愛らしくも凛々しくて
十八時をまわって、女装の準備もあるから、今度は僕は「おはよー」と何も聞いていないそぶりで〈ナーシャ〉に入った。「おはようございます」と応じた紗鈴ちゃんと瑞砂くんは、カウンターの中にいる。
瑞砂くんは煙草を吸い、相変わらずやる気のなさそうな顔をしている。僕はカウンターの前を横切ってスタッフ専用のドアを開け、カウンター内に入る。
紗鈴ちゃんが僕を目で追って、物言いたげにしていたので、「何?」と僕は笑顔を見せた。紗鈴ちゃんは何か言いかけても、結局は顔を伏せて、首を横に振った。「昨日、ママの愚痴とか大丈夫でしたか」と瑞砂くんが紗鈴ちゃんを察して言ってきて、「ああ……」と僕は女装一式のトートバッグを肩にかけなおす。
「ママの話を聞くのも、僕の仕事だと思ってるし」
「紗鈴ちゃんのこと、何か言ってましたか」
「多少ね。でも、僕は頑張ってると思うって言っておいたよ」
紗鈴ちゃんが顔を上げ、「何かすみません」と消え入りそうに言った。「何で謝るの」と僕は咲う。
「紗鈴ちゃん、ほんとに頑張ってるじゃん」
「でも、ぜんぜん役に立ってないですし」
「いいんだよ、そりゃあママは上司だから、あれこれ言うときあるけどさ、僕は紗鈴ちゃんのペースでいいと思ってるし、瑞砂くんだってそれ分かってカバーしてくれてるでしょ」
紗鈴ちゃんは僕を見て、それから瑞砂くんを見た。瑞砂くんは煙草を吸っていて何も言わないけど、視線は返す。紗鈴ちゃんはうつむき、「ありがとうございます」とかぼそく言った。
セットもスタイリングもされていなくて、さらさらな紗鈴ちゃんの頭をぽんとした僕は、「じゃ、用意してくる」とカウンター奥の衣装部屋に入った。
ここにはママの貸し衣装も詰めこまれ、狭苦しくも姿見や鏡台がある。僕はまず、ローズのぴったりしたミニワンピースを着て、ウエストに黒の細いベルトをまわした。太腿に蝶がちらつくタトゥータイツを穿き、黒いピンヒールに足をさしこむ。
それから、レッドが基調の化粧を施し、カールがかかった腰までのウィッグを固定する。何度も鏡を覗いて仕上がりを確認すると、「よし」と僕は荷物はこの部屋のロッカーに入れ、スマホだけ持ってクーラーとジャズのかかりはじめた店内に出た。
客が来るまで、僕はスマホで営業して、瑞砂くんは煙草をふかし、紗鈴ちゃんは昨日の失敗をかえりみたのか、棚の前で必死にボトルを憶えようとしていた。
そういうとこ好きなんだよなあ、と思って、『今、僕は恋をしている。』と何の脈絡もないメッセを泪音に送った。すぐ既読がつき、しばししてから、『今夜、美苗と雅乃と飲むけど来る?』と完全スルーの返事が来た。
美苗も雅乃も泪音の後輩で、仲がいいなあと思っていたら最近つきあいはじめたふたりだ。美苗がネコで、緩いウェーヴの長い髪をツインテにして、よく女の服でステージに上がっている。雅乃はタチで、美苗よりは先輩だ。茶色の短髪に色香のある瞳、引き締まった筋肉の軆つきでネコの客からの人気がすごい。
ショウでは踊り子が絡むステージもあるのだけど、その中で雅乃が美苗に惚れて、美苗も雅乃を素敵だなあと見ていたらしい。「雅乃に惚れてた子って絶対ほかにもいるでしょ」と僕が言うと、「仕事だから意外とそういうのはないよー」と泪音は肩をすくめていた。
『仕事終わったらピーチ行くよ』
僕がそう返信すると、了解のスタンプが来た。アフターにならないといいな、と思っていると、「こんばんはー」とドアが開き、僕は笑顔を作って立ち上がり、「いらっしゃいませ」とその客に駆け寄る。
見憶えのある常連で、いつもひとりで飲みにくる人だった。五十代ぐらいだろうか。
「ママは?」と訊かれると、「同伴なので、二十時半ぐらいに来ます」とおしぼりを渡す瑞砂くんが答えた。「そうかあ……」と客が少し迷うそぶりを見せたので、僕はにっこりして「今なら僕をひとりじめですよ」にさりげなく腕を絡めた。
さいわい、客はそれに誘惑されて、店に入ってくれた。ママ目当てに来るということは、上客のはずだから、騒ぐ接客でなく、もてなす接客を心がける。瑞砂くんがボトルを持ってきて、水割りを作ったあと、「僕もいただいていいですか?」と確認して、「飲みなさい」と言ってもらってから自分のぶんを作る。
僕の所作を眺め、「男か女か分からんなあ」と笑った客に、「僕はこう見えるだけで、中身は男ですよー」とにこにこする。
「じゃあ、好きなのは女性になるのか」
「うーん、どっちもいけます」
