。
紗鈴ちゃんが一人前になったら何よりなのだ。ママも雇ったことにほっとするし。瑞砂くんがいなくてもよくなるし。でも、それは無理なんだろうなと感じる。いろいろ耐えて一人前になる前に、紗鈴ちゃんが辞めてしまう確率が高すぎる。
次の日、僕は少し紗鈴ちゃんと話ができるかなと期待して、早めに〈ナーシャ〉に出勤した。服やウィッグはバッグにつめこんで、男の格好でやってきた。通りに面した階段をのぼり、〈ナーシャ〉のドアノブに手をかける。
開いている。紗鈴ちゃんと話したくて早く来たけれど、瑞砂くんしかいなかったら気まずいな。
少し覗いてみよう、とそっとドアに隙間を作り、耳をそばだてて中を窺った。
「私、辞めたほうがいいんでしょうか」
音楽のかからない店内に、そんな紗鈴ちゃんの小さな声がした。思わしくない言葉に眉を寄せる。
「辞めたいんですか?」
瑞砂くんの声だ。
僕は舌打ちしそうになる。あー、くそっ。紗鈴ちゃんの相談を聞く役、先越された。
「辞めても、次がないですから」
「何か見つかるかもしれませんよ」
「………、ママは辞めてほしいみたいですね」
「ママのことは、咲羽さんが昨夜フォローしてくれたと思います」
「私、ここにいると迷惑ばっかりで。瑞砂さんがいないと、何もできないのと同じです」
「そんなことないですよ」
「瑞砂さんは、私のこと邪魔じゃないですか」
「邪魔とは思ってません」
紗鈴ちゃんは瑞砂くんに「必要だ」とか「続けてほしい」とか言ってほしいのだろう。しかし、瑞砂くんはそういう甘い言葉は発さない。
ほんとにつれないなあ、と僕はそっとドアを閉めて、そのドアに背中を預けてうつむく。夕暮れにネオンが灯りはじめ、夏風がねっとりと肌を舐めていく。
僕なら言ってあげるのに。この店にいてほしい。辞めないでほしい。いくらでもかばってあげる。なのに、紗鈴ちゃんはどうして、あんなにそっけない瑞砂くんが好きなのだろう。
僕が男って思われてないのかなあ、と息をつき、女装するだけで男なんだけどな、とスニーカーで地面を蹴る。男のすがたも、こういう出勤時に見ているはずなのに。
紗鈴ちゃんは、僕には若干臆したような態度を取る。僕もしかして怖いかな、と蒼ざめ、こんなにかわいいのに、と我ながら思う。いや、女の子からしたら、女の子よりかわいい男なんて複雑なのか。
どうやったら、紗鈴ちゃんに近づけるのだろう。冷たい瑞砂くんなんかじゃなく、僕を頼ってくれるのだろう。
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