「ははっ。ママがよく君のことを話してるよ」
「えー、怖いですね。ママ厳しいから」
「ママは君のことを褒めていたよ。飛んだりしたらショックだと言っていたから、ママを裏切らないでやってくれ」
「ふふ、ありがとうございます。僕も〈ナーシャ〉で働いてるのは楽しいので、大丈夫です」
にこやかに会話していると、やがてママが同伴の客と共に現れた。同伴したら、基本的にその客が帰るまで席は移らない。だから、僕が応対する客にも挨拶だけしてママは席にはつけなかったものの、僕と話しているだけでもその客は満足してくれたようだ。
帰り際にはママと少し話し、僕が見送りをすると「楽しかったよ」と一万円をチップとして渡してくれた。僕はその客が歓楽街の光の中を消えるのを見守ったあと、一万円ににやにやしてしまった。
こういうのは、ママには別に言わなくていいと自己判断している。これで今夜は飲めるぞ、なんてわくわくしながら、僕は階段をのぼって〈ナーシャ〉に戻った。
その日は、午前二時になる前に客がはけてしまったので、僕は上がっていいとママに言われた。「お疲れ様ですー」といつも通りグラスを洗う紗鈴ちゃんや、テーブルを片づけてまわる瑞砂くんに声をかけ、荷物を持って〈ナーシャ〉を出た。
抜けた風に、ふっと酒と煙草の煙たさから解放される。外の空気は生温く、通りはまだ騒がしかった。
人をよけて歩きながら、『今から行くよ』と泪音にメッセを送っておくと、『ちんこはでかいほうがいいよね?』とわけの分からない返事が来た。これかなり酔ってんな、と思いつつ、『僕が行くまで起きててよね』と返しておいた。
〈ピーチィミルク〉では、案の定泪音が酔っ払って、それに加えて、美苗と雅乃もそこそこ酔っていちゃついていた。「あ、咲羽ちゃん、来てくれたのね」とマスターが僕のすがたに救われた顔になり、「この子たち、どうしたものかしら」とカウンターを占領する三人を見た。
僕はふうっと息をつくと、まず泪音から首根っこをつかんでボックス席に移した。ソファに倒されて、「あーん、優しくー」とか言っているけれど、無視する。美苗と雅乃は、ところ構わずキスを交わしているので、客が見たらどうするんだろうと思いつつ、「リア充爆発ー!」とふたりの耳元でぱんと大きく手をたたいた。
びくりとした美苗を、「よしよし」となだめた雅乃は、僕を認めて「あー、咲羽さん」と酔った口調で言う。「とりあえずカウンターでいちゃつくのはやめようか」と僕が言うと、ふたりは顔を見合わせ、仕方なさそうに泪音がいるボックスに移った。
「鮮やかねー。惚れるわー」と言ったマスターに苦笑して、ミモザを注文すると、僕もそのボックスのソファに座った。
「咲羽あ。遅いよお」
泪音は僕の膝に頭を乗せ、ろれつのまわっていない舌で言う。
「今日は早く上がったんだけどね」
「美苗と雅乃がいちゃいちゃするよお。悔しいよお。僕もエッチしたいよお」
「カップルと飲んでたらそうなるでしょ」
「僕が先輩なんだから、気い遣ってよお」
「と、泪音はこう言ってるけど」
美苗と雅乃は手をつなぎ、もたれ合いながら「泪音さん、さっきからナンパはされてるんですよ」と雅乃が言う。雅乃はかっちりしたスーツすがたで、美苗はピンクのレースのワンピースを着ている。泪音はジャージみたいな格好をしている。
「泪音、今夜はナンパにはついていかないの?」
「だってえ、咲羽が来るじゃん」
「待っててくれたの」
「そうだよー。いい子ですか?」
「いい子ですねー」
泪音の髪を撫でると、「ふふっ」と泪音は嬉しそうに咲う。
「咲羽さんと泪音さんって、つきあわないんですか?」
美苗がそう言って、「僕たちは友達だからねー」と僕は泪音の頭をぽんぽんとしながら言う。
「やろうと思えば、まあ、僕がタチできるんだけど」
「咲羽さんがタチ……」
「泪音は挿れたことないからね。男にも。完全にバリネコ」
「やだあ咲羽、そういう話、堂々と話さないでよお」
「隠してる話じゃないじゃん。てか、美苗と雅乃、順調にいってるんだね。オーナーさんに怒られたりしてない?」
「理解してもらってます」と雅乃が美苗の髪を指にもつれさせながら言って、「私もみんなに応援してもらえてますー」と美苗は頬を染めながら言う。
「美苗は、雅乃ファンの子に嫉妬されるかと思った」
「俺から美苗に惚れたんで、みんな分かってくれてますよ」
「そんなもんか。ま、よかったね」
「咲羽さんは、好きな人いるんでしたっけ」
「女の子がねー。でもその子、ほかの男が好きだし」
「咲羽さんイケメンだから、女装せずに迫ったらいいと思うんですよね」
「私もそう思う」
「そうなのかなあ。でも、僕は女装してる自分のほうが、好きなんだよなあ」
「分かってもらいたい的な」
「それもある」
「咲羽さん、女の子よりかわいいですもん。私とか、女装だなって分かるけど。女の子からしたら、自分よりかわいい男子って複雑じゃないですか?」
「紗鈴ちゃんもかわいいんだけどなあ。ほんとに、かわいいんだけどなあ」
「二回言った」と雅乃がグラスを手に取っていると、「はあい、どうぞ」と僕が注文したミモザをマスターが持ってきた。コースターの上に置かれた鮮やかなオレンジ色のカクテルを、僕は取り上げて口をつける。
何か静かだなと思ったら、泪音は僕の膝の上で眠りこけていた。しょうがないなあと思いつつ、そのままにしておいて僕は静かにカクテルをすする。
そのあいだに視線を絡めあった美苗と雅乃は、また口づけを交わしたり、甘くささやきあったりを始めた。「帰ってセックスしちゃったら?」と見ていて焦れったかったので僕がそう言うと、四時近い時刻を確かめて、「じゃあ帰る?」「私の部屋来る?」とか見つめあって話した美苗と雅乃は、正直に僕と泪音を残して会計すると、〈ピーチィミルク〉をあとにした。
泪音は僕の膝ですやすやとしている。気持ちよさそうに眠っているので、まあいいか、と僕はスマホを取り出し、SNSを見たりして時間をつぶした。
泪音が目を覚ましたのは、午前六時をまわった頃だった。うめいて寝返りを打ち、「頭痛いー」と僕のお腹に顔を押しつける。「バカみたいに飲んだんでしょ」と僕がTLをスワイプしながら言うと、泪音は顔を上げ、「咲羽あ」と腰にしがみついてくる。
「ああん、何かもう、美苗と雅乃がべたべた見せつけてきてさあ」
「それは、さっきも言ってた」
「はあ、僕も恋はしたいんだけどなあ。恋ってどんな感じだったかなあ。んー、てか、あのふたりは?」
「明け方のセックスは燃えるよね」
「あー。帰ったの?」
「うん」
「支払いしていった?」
「してたよ」
「焦った。おごるとは、僕、言ってないからね。あーあ、いいなあ。うらやましいなあ。僕、このまま枯れちゃったらどうしよう」
「もうちょっと、ゲイと寝るようにしたら?」
「ノンケが落ちるのかわいいもん! あの、『あれ、俺、意外といける?』って感じの表情、マジたまんない」
「性癖かな」
僕がスマホから目を離さずに言うと、「はあ」と泪音は仰向けになってため息をつく。
「もうね、ノンケにお前だけは好きなんだってガチ惚れされたい」
「BLだね。それたぶん、結局女に浮気されるから」
「分かってるよ。ううーん、僕はきっと添い遂げるような恋をしたいんだよね。歳取ったら若い男に走りそうな奴とは、恋愛したくないんだよ」
「泪音は若い男に走らないの?」
「走らないよ! 僕、フリーだからふらふらしてるけどさ、つきあったら一途なんだから」
「ふうん」
「咲羽はいつか若い子に走る?」
「僕は走らないと思うけど、男の娘として劣化して相手が走ることはあるかなと思う」
「男の娘やめて、男になればいいのに」
「男の娘はやめないよ。変態女装親父と呼ばれるようになっても」
「えー。妖怪みたい」
「実際、いつか妖怪になるだろうね。でも、男の娘が僕のアイデンティティみたいなもんだし。女装をやめたら、僕じゃないよ」
泪音がじっと僕を見つめてくる。「何?」とやっとスマホから目を離して視線を重ねると、「だから、好きな子の前でも男の娘のままでいたいんだね」と泪音は優しい瞳を見せた。
僕はちょっと咲って、「そういうこと」と泪音の額をさする。「やっぱ男前だよね」と泪音はくすりと笑いながら起き上がると、ソファに沈んで脚を投げた。
「咲羽のそういうとこ、わりと尊敬してるよ」
「そう?」
「かっこいいよね。かわいいのにさ。ふふ、咲羽みたいに、僕も今の仕事頑張りたいなー」
「応援してる」
「ん」とうなずいてから、泪音はにこっとする。僕はそれに咲い返し、「お水飲んだら帰ろうか」と言った。「そうだねー」と泪音はあくびをして、僕はマスターにミネラルウォーターをお願いする。
僕たちはきりっと冷えた水で頭を覚ますと、「よし」と立ち上がって、夏のまばゆい朝陽が満ちきる前にそれぞれ帰宅した。
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